第30話 消沈
「・・・ゆりか先生、英語の先生なんですね。私も外国を旅するのが好きで、語学も嫌いじゃないですよ。」
感じ良く言葉をかけてくれた笑顔に吸い込まれそうでした。彼が何か言うたびどきどきしました。低く、響きのあるかすれた声にも惹かれていました。
「そうなんですか。よくご旅行されるのですか?実は、私はあまり行ったこともなくて。英語を教えてはいますけど、初心者の方向けならなんとかという程度で、そんなにうまくもないですし・・・」
内心ひどく動転していましたが、辛うじて話すことができました。もしかすると顔が赤くなっていたりしないかと心配でした。
「・・・成田さんは、どんな国へ行かれたんですか?」
須藤と初めて営業の外回りをした頃のことを思い出しました。知らない場へ連れて行かれて、子供のように須藤の後ろに隠れたい気持ちでした。ですがいくらかの経験を積んだ今は、なんとか会話を続けようと必死でした。
「去年はイタリアへ行きました。アメリカも、中国でも、どこへでも行きます。旅行は趣味なので。」
快活に話す彼に対して気後れしていました。外国どころか国内の地域もほとんど行ったことがなく、なのに英語を教えているなどと言うのが恥ずかしく思われました。それでも成田さんが旅をした話を聞くのは興味深いひとときでした。しだいに私も少しずつ心が落ち着いてゆきました。
「海外旅行、いいですね。私は全然旅慣れてないですけど、最近は時間があるのでフランスへ行ってみたいです。まだ計画中ですが、近々実現できたらと思っているんです。」
私はずいぶん元気になっていました。少し前まで汚い部屋で引きこもっていましたが、部屋を片付けて外に出るようになるといろいろやりたいことが出てきました。テレビで見たパリの風景に心惹かれ、ある美術館の映像を観たとき、どうしてもそこを訪れてみたいと強く感じました。
失業中の身でしたが、いずれは社会復帰する心づもりはありました。そのつなぎの期間、時間とお金に余裕のできた今こそチャンスかもしれないと心をときめかせていました。
「パリは何度か行ったことがあります。また行きたいな。それにしてもゆりか先生って思ったより控えめな方なんですね。イメージと違う。」
ふと面白がるような表情を向けられ、成田さんは笑いました。
「えっ、どんなイメージだったんですか?」
思わず聞き返すと、成田さんは少し考えるような表情になりました。
「そうですね、もっと、好き勝手な感じというか・・・男に世話を焼かせてワガママを言ってそうな。あとお金のかかりそうなイメージはありますよね。」
違和感を覚える言い回しに、驚いて彼を見返しました。
「・・・そんな、イメージですか?」
成田さんは少し酔っていたのでしょうか。私はいくぶんショックを受けて、聞き返しました。
「服装や身に着けているものも高そうだし、いつも人にちやほやされていそうだし。ジムでも、すぐに男のスタッフさんがあれこれ面倒見てくれるでしょう?」
なぜだか棘のある言い回しのように感じましたが、彼の指摘は的外れでもありませんでした。実際、この頃もまだ須藤からプレゼントされた服やバッグやアクセサリーをすべて手放したわけではなく、気に入っていたものは使い続けていました。捨てたくもありませんでした。
それでも、初めて話す人にそんな風に言われるなんて。失礼だと思いました。気になっていた男性と初めて話すことができて舞い上がっていましたが、急に気持ちをそがれてしまいました。
言われてみれば、その時の自分もまだ須藤が与えてくれたものに身を包み、彼のくれたお金で生活しているようなものでした。結局今の自分も、本来の自分とは違ったまやかしの姿のままなのかもしれないと心翳る思いがしました。
返す言葉も見つからず、私は何も言えなくなってしまいました。この人はそんな私を見抜いていて、私のような人間が嫌いなのだろうか。そう感じ始めると、自分の居場所などないかのような気持ちにさせられました。
「・・・なんだか、私は場違いだったみたいですね。今日はちょっと体調もいまひとつなので、そろそろ帰ります。」
その場に居づらくなってしまい、私はぼそぼそと伝えると急いで席を立ちました。会費は支払い済みでしたから、ユキちゃんや幹事の方へ短く挨拶をして、逃げるようにその場を後にしました。
お店を後にしながら、早足で駅へ向かいました。
何をいい気になっていたんだろう・・・
ユキちゃんや、京子ちゃんや、良い生徒さんに恵まれて、そのおかげでジムの他の方も親切にしてくれましたが、みんな私がどんな人間か知らないからなのに、と思い知らされていました。
わかる人にはわかってしまうのかもしれない。他人から軽蔑されても仕方のないことを実際にしてきました。足を洗ったつもりでも、私はまだ自分の過去から抜け切れてはいないのだと。
あの人は、成田さんは私を傷つけたかったのだろうか?まだどこかで、失った過去の人を引きずっている私に冷や水を浴びせたかったのだろうか。
ようやく新しい生活に慣れ、前向きになれていたつもりだったのに、やはり私は傷ついたままでした。心脆く、泣きたいような気持ちのまま歩き続けました。
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