第32話 高鳴り

 すぐに成田さんはお店に予約の電話をかけていました。促され、彼と一緒に歩き出した時、嫌だな、と思いました。


 そっと盗み見る彼の横顔にどきどきして、見とれてしまいそうでした。そばにいると心舞い上がったり、何気ない言葉に勝手に傷ついてしまったり、よく知らない方に翻弄されてしまうのが怖かったのです。


 ひとめぼれといったものは、嫌だなと思いました。どんな人かも知らないままで、外見に惹きつけられ、心奪われてしまうことに浅ましさを覚えていました。


 でも、優しい人みたいだし・・・


 成田さんはいろいろ言葉をかけてくれて、私もだんだんと話すことができました。そのうちすぐに目的地に着いたようでした。


「このビルの2階です。目立たないけど、ほんとに美味しいです。来たことありますか?」


「いいえ・・・知らないと来られない感じですね。楽しみです。」


 ビルのエレベーターで2階に上がるとすぐにお店のエントランスでした。上品そうな雰囲気が見て取れました。


「成田さん、お待ちしておりました。いつもありがとうございます。」


 お店のスタッフさんとは顔見知りのようでした。


「よく来られるんですか?」


「いえ、そんなに頻繁じゃないけど、知人の店なので。普段はコンビニで済ませることも多いし、ろくなものを食べていませんよ。」


 店内はシンプルな内装ながらシックで落ち着いた佇まいでした。誰だったか、野球チームの有名な選手もお気に入りらしいというお話でした。


「お腹の具合に合わせて、ゆりか先生のお好みのものを注文しましょうか。コースは多いかもしれないから、アラカルトで適当に頼みましょう。」


 私はまだ店内を見回しながら、うきうきした気持ちになりました。


「おすすめはなんですか?」


「ここは何でもおいしいけど、肉や魚など好みを伝えればその日の食材で良いものを出してくれますよ。」


「パスタもありますか?」


「パスタは絶品です。魚介の前菜もおすすめなので、注文しますね。」


 慣れた様子でスタッフさんへ声をかける成田さんは格好よく映りました。お料理に合わせた食前酒と、ワインも注文してくれました。


 ソムリエの方も親しみやすく、好感が持てました。間もなく運ばれた前菜も申し分なく、見た目も味もとびきりのお料理でした。期待が高まるばかりのパスタも噂どおりの絶品で、趣味の良いお店をご存知の成田さんを尊敬しはじめていました。お料理を絶賛すると、成田さんが微笑みました。


「ゆりか先生、美味しいものが食べたいと言ったから。気に入ってもらえたなら良かったな。」


 思惑どおりに心を掴まれ少し悔しい気もしましたが、自信ありげな笑顔にまた心を射抜かれそうでした。


「ありがとうございます。リクエスト通り、高級で美味しいお店ですね。でもそんなに贅沢しているわけではないんですよ。こういう所に来るのは久しぶりです。失業中ですし・・・」


 つい口を滑らせてしまいました。


「ゆりか先生、求職中なんですか?ご結婚は?昼間もジムに来ていましたよね?もしかして奥様でしたか?」


 意外そうに聞き返され、なぜだか決まり悪い思いでした。


「え?いいえ・・・独身です。結婚は以前していましたが・・・バツイチです。」


 急にこのような話題になって残念な気がしました。そういえば、成田さんは?見ための年齢的には既婚である可能性が高そうでしたが、今はまだ、あえて確認したくもありませんでした。


「そうでしたか。だいぶ若い頃に結婚したんですか?人妻じゃないなら良かった。お誘いしにくいから。」


 内心どう思われているのかわかりかねましたが、成田さんは笑顔を向けてくれました。


「そうですね。おかげさまでフリーです。時間がありすぎるのも考えものですが・・・でも再就職する前に、旅行は行きたいです。」


「フランスでしたっけ。彼氏とですか?お友達と?」


「いえ、ひとりで行こうと思っています。誰かと行くのも日程を合わせるのが難しいですし。」


「いつ行くんですか?彼氏とじゃないなら私も行こうかな?パリなら少しはご案内できるかも。」


 成田さんは冗談ぽく、楽しげに言いました。


「そんなこと言って、きっと来ないでしょう?ひとりも心細いので、ご一緒できたら嬉しいですけど。」


 私もつい軽く受け答えしました。本気ではないと思っていました。


「構わないのであれば、本当に行きますよ。旅行の日程を教えてもらえたら合わせて休暇を取ります。」


 気軽な口調は冗談としか思えませんでしたが、調子を合わせておきました。


「では、パリへ行く時はお知らせしますね。旅の手配も不慣れなので、いろいろ手間取りそうです。」


「行こうと思えばすぐですよ。飛行機のチケットもホテルも、簡単に予約できますし。」


 確かに、成田さんのように慣れているならば簡単なことなのかもしれません。ですがほとんど旅などしたこともない私にとって、フランスへ行くなどとは現実離れした一大事でした。


「実はまだガイドブックも買っていないんです・・・でも計画を立てるのが楽しみです。おすすめの場所を教えていただけますか?」


「パリはいくらでもおすすめがありますよ。でも初めてなら、王道のスポットが良いかも。たとえば・・・」


 成田さんは目を輝かせてパリの街について語り出しました。私は半ば夢のような心地で、その端正な顔立ちに見入っていました。それまでぼんやりとしていた旅の計画が、しだいに現実味を帯びてイメージされはじめていました。

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