第8話 一夜

 前の人と寝ることは、それ以外の人と比べると壁の低いことでした。それでも貴之への憎しみが強い頃は、彼に対して冷淡に接していたものです。そうとわからぬように、表面上は優しい言葉や笑顔を向けることもありましたが、すべて復讐のためでした。


 彼に未練があって誘いを受けるのではなく、私に未練を残す彼を、秘かにあざ笑いうさ晴らしをしていました。そのように私は陰湿で意地悪な女でした。


 それでも再会して以降の貴之は親切でした。月日を経ていたせいなのか、別れてみれば惜しくなるものなのか、向こうからの連絡が増えましたし、会った時は喜んでいるのがわかりました。彼を信用してはおらず、よりを戻すつもりはないものの、自分が苦しめられた日々のつけを払わせるつもりでした。


 ですがこの頃の私はすっかり力をなくし、彼をいじめる気力も失せ、かつての夫に身を任せました。愛や未練といったものではなく、どちらかと言えば自傷行為に近いことだったのかもしれません。貴之と寝れば、須藤のことを想わずに済むだろうかと、歪んだ思惑もありました。


 ベッドで虚ろに横たわる私を見下ろし、貴之は頬へキスをしてきました。何度かそのように控えめでしたが、拒まずにいるとしだいに貪るかのように唇を吸われました。舌を絡められてもされるがままでいました。少しずつ、確かめるように服の上から触れられるのは、むしろ歯がゆい時間でした。


 眠気と酔いで薄曇のかかったような意識とは裏腹に、ぬくもりに飢えていた身体は貪欲なまでに愛撫を欲していました。早くもっと、呼び起こされるようなあの感覚を思い出したくて焦れていました。喘ぎ、乱れ、さらけ出し、自分が生きていることを思い出したかったのです。


 そんな投げやりな私であったにも関らず、久しぶりに触れ合ったかつての夫は真摯で、彼の情熱が強く伝わってくることが心を痛くしました。ふたりが一緒に暮らしていた頃、そして別れる頃も、長らくセックスレスであった人とは別人かのようでした。


 優しくいたわるような口づけを繰り返され、渇ききっていた身体は応えていました。かつては確かに知っていた人に、過去へ引き戻される匂いに、奇妙に懐かしく心安らぐ自分がいました。空虚だった心は戸惑い混乱し、泣きたいような気持でいました。


 貴之じゃなくても良かったのかもしれません。須藤に抱かれることが叶わないなら、私を欲する誰かさえいたなら、誰でも良かったのかもしれません。私は、誰かに触れられ、求められることを切望していたのだと思います。


 翌朝、明るくなったホテルの部屋のベッドで横たわる自分に気付きました。隣には裸で眠る貴之がいました。須藤には夜中に置き去りにされていたことを思い出し、この人は朝になっても帰らないのだと心をよぎりました。


 私も当然ながら裸でした。重い頭で部屋の天井を眺めながら、ついにこうなってしまったと思いました。

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