【28 郷⇒倉 30代を生きるって、どういうことなんだろう】質問。

 先日、僕の作品を以前から読んでくださっている読者の方(勝手に僕は編集者と思っている方です)とランチに行ってきました。


 そこで僕はそろそろ三十歳になるので、なった時にエッセイを書きたい、と相談?をしていて「何事も準備が大事だよ」というお言葉をいただきました。

 確かに!


 三十歳になる準備と考えると少し漠然としているのですが、三十歳になった時に書くエッセイの準備をする、と考えると少しは具体的になるかな、と思いました。

 その準備の一貫としてなのですが、倉木さんはもう三十歳を超えていて、現在の僕の年齢(二十九歳)の頃には結婚されていたと記憶しています。


 また、【25 郷⇒倉 岩田屋町の好きなキャラクター10選】の時に浅倉隼人を「高校時代の倉木が、等身大な高校生を描いた」キャラクターで、「倉木にとって、浅倉隼人を通して世界を描けば、十代の歪みのようなものを知れ」る存在だと書いていました。


 更に、「浅倉隼人が高校時代に作った貴重な財産だとしたら、疾風は倉木の二十代を象徴する存在。二十代の歪みは、高校生のそれよりも泥臭くなっている。」と川島疾風の箇所で書かれていました。


 その後に「倉木は三十代のいま現在のうちに、三十代のキャラを作り、財産を増やすべきなのだろう。」とあります。


 現在、考え中だと思うのですが、倉木さんにとっての三十代とはどういうものなのか、よろしければ教えていただければ幸いです。


 ちなみに最近、僕の頭の中にあるのは、作家の浅井ラボがツイッターで呟いていた以下の内容です。


「20代は「目に見えない負債」を減らす時期だと意識したほうが良い。人との繋がりのなさや人間不信とかこっそり進行する病気とか異常性癖とか無知とか。そういう負債がリボ払いで、30代以降で大爆発して目に見える破滅(重病や破産や事件)に変わっていく。

 強力な地雷ほど目に見えないっていうのはホント」


 個人的に「目に見えない負債」を減らしてこれたのか、というのは難しいところですが、二十代を振り返ってみると、失敗ばかりで成功している部分は殆ど皆無と言って良い日々です。


 僕は失敗しているからこそ、地雷の存在に敏感になっているような気がします。

 常に自分は間違っている。

 そのような感覚が僕の中にはあります。


 最後にプラープダー・ユンというタイの作家で「新しい目の旅立ち」という随筆の序文が浮かんだので引用させてください。


 ――他人や環境に飽きを覚えたら、ぼくたちは孤独な時間や場所を見つけてそこに逃げ込み、しばらく静かに過ごすことができる。だが、自分に飽きてしまったらどうすればいいのだろう。僕の経験上、解消法はひとつしかない。その飽きの原因になっている、なんらかの事実を認めてしまうことだ。そしてその飽きを取り除きたいのであれば、これまでとは違った視線で世界を見渡す方法を探さなければならない。


 今のところの僕は失敗ばかりで、試行錯誤を繰り返しているので自分に飽きる、ということはありません。

 ただ、三十代にななると失敗のショックに慣れてしまい、そんな自分に飽きる時が来るような気がしています。


 なので、僕は今まで過ごしてきた人生とは違った「視線で世界を見渡す方法を探さなければならない」時が三十代に訪れるのだろう、と今から身構えています。


 というのが、今の僕の三十代のイメージです。

 

 最後にですが、読者兼編集者(勝手に)の方に、僕に対して「小説やエッセイ……、何でもいいので課題を一つください」とお願いしたところ、

「ツイッターを頑張る」

 と言われました。


 僕は今、カクヨム、note、ツイッターとやっていますが、一番頑張っていないのはツイッターだったので、思いっきり図星を突かれました。

 本当によく見てくださっています。

 ありがとうございます。


 なので今後、ツイッターを頑張ります。

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