第54話 移動

「ボンジュール、ゆりか先生。よく眠れましたか?」


 ホテルのチェックアウト手続きをしていると、背後からハスキーがかった低い声がしました。振り返ると、薄い色のサングラスをかけた強面の男性の姿にぎくりとしました。やくざかと思って一瞬怯えましたが、時間通り迎えに来てくれた成田さんでした。


 薄紫色のサングラスは日本人離れした彼の風貌に似合っていて、怖いやら格好いいやらでどきどきしました。良く言えば芸能人かのような華やいだオーラを放ちつつも、反面マフィア に見えなくもない紙一重さでした。


 この日の朝はこれまで滞在していたホテルをチェックアウトしました。今回の旅行は10日程度の滞在でしたが、別の宿にも泊まってみたかったのと、オペラ座周辺は帰りの空港行きのバス停も近く便利でした。


 最初からオペラ座近辺のホテルにしたかったのですが、ホテル代もかさむので、前半は宿泊費の安いところを選んでいました。


 パリにはキッチン付きのアパルトマンタイプの宿も多くありましたが、チェックインやチェックアウトのしやすいアパートメントホテルを予約していました。朝の移動でチェックイン時間よりも早かったので、スーツケースのみを預かってもらいました。


「ゆりかの泊まる部屋も見てみたかったな。アーリーチェックインにすれば良かったのに。」


 成田さんは今回のアパートホテルまでスーツケースを引いて移動してくれました。徒歩で10分程度の距離なので自分でも移動できたでしょうが、やはり一緒に来てくれたのは有難いことでした。


「でも、すぐに観光に出かけますし。お金もかかるし勿体ないじゃないですか。ややこしいことを頼むのも苦手ですし。」


 そのように返事をしつつ、本音としては部屋に彼を呼ぶことは警戒していました。


「そういうことなら、私が払っておこうか。受付の人に聞いてみる?」


 しまったと思いました。成田さんには婉曲な表現が通じにくいのを思い出しました。


「いえ、だから女性が泊まっている部屋に男性を入れるのはまずいでしょう。」


 仕方がないのではっきり言いました。この人に遠まわしに言うことは誤解のもとでした。


「なんだ、そういうこと・・・?ゆりかって用心深いね。そうか・・・ゆりかって古風な人だね。今時珍しいタイプかもしれない。」


 昨夜は気を悪くしていた様子の成田さんでしたが、今日は紳士的でした。やはりお酒の入っていない方が理性的なのでしょうか。見た目は怖いのですが。


「アパートタイプのホテルというのも気になったんだけどね。まあいいか。」


 どことなく楽しそうに成田さんは言いました。


「ゆりかは、今日はどんな予定だったの?」


「私は昨日成田さんに付き合っていただいたので・・・今日は成田さんの行きたいところにしませんか?私はあと何日かいますから。」


「そうか・・・だったら、どうしようかな。いろいろおすすめはあるんだけど。そう言えば、昨日はセックスショップを勧めてきた人がいてね。」


 思い出したように成田さんは小さく笑いました。昨夜の自分の発言に揚げ足を取られて慌てました。


「もう、それは、確かに言いましたけど・・・ごめんなさい。本気で言ったわけではないんです・・・すみません、どうか私のことは売り飛ばさないで・・・」


 見た目がやくざなので、とりあえず謝っておきました。


「・・・ゆりかっておもしろいね。じゃあ、この案は却下として・・・そうだな、今日は天気が良いからお城にでも行こうか。私の好きなところがあって。」


 色付きのサングラスは怖いのですが、成田さんの申し出は魅力的でした。

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