第90話 変化
「メニュー見る?ここ、料理もいいよ。調理の人がいろんな店を経験していて、おすすめもあるけどね・・・でもゆりかの好きなの選んで。」
手渡されたメニューは写真もあり、どのお料理も美味しそうでした。品数も多く、選ぶのに迷いそうでした。
「あ、そういえば、パリではいろいろご馳走になりましたから、今日は私が払います。もう仕事もしていますし。」
成田さんには何度もご馳走になっていました。特にフランスへ旅行をしたときはずいぶんお世話になったので、ささやかながらお返しできるチャンスかと思いましたが、成田さんは微妙な顔つきになりました。
「うーん、ゆりかってそういう事言うの?気にしなくていいんだけど・・・一応会社やっているし経費にしますよ。」
あっさり断られてしまいました。成田さんはやはり、余裕があるのでしょうが・・・不意に須藤のことを思い出していました。
「前にゆりかの家でお鍋をご馳走になったし、また呼んでくれたら嬉しいけど。私は古い人間なのか、女性におごってもらうとか変な感じするし・・・そういうの、いいから。」
いくぶんフォローするかのように、成田さんは付け加えました。
「そうですか・・・わかりました。お鍋で良ければまた企画しますね。成田さんの好きな食材教えていただけたら準備しますから。」
「それはありがたいね。次はふたりだけならいいけど・・・でも生徒さんも呼びたいんだよね?いい子たちだったし、それはそれで楽しいけど。」
成田さんは薄く笑って答えました。どうしたわけか、複雑な気持ちになりました。成田さんをお誘いするならば生徒さんにも来て欲しかったのですが、かすかに、心のどこかで彼をひとり占めしたいような気もしました。
わずかながら、そのように感じた自分に驚きました。私はやはり成田さんに惹かれているのでしょうか。
スポーツジムで初めて見かけた時から、彼に興味を抱いていました。ですが妖しいほどの優雅さや存在感の強さに気後れするばかりで、遠くから眺めていただけの人でした。遠巻きに、秘かに見ているだけで良かったのに、なぜだか彼は私に近づいてきました。
洗練された彼の外見に惹かれながらも、苦手な気持ちもありました。自分からは近寄りがたく、きっと遊び人に違いないだろうという先入観もありました。心惑わせられ、遊ばれてしまうのではというおそれが常にありました。
でもこの人は意外と優しくて、どこか不器用で率直で、最初のイメージとは異なる部分もありました。人と丁寧に接していて、私にもいつも良くしてくれました。
好意は感じていましたが、私は男性と親しくなるのを無意識に避けていたように思います。心のどこかで強い拒絶感を持っていたとすら言えるかもしれません。
それでもいつしか、男性への屈折した思いは薄れていたような気がします。前の職場を退職し、ひどく落ち込んだ時期もありましたが、それからは人との出会いとそれぞれの場所で好ましい人間関係に恵まれ、人に対する信頼や安心感が強まったのだと思います。私は多くの人に助けられ癒されていました。
成田さんのことを、もっと素直に好きになっても良いだろうかと思い始めていました。彼に惹かれるのが怖い気持ちと、近づきたい気持ちとで揺れ動いていました。
「ゆりか、食べもの決まった?先に飲み物かな。カクテルもあるし、料理によってはワインもいいし・・・」
成田さんに声をかけられ我に返りました。
「どれも美味しそうですね。キッシュが好きですけど・・・サーモンとほうれん草のキッシュか、きのことベーコンにしようか迷いますね。」
ふとあらためて、良い時間を過ごしているのだと気付きました。このような何気ない時間が幸せで楽しく感じられました。
「私も好きだから両方にしようか。キッシュね、私も作れるんだよ。以前、梶の家に泊まったときね、ソフィーに教えてもらったから自信あるよ。」
成田さんはちょっと得意そうに眼を輝かせました。
「成田さん、お料理できるんですか?ソフィーさんに教えてもらったなんて、絶対おいしそうですね!」
パリで訪れた梶さん夫妻のお宅を思い出し、懐かしくて嬉しい気持ちになりました。奥さんのソフィーさんは本当にお料理上手で、フランスの家庭料理をふるまっていただき特別な時間を過ごせたのでした。
「今度、ご馳走しようか。忙しいときはやらないけど、料理は嫌いじゃないから時間のある時は自炊もしてるよ。」
「意外と家庭的なんですね・・・ソフィーさん直伝のキッシュ、おいしいでしょうね。ぜひ、食べてみたいです。」
何気なく伝えつつも、心はときめいていました。
「いいよ、けっこう簡単だしね。キッシュならワインを飲みたくなるね。今日は白にしようかな。あとはサラダとか、お肉系もいろいろあるよ。」
「成田さんの好きなメニューやおすすめも選んで下さいね。手堅いでしょうから。」
急に心が軽くなった気がしました。成田さんを好きになって良いのかもしれない。彼に惹かれているこの気持ちを大切にしたいと感じられ、そんな自分の変化が不思議に嬉しいのでした。
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