第64話 非正規雇用

 スポーツジムへ出向いたのはやや久しぶりのことでした。トレーニングマシンで運動していた成田さんを見つけどきりとしました。遠くから見ても、彼のまわりはどこか空気が異なるような気がしました。


「成田さん、ご無沙汰しています。しばらくお見かけしませんでしたね。遅ればせですが、パリでは本当にありがとうございました。」


 近寄りがたい雰囲気があり、声をかけてよいものか迷いましたが、勇気を出して話しかけてみました。


「・・・ゆりか先生?お久しぶりですね。最近、会いませんでしたね。タイミングが合わなかったのかな?また避けられているかもしれないと思ったんですけど・・・」


 成田さんは驚いた風な、どこかぎこちない様子でした。


「そんなことないです。最近、いろいろあって忙しかったんです。就職活動もしていましたし・・・でも、とうとう仕事が決まったんです。やっと落ち着きました・・・!」


 しばらく仕事が決まらないことで気持ちが焦っていて、スポーツジムへ足が向きませんでした。英語教室での職が決まったことで心が軽くなり、出かけたい気分になったわけでした。


「今度は私が、成田さんにご馳走したいと思っていたんです。仕事も決まりましたし、パリでは随分お世話になりましたから。近いうちにぜひ何かお礼をさせて下さい。」


 無職の人にご馳走になりたくない、と言っていた彼の言葉を覚えていました。それもそうかと納得しましたが、もし仕事が見つかったら、お返しをしたいという気持ちはありました。


「・・・私に?ゆりか先生が?そんな、お礼なんていいですよ。そんなつもりはなかったし・・・むしろ就職のお祝いをさせて下さい。」


 成田さんは意外そうな、微妙な顔つきでした。


「どんなお仕事に決まったんですか?」


「それが、もともと個人レッスンを担当させていただいていた英語教室の事務なんです。パートタイムですけど・・・とても素敵な教室で、大好きな場所なんです。先生たちや生徒さんもみんな良い方ばかりで。」


 教室での仕事は正職員ではありませんでした。週に3~4日、他の事務スタッフの方と日数や時間を調整しつつ、引継ぎも含め翌月半ばから勤務が始まる予定でした。


「ん、パートタイム・・・?アルバイトということですか?英語の先生ではなく、事務のお仕事なんですか。」


 どことなく、いぶかしげな表情で聞き返されました。


「そうですね、パートというか、アルバイトというか・・・事務や雑用が主な仕事ですがある程度まとまった時間の勤務になります。私がカフェで教室をしているのもご存じなので、いろいろ融通をきかせてもらえますし・・・他の先生たちも、複数の場所で教えているフリーランスの方が多いですよ。」


 収入的には以前の会社員の頃よりもかなり少ないものの、すでに馴染みある場所で働けるので嬉しく思っていました。フルタイムよりも時間の都合がつけやすく、カフェでの教室も無理なく続けられそうでした。英語講師の収入と合算しても生活するにはぎりぎりのところでしたが、まだ貯金も残っていましたし大いに気持ちが軽くなっていました。


「なるほど・・・パートタイムとか、フリーランスとか、実際どうなんですか?生活してゆけるものですか?ご実家が裕福だとか?」


 仕事の決まった報告ができるのを楽しみにしていましたが、どこか微妙な成田さんのリアクションに困惑しました。


「え?いいえ・・・父はふつうのサラリーマンです・・・でもたまに野菜を送ってくれたり、そうですね、少し援助してもらう時もありますね。まあ基本的には節約していればなんとか・・・」


 怪訝な表情で尋ねられ、少々きまり悪く感じました。私は仕事が決まって浮かれ気味でしたが、他人からすれば不安定に見えたのかもしれません。


 冷静に考えれば、日々生活してゆくには十分な収入とは言い難い状況でした。それでも英語教室で働くメリットはいろいろありました。他の先生の授業を見学したり、会話サロンに参加するのも無料でしたし、教材の図書やCD、DVDなどを借りることもできました。事務作業も英語に触れる機会が多く、私にとっては魅力的な職場でした。


 今後も英語講師を続けるつもりでしたし、大いに好ましい環境でした。とはいえお給料の点では、いまだ心もとないのも事実でした。

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