第35話 アヴィクトールの業・Ⅰ
その男を初めて見たときから悪い人だと、悪い大人だと気づいていた。
両親から虐待を受けて育ってきた少女は、自然と人の悪意を敏感に察することが出来るようになっていたのだ。
だから分かった。
アヴィス・メイカーの代表だと名乗る男。アヴィクトール・カロスはろくな大人ではないことに。
アヴィクトールと初めて顔を合わせたのは、少女が律業の系譜として覚醒する前、まだ漆胎のマリステラではなかった頃。
孤児院に引き取られて平和な生活をおくっていた少女の元に現れた。
恵まれない環境で育った子供達を少しでも支援したいと、グラチョコの寄付をしにやって来たのだ。
孤児院の院長は、それはもう喜んだ。優しい笑顔で感謝を伝えていた光景を、少女は今でも鮮明に思い出せる。
【 院長先生は、とてもいい大人だった 】
孤児院に引き取られた子供たち全員に慕われていた。皆、本当の母親のように接して甘えていたのだ。
もちろん少女も例外ではない。
女手一つで孤児院を経営しながら決して弱音など吐かず、育ての親として真摯な態度で子供と向き合っていた
心から愛していた。
そんな大好きな人が変わってしまったのは、アヴィクトールに勧められるまま、孤児院の家族たちにグラチョコを食べさせるようになってからだった。
幸福で満ちていた孤児院での生活を、突然現れた製菓会社の代表が狂わせた。
少女が単独でアヴィス・メイカーを襲撃した理由は、過去の因縁があったためだ。
アヴィス・メイカーには、少女が家族を失う原因となったアメザイトチョコウ、グラチョコの製造工場がある。
ずっと報復の機会を待っていた少女は、覚醒した律業の血によって漆の液体を自在に操り、躊躇なくアヴィス・メイカーを呑み込んだのだ。
【 だけど、この大人は……マリステラが襲撃するのを知ってた 】
アヴィス・メイカーで働く大人、全員が悪いわけではない。当然関係のない人間は大勢いる。しかし少女は、そんなこと気にしなかった。
幸せな生活を、家族を奪われた分、アヴィクトールの周囲の人間を巻き込んでやるつもりだった。
それなのに――
アヴィクトールは事前に全従業員に臨時で休暇を与え、被害を未然に防いでみせた。そして襲撃を予期していながら、たった一人で会社に残ったのだ。
ずるい――
悔しかった。
【 ずるい、ずるい、ずるい―― 】
少女の家族だけが奪われて、どうして悪い大人が、何も奪われずに済むのか。
【 ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい 】
系譜となった際に肉体を失い、感情が希薄になっていた少女だったが、妬みの怨嗟だけは絶えず空っぽの器に繰り返し木霊し続ける。
持てる力、幼いながらに策を練って何度もアヴィクトールを追い込もうとした。だが、どうしてもあと一歩という所で運悪く逃げられてしまう。
運が、アヴィクトールに味方してしまう。
漆黒でアヴィス・メイカー全体を呑み込んだ際、クラウ・ディープと名付けられた怪物が地下の工場で産み出されていることも知った。
その製造法は非人道的なものだ。
誰かが、アヴィクトールの悪行を止めなければ。
………………………………
………………
…………
ガクン、といった振動と共に部屋全体の移動が止まった。
「ここはアメザイトチョコウ、グラチョコの製造工場。でも、そうじゃなかった。本当は違うって、マリステラは知った」
これまで淡々と話し続けていたマリステラの虚ろな瞳が、アヴィクトールのみに向けられる。
「工場で生産されているのは、人間を怪物に造り変えるお菓子……。アメザイトチョコウを食べ続けた人間は、死ぬとクラウ・ディープになる」
薄く青光りする灯りが地下の工場を照らし出す。
四方の壁面に数多く広がっている妊婦の彫刻。それがただの彫刻ではないことを、未熟な原型鋳造師は一度見たことがあり知っていた。
一面に広がる光景に、絶句してしまう。
「アメザイトチョコウの原料は、人工的に培養された禍実……。禍実を急速に成長させるための養分は……」
子供だ。いや、それ以前の状態である、胎児。
未熟な原型鋳造師は彫刻の腹部から大量に生った禍実を見て、猛烈な吐き気に見舞われた。
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