第17話 死を刻む

 全身にまとわりつく嫌な気配。同様に感じていた懐かしさは、もはや存在しない。


 何とか這い上がろうともがくが、抜け出すことができない。


 強い圧迫感による急激な精神的ストレス。鍍金はゆっくり熔かされていき、生身の肉体に不快な熱の塊が染み込んでいく


 これまでの戦いで、躰には力が入らない。先ほどまでの身体能力も完全になくなっていた。もう間もないうちに、泥の中に取り込まれてしまうだろう。


 そんな状況で唯一出来ること。ヨスガは何度も緋色の剣を振るうが、業剣は既に輝きを失っており活路を開くまではいかない。


 最後にもう一度、今持てる全ての力を込めた必死の一撃を放つ。そう決意を固めたヨスガの視界に、ぼんやりと光が見えた。


 光は徐々に大きく広がっていき、視界いっぱいに十字の軌跡が広がった。


 躰中を覆っていた泥状の液体がまとめて飛び散ると、怪物の残滓は完全に聖域から消滅していく。


「……がはっ、ごほっ、ごほっ――」


 息を切らしながら咳きこみ、地面に横たわるヨスガを、聖域で出会った男が見下ろしている。


「お前は九十…………いや、枠の外か」


 細身の刀を掴み、男は興味なさげに告げる。


「この男が、きみを泥の化物から解放したんだ」


 驚きの表情のまま、ゆっくりヨスガに近づいてきた司教が言う。只ならぬ雰囲気を放つ男は、細身の刀一本でヨスガを救い出したようだ。


「そう、だったんですね……――助かりました……」


 聖域の頭上に広がる巨大な門から鈍い音が空間に木霊す。わずかに開いた門扉をヨスガは見上げた。


「あの、ここから出るにはどう――」


 精悍な顔立ちの男が、ヨスガの目の前で細身の刀を横に滑らせる。


 あまりにも自然な動作。


「……え?」


 刀を納めると、ヨスガの隣に座り込んでいた司教の身体が綺麗な直線に沿って裂けた。


 傷つけられた司教の肉体に負担がかからないよう、ヨスガは咄嗟に支えて身体を横にさせる。


「……意味が分からない。こんな――――ッ!」


 湧き上がった怒りに任せて、ヨスガは男に詰め寄る。だが門の隙間から差し込んできた緋色の光が、男とヨスガ達の間に割って入った。


 構わず男に向かって右手を伸ばす。光を超えた腕から全身に強烈な不快感が広がり、ヨスガは反射的に手を戻してしまった。


「…………弱いからだ――」


 緋色の亀裂の向こう側で、男の眼には何の感情も宿っていない。


「アイン・ソフ・アウルへ至る価値がない…………」


 それ以上は何も語らず、静かに上空を見上げている。門の扉が開くにつれ、亀裂も大きくなっていった。


「せめて……こっちを見ろよ」


 握りこむ両拳が震える。


「自分が傷つけた人を、一度も見ないつもりか!」


 致命傷を負わせた人間が、どれだけ苦しみ、無念を抱いて息絶えてしまうのか。犯した行為の重さを知るために、最後まで看取る責任がある。


「お前にしか出来ない…………」


 男は上空から視線を戻すと、血を流して横たわる司教を指さした。


「死を刻め、枠外…………」


 それだけ言い残すと、男は右半身からゆっくり影に包まれていき消え去った。睨めつけていた相手が消えて、ヨスガはすぐさま司教に意識を向ける。


「……いい、これでいいんだ……気に病む必要などない……」


 ヨスガが声をかける前に、司教は口を開いた。口から血を流しながら、途切れ途切れに話し続ける。


「私の意識は、この空間で保たれて続けていた……。長く味わっていた、意識の牢獄の中で、あの門が一度だけ開いたことがある……。光の亀裂が広がって、人影が降りてきた。同じ要領でおそらくは、きみもここから抜け出せる、はず……」


 無論、元の世界に繋がっている保証はないが、と司教は続けた。


「そんなことより、傷をふさがないと……!」

「心優しい魂よ……そんなきみに、なにか礼をしなければ、気が済まないんだ……」


 司教は憑き物が取れたように、清々しい表情だった。


「……助けたのは自分のために、力を譲ってほしかったからです。感謝されることなんて、何もしてない」

「……まさか、巫女の意識が消えたのは……」


 司教は驚きの表情をヨスガに向ける。


「そうか、消えたのではなく、きみが受け入れたのか……私の代わりに……」

「元の世界に帰ったら……アナタは今度こそマルクティアの人達のために、頑張らなきゃダメだ」


 まっすぐな瞳で、司教は首を横に振る。


「きみは、優しすぎるな……。生きて、私に……償える機会をくれていた……。心から、感謝しているよ」

「生きてください……死んでしまったら、何もできません」


 死者は罪を償えない。それは、誰もが理解する当然の真理だ。


「……ならば、尚更……この場できみに、話しておくべきだろう……」


 司教はガイアナークの紋章が刻印された装飾品を首元から引きちぎり、ヨスガに押し付けた。


「元の世界に戻れた時、これで、彼と話してくれ……ガイアナークが新たに崇拝する、偉大なお方だ――出会えるまで、難しいとは思うが……きっと、力になってくれる……」


 押し付けられた紋章を、ヨスガは受け取った。


「愚かな私の心を惑わし、律業の楔を託したのは……アヴィス・メイカー。楔はもう、手元にはない……おそらく、この空間に送られる前に……回収されてしまった」


 アヴィス・メイカー。聞き覚えはあるが、この場で耳にするとは思えなかった名前に困惑する。


「……私はただ、甘言に唆されるまま、多くの過ちを犯し……」


 血の流れは止まらない。司教から吐き出された血の塊が、ヨスガを汚した。


「私が死ねば、おそらく……門が開く。……楽になれると、ありがたいが……今は、この痛みを贖罪としよう……」


 今となって、男が言っていた意味に感づいた。


 おそらくあの行為は、ヨスガに止めを刺させるため。門を完全に開かせるために、司教を瀕死にさせたのだろう。


「人は、簡単に変われないものか……。こんな、死の間際に立たってなお……律業の巫女への敬愛を忘れられずにいる……。私は、正真正銘の愚か者だ……」

「それは違います」


 ヨスガには断言できる。


「やり方は間違ってた、正しくはなかったけど……。アナタは……ガイアナークの司教、オリィヴ・フラッドは愚か者でも、悪人でもない」

「あり、がとう……。最期、私の死で、きみの役に立つことができる……それが、唯一の救いだ……」


「ボクは、アナタがしたことを認められません……けど、ボクの中に在る巫女の意志は……」


――アナタのことを認めてる――


 ミトロスニアになって、オリィヴ司教の想いが流れ込んできた。どれだけ本気で、世界を救おうと考えていたのか、全部……。


 瞳を見開き、ヨスガを見つめるオリィヴ・フラッド。そして、ゆっくりと瞳を閉じた。


「そう、か……。では、次は決して間違えぬように……。もう一度、フォルフヨーゼの人々のため、私は奉仕をする。もっといい方法で、救済に導いてみせるぞ……」


 オリィヴ・フラッド司教の瞳の端から、涙が地面に伝う。


「それが、私の使命だ……」


 緋色の光が広まっていき、二人を包みこんだ。

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