彼あるいは僕について

新原つづり

彼あるいは僕について

 僕が彼に出会ったのは中学二年生のときだった。物事の順序に無頓着だった頃の出来事だ。校舎の中にまで夏の訪れを感じさせる風が吹いていた。

 彼は空しくなるほどに細く、白く、少年というよりむしろ少女に近かった。異質なものを排除したがる十代前半の子供たちにとって、そのことが彼を忌むべき対象にした。

 彼はいじめられていたのだ。といっても、芸術の題材になるほどの酷いものではない。いじめは地道に、こつこつと行われた。無視したり、仲間はずれにしたり、ときどき彼のものを隠したり。生徒は皆知っていたが、教師たちは気付けない。もしかしたら気付いていた教師もいたのかもしれないが、彼らが首を突っ込むにはナイーブ過ぎる緊張感があった。

「どうしてやり返さない?」

 放課後、クラスの中でも評判のよくない生徒数人に連れられた彼を追って、僕は校舎裏に来ていた。生温かく土臭い空気が僕の気持ちを重くした。僕は物陰に隠れて彼らを見ていた。何か話している。彼は首を横に振った。すると不良たちのリーダー格の生徒が彼の頬を思い切り殴り、彼は地に倒れた。そしてその不良は彼のポケットから財布を取り出して、中身を抜き取ると、仲間たちを引き連れてその場を離れていった。彼はしばらく仰向けになっていた。僕はその姿を見て、なぜかはわからないが腹が立った。僕は彼に近付くと、手を差し伸べた。彼は僕の手を取ると、ゆっくりと上体を起こした。彼の唇の端からは赤い血が一筋流れている。

「やり返すって?」

 彼は不思議そうに首を傾けた。近くで見ると彼は少女と言うより人形のように見えた。赤い血が流れていることに妙な違和感を覚えた。

「彼らがやっていたことは犯罪だ」

 僕は言った。

「やり返しちゃだめだよ」

 彼は言った。僕はその答えに苛立った。

「それは意味がないってこと?」

 彼は諦めているのだろうか。彼が少しでも抵抗していたとしたら、僕は助けに入るつもりだった。だから、もし彼が諦めて意味がないと言ったのだとしたら、それは間違っている。

「意味がないっていうのは、ずいぶんと多義的な言葉だね」

 彼はよくわからないことをぼそっと呟くと、静かに立ち上がった。

「もしかしたら、僕が必死に抵抗したらあのお金は取り戻せたかもしれない」

「だったら」

「でも、それに何の意味がある?」

 僕は彼が何を言っているのか、わからなかった。薄暗い校舎の裏で、僕たちは向き合っていた。日が沈んでいく様子がはっきりとわかるような気がした。

「例えば」

 彼は僕を諭すように語り始めた。彼の唇から流れた血が鮮やかさを増したように思った。

「彼らが僕から奪ったお金を持って、ゲームセンターに行ったとする。そこで彼らは高校生に殴られ、お金を奪われる」

「因果応報ってこと?」

「……彼らの内の一人、僕を殴った少年をA君としようか。A君は肩を落として家に帰った。玄関の扉を開けると、何かがおかしいことに気が付いた。今まで嗅いだ事のない臭いがしたんだ」

 僕は全身が冷えていくのを感じた。

「それは、血の臭いだった。つまり、彼の母親と、そして妹が強盗に殺されていたんだ。彼が僕を殴らなかったら、彼はお母さんと妹を助けられたかもしれない。一方で、彼が僕を殴らなかったら、彼も一緒に強盗に殺されていたかもしれない」

「何が言いたいんだ」

「ねぇ、一番悪いのは誰だと思う?」

 僕は答えられなかった。彼の唇から流れる血は、乾いて黒くなっている。彼は目を細めた。

「僕が言いたいのは、つまり、暴力はいけないってことさ」

 それが彼と僕との出会いだった。



「君の中には怪物がいるね」

 彼は僕によくそう言った。彼はどこか不思議な雰囲気を纏っていたので、彼がそう言うのならそうなのだろうという気分になることもあった。

「君はとても理性的だ。だから君元来の欲望、何かを傷付けたり、壊したりしたいという欲望を上手くコントロールすることができる」

 彼は淡々と話していた。よくわからない表情をしていた。

「あるいは、本当は、君の理性は怪物を解放する理由を探しているのかもしれない。自らが納得できるような、合理的な理由をね」

 彼を殴って金を奪った生徒は、そのすぐ後に交通事故で死んだ。その生徒に傷付けられた人間は他にもいたようで、教室からは緊張感が薄れたような気がした。彼は「悲しいね」と言っていた。A君の死のことだろうか、あるいはA君の死に対する皆の態度のことだろうか。彼のことだから、おそらく両方のことだろう。彼は多義的な言葉を愛しているのだ。

 いじめの主犯がいなくなったことも、僕とつるむようになったこともあり、彼はいじめられなくなっていた。むしろ中学二年生の一年間で身長もかなり伸び、少女から美少年に成長した彼は、学校の女子生徒の間で噂されるほどになっていた。僕にとって唯一の救いは、彼が僕より背が低いことだけだった。と言っても、体だけ馬鹿みたいに大きい僕にとって、それすら救いであるか疑問だった。

「いつか、その怪物が暴れ出す瞬間が訪れたら、そのときは、思い出して欲しい。僕のことを」

 僕は彼の忠告に従うことに決めた。



 そして僕は高校生になった。彼はより難しい高校も狙えたけれど、僕と同じ高校に進学した。高校生になっても僕と彼の関係はあまり変わらなかった。僕は専ら聞き役だ。彼は本や音楽の話をして、ときどき世界についての自分の考えを述べた。彼の言っていることはわかるようなわからないような話が多かったが、不思議と聞き飽きることはなかった。

 高校生になって、僕は初めて恋を経験した。相手はクラスメイトだ。自分の気持ちに戸惑うこともあったが、いろいろ話には聞いていたので、これが恋かとすんなり受け入れることができた。

 僕が彼女の何に惹かれたのかはわからない。物静かなところか、真面目なところか。彼女は美しい黒髪をしていた。

 特に強く恋を感じたのは、朝だった。朝の冷たく新鮮な空気が、僕の胸を痛くするのだ。そんなとき、僕は彼女の銀色のフレームの眼鏡を思い出す。

 初恋の春が過ぎ、梅雨が明け、そろそろ本格的に夏の到来を感じさせる季節に、僕を激しく動揺させる出来事があった。彼女がサッカー部のマネージャーになったことだ。もちろん本人から聞いたわけではない。噂で聞いたのだ。彼女の友達がマネージャーをしていて、人手が足りなくなったから誘われたらしい。僕は嫌な予感と、今までに感じたことのない胸騒ぎがした。気が付くと彼女は眼鏡をはずしコンタクトレンズにしていた。彼女はますます綺麗になり、そのことが僕をさらに焦らせた。

「その気持ちはわかるよ」

 彼は目をつむり、深く頷いた。その様子が妙に演技っぽく見えたので僕は彼に疑いの目を向けた。

「本当かい? 君は恋なんてしないと思っていたよ」

 彼は見た目もずば抜けて美しく、頭もよく、何より不思議な魅力があったので、女の子にはもてていたけれど、彼の方は全くそういう素振りを見せたことがなかった。また、彼が誰かを好きになる想像が僕には難しかった。

 僕の発言に彼は少しだけむっとして

「失礼だな」

 と言った。

「僕だって恋くらいするさ。君よりずっと昔からしてる」

「本当に?」

 僕は驚いて彼をまじまじと見た。どうやら本当のようだった。それから彼は少し気恥ずかしげに、親戚の女の子が好きだということを教えてくれた。彼女は僕たちと同学年で、彼は彼女に物心ついたときからすでに恋していたという。

「いつから好きになったかはわからない。気が付いたら好きだった、というより、僕は恋するという感情を彼女から学んだんだ。毎年夏休みに、家族で母親の実家に遊びに行くんだけど、そこには必ず彼女がいる。彼女の家族だって帰省するからね」

「どんなところなの?」

「海が見える町さ」

 彼は楽しそうに語った。こんなに嬉しそうな彼は久しぶりに見た。

「逆に言うと、僕が彼女に会えるのは、夏休みの、ちょうどそのときだけなんだ。会っても別に大したことはしない。海に行ったり、お祭りに行ったり」

「十分大したことだよ」

 今度は僕が少しむっとした。彼はそうかなと言って笑った。

「恋って感情は不思議だよね。あんなに切なくてつらいのに、夏が終わると徐々に治まっていく。でも、もう大丈夫って思った頃に、また夏が来て、また彼女に恋するんだ。まるで潮の満ち引きみたいに。違うのは、満ちたときの気持ちが、年々強くなっていくことかな」

 聞いているこっちまで切なくなる話だった。

「今年の夏も?」

「うん」

「もっと仲良くなりたいとは、思わない? たとえば、キスしたいとか」

「思うよ。もちろん。でも、今はこのままでもいいかなとも思う。この気持ち、この関係、この時間を、もう少しだけ、大切にしたいんだ」

 話しながら何かに気が付いたようで、彼は少し目を細くして、それからにこりとした。

「つまり、僕は彼女に何回も恋をしている」



 ついにその日が来た。来てしまった。僕の漠然とした不安は、現実のものになった。

 神様はなぜ男と女を作ったのだろうか。もし男と女なんてない世界だったら、僕はこんな思いをしなくてすむのだろうに。

「まあ、落ち着いて」

 彼は言った。

「男女がない世界だったら、豊かな芸術は生まれないぜ?」

「芸術に興味なんてない」

 彼はやれやれと肩をすくめた。

 僕の初恋の人はサッカー部の先輩と付き合うことになった。ずっと嫌な予感はしていた。彼女が友達と話しているのを聞いてしまったのだ。「サッカー部の先輩」という言葉が強烈に僕を不快にした。よりにもよって何でサッカー部なのか。僕はサッカーまで嫌いになった。

彼女を見るたびに、話すたびに、悔しく、空しい気持ちになった。彼女の笑顔を見るたびに、胸が痛んだ。

「僕は幸せになりたい」

 彼は語り始めた。僕を慰めようとしているらしい。今はそっとしておいて欲しかった。

「でもそれ以上に、僕は価値のある人生を送りたいと思っているんだ。僕だけじゃない、きっとすべての人間は価値のある人生を求めている。では、価値のある人生とは何か。幸せな人生のことだろうか。それは違うと僕は考える。ときに悲しみ、ときに怒り、ときに喜び、様々な感情を経験して、僕たちの人生は彩られていくんだ」

 今回ばかりは彼の言葉も全く頭に入ってはこなかった。高校一年生の春に始まった僕の初恋は、その年の夏を待たずして、あまりにもあっけなく終わった。あの光に満ちた朝は失われてしまった。

初めての失恋があり、その痛手を引きずったまま夏休みになった。僕は家でだらだらしたり、近所のプールで泳いだり、ときどき友達に会ったりして過ごした。彼にも何回か会った。

「明後日から?」

「うん」

「お土産期待してる」

「最高に甘酸っぱい土産話と一緒にね」

 失恋してから僕は、無性に本が読みたくなって、本屋に行くことが増えた。今まで片手で数えられるほどしか読んでこなかったので、この夏で読んだ本の数は倍以上になった。小説を三冊、歴史の本と哲学の本を一冊ずつ読んだ。哲学の本だけはよくわからなかったが、他の四冊は興味深く読めた。本を読むことで失恋の傷がだんだんと癒えていくような気がした。

 セミが騒がしく鳴いていた。マンションのエレベーターの中にセミがいたときはぞっとした。空気が揺れるほど暑い日があり、大雨が地面を冷やす日があった。空を見上げると入道雲が気持ち悪いくらいくっきりと浮かんでいて、僕はここが現実だということを思い出した。そうやって夏休みは過ぎていった。



 新学期が始まってもまだ暑さは続いていた。彼は少しだけ日に焼けていたが、一週間もすると元の白い肌に戻った。彼は今年も彼女に出会い、そして恋をしたそうだ。彼女が潤んだ瞳で彼を見たとき、思わず抱きしめそうになったのをぐっとこらえたと笑って言っていた。僕は初めて彼が普通の少年であることに気が付いた。

 僕の初恋の人とサッカー部の先輩はまだ付き合っているようだった。彼女はこの夏を経て、さらに美しくなった。そして大人になってしまったように感じた。

「残念だったね。二重の意味で」

「別に」

「でも、まだチャンスはあるかもしれない」

「もういいんだ」

 僕はまだ彼女のことが好きだと思う。けれど、もう終わってしまったのだ。あのときの胸の痛みを感じることは永遠にない。

「そういえば、この夏休み、本を読んだよ」

「へぇ、どんな?」

「君の影響で哲学書を読んでみた。ウィトゲンシュタインの論理哲学論考」

「それはまた。どうだった?」

「よくわからなかった」

「だろうね。あれはいきなり読んでもわからないよ。わかりやすい入門書があるから、明日持ってくる」

 ありがとう、と僕は言った。彼はウィトゲンシュタインについて少し話した。ウィトゲンシュタインが自殺を最も悪いことだと考えるように至ったところに興味がわいた。哲学者はみんな自殺するものだと思っていたからだ。彼は自殺したい衝動と懸命に闘い抜いたそうだ。僕にはその気持ちが全くわからない。そして、わからなくていい。

 突然、嘘だね、と僕の中の彼が言ったような気がした。確かに君は自殺したいなんて衝動を持ったことはないだろう。

 でも、他の衝動はどうだろうか。思い出して欲しい。君は彼女を傷付けたいんじゃないか。サッカー部の先輩とやらを、気が済むまで、殴りたいんじゃないか。

 それは違う。どうだろう。彼は言った。

 君は僕と出会ったときから、そんな感じだった。



 夏はあまりにも早く僕を通り過ぎて行く。強烈な残暑すら、その余韻も残してはくれなかった。秋の風が吹き、冷たい十月の雨が、火照った町を急激に冷やす。

 自分でも馬鹿みたいだと思うけれど、僕はまだ彼女のことを引きずっていて、人肌が恋しくなる日には、心臓の奥がちくりと痛んだ。そのことは彼には黙っていた。

 僕は彼が貸してくれたウィトゲンシュタインの入門書をやっと読み終わった。一カ月以上かかってしまった。できるだけ完璧に理解したかったから、何度も何度も読み進めては戻ることを繰り返した。彼は楽しそうに言う。それを読んでも、ウィトゲンシュタインを理解したことにはならないよ。

 彼はというと、ドイツ語の勉強をしていた。読みたい本があるらしい。読みたい本のために外国語を勉強するなんて恐れ入る。

 彼の貸してくれた入門書は、入門書のくせにやたらと難しかった。その本と一カ月以上格闘したおかげか、もう一度『論理哲学論考』を読んだとき、漠然とではあるがウィトゲンシュタインの言いたいことがわかったような気がした。

「家来る?」

 ある日の放課後、彼が突然聞いてきた。彼と知り合ってから二年以上経ったけれど、家に呼ばれたのは初めてだった。

 彼の家は学校の最寄り駅から三駅程電車に乗って、そこから歩いて十分程の所にあるらしい。

 僕たちは駅に向かって歩きながら、彼から借りた本の話をした。だんだんと日が落ちて、辺りは橙色に染まりつつあった。秋らしい静謐な空気が僕たちを包んでいる。

「あれは」

 最初に気が付いたのは彼だった。僕が彼の視線を追うと、そこにはさみしい路地があった。この道は通学路として利用しているのに、今初めて認識するほどに、存在感のない路地だ。

 薄暗くてわかりにくいけれど、どうやら誰かいるようだった。僕たちと同じ制服を着ている。一人はスカートをはいているから、女子生徒だとわかる。顔はよく見えなかったが、おそらく知らない生徒だろう。

 もう一人の方は男子生徒だった。そしてその顔には見覚えがあった。それは明らかに僕の初恋の人の恋人、サッカー部の先輩だ。

 僕と彼はどちらかともなく物陰に隠れて、彼らの様子を窺うことにした。女子生徒の顔もはっきりとわかってきたが、「彼女」ではなかった。けれども彼らはまるで恋人たちのように振る舞っている。

「先輩は彼女と別れたんだろうか」

 彼がつぶやいた。僕はそんなことはないはずだと思いつつも、何も言わなかった。

 すると先輩が不意にその女子生徒のおでこにキスをした。女の子は笑っていた。

「こんなことしたら、後輩の彼女さんが悲しむんじゃない?」

「別に、もう飽きちゃってさ。今度別れるよ」

 微かにではあるがはっきりと、そう聞こえた。先輩がにやりと笑ったが、その顔は酷く不快だった。

 隣で彼が何か言ったような気がしたけれど、上手く聞きとることができなかった。僕は気が付くと路地に入りこんでいた。二人は僕を見て不思議そうな顔をしている。僕は構わず二人に近付いた。先輩の前に立つ。先輩は僕を睨んで何か言っている。近付いてみると、彼はとても小さく、みすぼらしく思え、そのことが僕をさらに苛立たせた。僕は先輩の胸倉を思い切りつかんだ。そのまま拳をあげると、先輩の体重が手に、腕にかかってきたが、たいしたことはない。先輩はすごい形相をしていた。くだらない。先輩は僕に宙吊りにされて呼吸が上手くできないのだと、遅れて気が付いた。ばかばかしい。何がサッカー部だ。こんな軟弱な男に何ができる。彼はねずみのようだった。僕は気持ちが悪くなった。もうこの男は無事では帰さない。これは制裁だ。この薄汚い男は、罰を受けなければならない。

「その辺にしときなよ」

 今まさに先輩に殴りかかろうとしたそのとき、背中を軽く叩かれたように感じ、僕は我に返った。隣には彼がいる。やれやれと言いたげな顔をしていた。

「とりあえず、手を離してあげなよ。死んじゃうぜ?」

 僕は手を離した。先輩は倒れた。ぜいぜいぜいと、必死に空気を肺に流し込んでいる。すぐ近くにいた女子生徒は泣いていた。

「先輩」

 何か言いたげに僕を見ている先輩に向かって、彼が言った。その目は僕もぞっとするほどに冷めていた。

「人間関係にあんまり口出ししたくはないけどさ、順序くらい守ろうよ」

 先輩は何も言わない。彼はしゃがんで、先輩に顔を近付けた。

「僕が何を言ってるか、わかるよね? 別に守らなくても構わないけど、いつでも僕がこいつを止められるわけじゃないぜ」

 先輩は僕を見た。僕は再び怒りが甦ってきて、強く睨みかえした。先輩は目を逸らした。

「行こうか」

 気が付くと立ち上がっていた彼は、何事もなかったかのように言った。



 彼の家は高級住宅街の一角にあった。辺りのどこの家よりも大きく、立派だった。

「親はいつも遅いから」

 そう言って彼は僕を家の中に案内した。階段を上がって彼の部屋に行く。

 彼の部屋は僕の部屋の二倍くらいの広さで、彼によく合うオシャレな机と、整えられたベッドがあった。大きな液晶テレビまである。

「あれ、本棚はないの?」

「ああ、本は、本を収納する専用の部屋があるんだ」

 僕は納得した。彼は自分の椅子に座り、もう一つの椅子に座るよう僕を促した。

「全く、もう少しで大変なことになったね」

「ごめん……」

「別に謝らなくていいけど」

 彼は静かに言った。

「君の言う通りだった。僕の中には怪物がいる」

「君はなぜ先輩を殴ろうとした?」

「それは」

 それはもちろん、先輩を懲らしめるために。彼女のために。彼女のために?

「わからない」

 僕は言った。彼女のためにだと思っていたけれど、僕はあのとき、彼女のことなんて忘れていた。

「人間は誰しも、多かれ少なかれ暴力に身を任せたい欲望があるんだ。けれど、君はその欲望、というより衝動が、人より少しだけ強い。それは君と初めて会ったときからわかっていた」

 僕は何も言えなかった。

「君は理由を探していた。その衝動を解放してもよい、合理的な理由をね」

「理由を?」

 彼はゆっくりと頷いた。

「でもそれはいけないことだ。暴力は、いけないことなんだ」

 彼は語気を強めた。彼は僕を真っ直ぐに見た。

「でも、あいつは彼女の心をもてあそんだ。あいつは罰を受けなければならない」

 僕は反論した。初めて彼に反論したかもしれない。彼は目を閉じて、ゆっくり開いた。

「第一に、先輩を裁く権利は君にはない。第二に、そもそも人が人を裁くべきではないと僕は考えている。そして、第三に、僕は暴力はいけないという話をしているんだ。論点がすり替わっている」

 僕はどう答えればよいかわからなかった。なぜなら、やはり彼の言い分が正しいように感じたからだ。彼に対する微かな反抗心は消えていた。僕は純粋な疑問を口にした。

「君はどうして暴力をそこまで嫌う?」

 彼は考えるように顎に手をあてると

「言語化は難しい」

 と言った。それから彼は自分の前髪を掻きあげると、おでこを僕に見せてきた。何のことかよくわからなかったが、とりあえず彼のおでこを眺めた。すると、左の眉の上のあたりに、白い線が入っているのが見えた。

「傷?」

「うん。昔のね」

 彼は続けた。

「僕の母親はいろいろ厳しい人だったんだ。だから、しつけということで僕は何度も叩かれた。でも、ときどきしつけで叩かれているのか、ただ母親が叩きたいから叩かれているのか、わからないことがあった。わかるかい?」

 僕は首を横に振った。

「ある日のことだ。僕はいつものように叩かれた。いつものことだったんだけど、そのときばかりは少しふらついてしまってね、それで机の角にぶつけちゃったんだ。痛いと思って手で触れてみたらすごく血が付いてね。幼いながらちょっとやばいんじゃないかと思った。それを見た母親は酷くとりみだしちゃって、何度もごめんね、ごめんね、って言ってたよ。それから僕は暴力をふるってはいけないと考えるようになったんだ」

 いつも論理的であり、理論的でもあった彼だったが、この話は感情的で個人的なもののように感じた。けれど、論理的な話よりも僕は深く納得できた。

「わかったよ」

 僕は言った。

「うむ」

 彼は満足げに頷く。



 窓からは黄色く色付いた葉が散っていくのが見えた。灰色の曇り空も見える。僕は冬が近いことを感じだ。

「ねぇ、聞いてるの?」

 隣に座っている優実が少々いらだったように言った。

「ごめん、聞いてなかった」

「一体誰の発表なのかしら……」

 僕は今大学二年生になり、哲学の勉強をしている。明後日の発表に向けて、準備をしている真っ最中だ。

 優実は同じ哲学科の学生で、今年の春から僕は彼女と付き合っている。僕よりもずっと頭がよく、しっかり者の彼女だ。少し真面目すぎるけれど、そこが一番の魅力でもあった。僕の友人は、顔は可愛いのに、その強気で不遜な性格が台無しにしている、と評していたが、僕は彼女のそんなところも気に入っていた。

「何をぼけーっとしてたわけ?」

「ちょっと昔のことを思い出してね」

 僕は肩をすくめた。

 彼と僕は違う大学に進学した。彼は日本で一番難しい大学の医学部に入った。能力的には納得だけれど、少し意外な進路だった。一方、僕は地元の大学の哲学科に進んだ。

「そうだろうと思っていたよ」

 彼は僕の志望学科を聞いて大きく頷いた。幸せそうな笑顔だった。

 僕の中の怪物は、高校三年間でだんだんと弱体化していったようだ。まれに激しく暴れ出しそうになったけれど、彼のおかげで治めることができた。大学生になってからはそのようなこともなくなったし、なぜかはわからないけれど、今後もないだろうと確信があった。

 彼の初恋は意外な結末を迎えた。彼は高校三年生の夏に、彼女に思い切って告白した。そして振られた。他に好きな人がいたらしい。彼は参ったねと言って笑った。彼の初恋は引いていく潮のようにあっけなく終わったのだ。

「昔のことを思い出すのもいいけど、しっかりしてよ。時間ないんだから」

「はい」

「それにしても、論理哲学論考なんてどうして選んだの? あんな個人的な著作、私にはよくわからないわ」

 彼女は肩をすくめた。なぜ選んだのだろう。思い出の本だからだろうか。

「個人的な著作とはどういうことか、その意味がわかったとして論理哲学論考が本当に個人的な著作なのか、についてはこの際置いておこう」

 僕はここで一息ついた。それからゆっくりと言葉を選び、答えた。

「個人的だからいいんじゃないか」

 彼女はよくわからないといった表情をした。それでいいのだと思った。



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彼あるいは僕について 新原つづり @jitsuharatsuzuri

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