第124話 諍い

 仲介業者の川谷さんは購入する家の契約、決済に関する手続きを滞りなく進めてくれていました。すべて初めてのことばかりで、乗り切るには胃の痛くなるような緊張に襲われましたが、ナミさんがすべてわかっていて、現金と印鑑、必要書類さえ用意できれば問題なく済みそうでした。


 その日が近づくにつれ、早く成田さんに話さなければと心が落ち着かなくなりました。ある日私はとうとう勇気を出して、彼に伝えました。


 この日は外で楽しく夕食を頂きました。前にも連れて行ってもらったことのあるイタリアンレストランで食事をして、素敵な時間を過ごせました。そのまま成田さんの家へ帰り、互いに上機嫌なまま食後酒をいただいていました。


「ところで・・・実は私もとうとう収益物件を購入します。私にも買える良い家が見つかって。これからまた忙しくなりそうです・・・」


 極力さり気ない調子で、大それたことでもない風を装って切り出しました。


「収益物件?ゆりかが・・・?まさか、ナミのやっているような家ってわけじゃないよね?」


 成田さんは怪訝な顔をしました。私の買える物件があるとすれば、ナミさんの手がけるようなものしかあり得ませんでした。わかっているはずなのに、と苦笑しました。


「もちろん、ナミさんみたいなやり方です。私はそうするしか・・・隼人さんのように大がかりな物件は買えませんから・・・古くて可愛いお家です。まだかわいい状態とは言えませんけど、修繕すれば良くなるので・・・」


 私は話し続けましたが成田さんは黙り込んでいました。きっと、気に入らないのだろうと予測はついていました。


「英語講師も収入的には不安定で・・・古い家でも貸しに出せば月収が上がるでしょう?そうなれば仕事のスケジュールも余裕を持てるかなと思って・・・だからそれまで頑張りたいんです。」


 今後の生活に関わる大きな決断でしたが、成田さんの気分を害したくはありませんでした。慎重に伝えるつもりでした。


「前から言っているけど、ナミのようなやり方は効率的ではないし、ゆりかまでがそんなリスクの高い方法に手を出すことを良くは思っていない。もう申し込みはしているの?」


 苛立ちを抑えたような声でした。表情も硬く、冷ややかな眼差しでした。


「ナミさんが価格交渉もしてくれて、今週、契約の予定です。本当は怖くてやめようと思ったけど・・・簡単に決めたわけじゃなくて、ひとつひとつ疑問を解決しながら考え抜いて決めたんです。キャンセルするつもりはありません。」


 たとえ成田さんに反対されても、ようやく手に入れつつある初めてのチャンスを手放すつもりはありませんでした。


「ゆりかの決めたことに反対しようとしているわけじゃないけれど・・・そんな古い家はメンテナンスも大変だよ。自力で修繕なんてひどく時間がかかるだろうし。だったらせめて、私の方で修繕の手配をしようか。懇意にしている業者もいるし、信頼できるところだから。ゆりかがオーナーになったお祝いってことで、費用は気にしなくていいよ。」


 成田さんの言葉の意味がよくわかりませんでした。正確には、意味がわからなかったというよりも、彼と自分の感覚が違っていて、すぐに返事ができませんでした。


 有難い申し出でしたが、それでは違うのです。成田さんは修繕を業者に依頼するのが当然と考えていますが、多額の費用がかかることでした。それらを自分たちでなんとかしながら利回りを上げるスタイルですし、今後のためにも大切なことでした。


「そんなの、いけません・・・業者を使ってしまうと何十万円もかかるんですよ。自分たちでやれば材料費だけで済みます。時間はかかりますが、そうやってナミさん達が頑張っているのを見てきたんです。私だけが、成田さんの力で業者に頼むなんてできません。それに、集まって作業するのも楽しみなんです。キレイな仕事じゃないですけど、いろんな修繕の方法に挑戦するのも面白いので・・・」


 修繕費を出そうとしてくれる気持ちは嬉しかったのですが、ずっとナミさん達を見ていた私がそんなやり方をするわけにはいきませんでした。


「・・・そう。やっぱりね、ゆりかは収益がうんぬんと言うより、彼らと一緒にやりたいわけだ・・・それが楽しいんだよね。ナミ達といることが、それがゆりかの目的になっているんじゃない?」


 成田さんの言葉は冷たく響き、突き刺さるようでした。彼はやはり、ナミさんに嫉妬している・・・?そう頭によぎりました。


「隼人さんこそ、嫉妬しているの?私やナミさんを信頼してないからそんなことばかり言うんでしょう?彼は、そんな人じゃないのに・・・!」


 私もつい感情的になって、冷たく言い返しました。なぜこのように気を遣わなければならないのかと苛々しました。


「私があいつに嫉妬するわけないだろう。雇っている人間でしかない。でもゆりかに親しくして欲しいとも思わない。」


 嫌な言い方だと思いました。彼は社員の方達との関係は悪くないと思っていましたが、まるで見下しているかのような口ぶりでした。あるいは私の態度や行動のせいでそうなってしまったのでしょうか。


「お前は、あいつのことが好きなの?」


 責めるように見据えられ、鋭い声をぶつけられました。思わず言葉に詰まり、沈黙しました。なぜこの時、否定することができなかったのでしょう。取り繕うための言葉も出ませんでした。


 彼の腕が上がったかと思うと耳障りな音がして、グラスが床に砕けていました。先ほどまで飲んでいた食後酒のグラスを投げつけたのです。欠片が無残に散っていました。


「やめて・・・」


 やっと、小さな声で言うと、彼は私のグラスも床に投げつけました。ふたたび嫌な音が部屋中に響き渡りました。


 心に刃物を投げつけられたような気がして、衝撃に身がすくみ呆然としていました。


 なにが、起こっているの・・・?


 自分の見たものが信じがたい思いでした。


 どうしてこの人は、こんな風にするの・・・?


 これが、私の選んだ人・・・?


 言い知れぬ失望が私の内側に広がっていました。


 気まずい沈黙の後、いたたまれずに砕けたグラスの破片を拾おうとしました。次の瞬間、鋭い破片の先が手に触れました。痛みよりも先に、紅い血が指に浮かび上がっていました。


 壊すのは、やめて・・・


 誰にも聞こえないような声でしかありませんでした。


 私が、壊した・・・?


 私が、傷つけた・・・?


 言いようのない苦々しさ、胸苦しさも、私の招いたことかもしれませんでした。


 鈍くて重い、傷ついた空気の中で、途方に暮れていました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る