予兆
夕食を終えて宿舎に戻ると、一足先に食事を終えて戻っていたレオが興味津々といった様子で、マリーとどこに行ったのかを聞いてきた。
許可なく学園外に出るのは規律違反であるので、防壁の上に行ったとはケルディンは言えなかった。仕方がないので、曖昧な返答を繰り返していると、彼は飽きたのか話題を変えてきた。
「そういえばさあ、ケルは知っているか?バケモノの話」
「バケモノ?」
ケルディンは顔をひきつらせた。その言葉を聞くと、昔、マリーがバケモノと揶揄われて心を痛めていたことを思い出してしまう。
「なんでも平民街に出るんだってよ。人みたいな姿をした獣が」
「外は平和だねえ……」
ケルディンはベッドに倒れこんでため息を吐く。その手の迷信や伝説は、平民街ではいくらでもあるらしく、王都にいる貴族たちの耳にも時折入ってくる。そのような噂で一喜一憂できるのは、この国が安全で平和である証だろう。
「さては信じてないな」
「当たり前だよ。まさかレオは信じているの?」
「俺だって最初は嘘だと思ったぜ。でもさあ、さっき、教師達が大真面目な顔でこれについて話しているのを聞いちまったんだよ」
「先生たちが?それは……おかしいね」
今まで、平民街で流行った迷信や伝説が生徒たちの中で噂になることは何度かあった。しかし、それを教師たちが本気にしたところを、ケルディンは一度も見たことがない。それどころか、話が教師たちに伝わると、根も葉もない噂に惑わされるとは魔法使いとして恥ずかしいことだ、と説教されることも多かった。
「だろ?だから、今回は本当なのかもしれないと俺は思っているんだ」
レオは鼻の穴を膨らませ、興奮している様子だった。
この時はまだ、ケルディンは噂について半信半疑だった。
しかし、レオの話していた噂は数日後には学園中で周知の事実となった。
訓練場に、学園の生徒全員が集められ、バケモノについての情報が教師達の口から告げられたのだ。
バケモノは一か月ほど前から、平民街に姿を現すようになったという。
目撃者曰く、その姿は、牙狼と呼ばれる獣に似ているらしい。
牙狼は、ザクニア王国の北部の森でよく見られる獣であり、鋭い牙と強靭な爪を持ち、至極色の体毛に覆われている。性格は獰猛で、人を襲うこともある危険な動物だ。
しかし、牙狼は人里に降りてくることはめったになく、彼らの生息域に踏み込まない限り、彼らと相対することはめったにない。
今回目撃されたバケモノは、刃狼に似ている、というだけで彼らとは別物らしい。目撃されたバケモノが牙狼と決定的に違うのは、そのバケモノが二足歩行をしていたということであった。
教師たち曰く、バケモノが人間に危害を加えるかどうかはまだわかっていない。しかし、バケモノの攻撃によって負傷者が出たという報告も確認されているらしい。
王都は目撃されたバケモノを『獣人種』と仮称し、対策を行うことを決めたようだった。
そして、王族からの要請で、学園の生徒の一部を調査隊として、目撃情報のあった地域へ派遣することが告げられた。
「どうして生徒が調査に行くんだろう」
神妙な顔つきで、隣を歩くマリーが言った。
「学園の生徒なんかより、騎士団を派遣したほうがいいはずなのに」
貴族たちは、学園を卒業した後、大きく分けると、三種類の進路が用意されている。そのうちの一つが魔法騎士団だ。騎士団は王国に忠誠を誓い、王都の治安維持に努める組織だ。騎士団には、貴族の中でも学園で優秀な成績を収めた者しか入ることは許されない。騎士団に入れなかった貴族たちは、平民街の治安を維持する防衛兵として勤務するか、学園に残って魔法の研究をしながら、教師として働くことになっている。
マリーの疑問は最もだった。単純に考えても、現在魔法を学んでいる生徒たちよりも、学園の卒業生である騎士団を調査に派遣したほうが、はるかに効率が良いはずだ。それなのになぜ、生徒たちが未知の危険生物の調査に行かなければならないのだろうか。
疑問に対する正解を見つけ出すことができず、ケルディンはマリーに向かって曖昧に首をかしげることしかできなかった。
獣人種の存在が明かされた翌日、教師たちによって、調査隊に関して詳しい情報が公表された。
一回目の調査隊は、獣人種の目撃が最も多く確認されている、ミヘラという平民街の集落に、五名ほどを向かわせるということだった。調査隊の隊員となった生徒には、個別で呼び出しがあるらしい。
その日、生徒たちの話題は、誰が調査に向かうかの予想で持ち切りとなった。
「ケルディンは誰だと思う?」
レオがケルディンの前の席の椅子に勝手に座り、話しかけてくる。
「うちのクラスとは限らないんじゃない?下級生かもしれないし」
キュリア魔道学園には、十三歳になる年に貴族たちは入学し、それから四年間学園で教育を受ける。ケルディンやレオ、マリーは四年生である。つまり、学園における最上級生なのだ。
「まあ、そうだけどさあ。可能性はあるじゃん?」
「じゃあ、レオとか?」
「えー、絶対嫌だよ。俺、死にたくないもん」
顔をしかめて、レオが言う。それを聞いて、ケルディンは苦笑いを浮かべる。
「選ばれないといいね、お互い」
そう言って顔を合わせて笑う。しかし、レオの笑みはどこかぎこちなかった。見えないが、きっと自分自身もそうなっているのだろうと感じた。得体のしれない恐怖がすぐそこに迫っているようで、ケルディンは強い不安感を覚えた。
その日の最期の授業を担当した教師から、授業の後、訓練場に来るように言われた。嫌な予感を抱きながら、ケルディンは訓練場に向かった。
授業が終わった後の訓練場は静まり返っていた。静寂の中、ケルディンと同様に呼び出されたのであろう、四人の生徒が緊張した面持ちで立っていた。
金髪の背の高い男、髪を短く刈り込んだ目つきの悪い男、赤髪を高い位置で結わえた、そばかすの目立つ女、分厚い丸眼鏡をかけた小柄でおとなしそうな少女。四人ともケルディンの知らない生徒だった。
「あんたで最後か」
目つきの悪い男が言った。
「ちょっとウィル君。あの人上級生だよ。そんな言葉づかいしたらダメだよ」
横にいた丸眼鏡の女子生徒が慌てて目つきの悪い男に言った。そして、彼女は申し訳なさそうにケルディンのほうへ頭を下げる。
どうやら二人は知り合い同士らしい。
ウィルと呼ばれた目つきの悪い男子生徒は、ケルディンと眼鏡の少女を交互に見たのち、顔を背けて舌打ちをした。眼鏡の少女は、すみません、とさらに深々と頭を下げて謝罪した。焦げ茶色の髪が、彼女の表情を覆い隠す。
学園の生徒は、宿舎の中にいるとき以外は、学校に指定された制服を身に着けることが校則で決められている。男子生徒は白のワイシャツに紺のブレザー、ネクタイを着用し、女子生徒は白のブラウスに、紺のブレザーとリボンを着用するように定められている。また、リボンとネクタイは、学年ごとに色が異なり、ケルディン達、四年生は黒色、三年生は赤色、二年生は緑色、そして一年生は水色のものをそれぞれ着用している。
ウィルと、眼鏡の少女は緑色のネクタイとリボンを着用しており、どちらも二年生であるようだ。他の二人はというと、背の高い男子生徒は赤色のネクタイ、赤髪の女生徒は水色のネクタイを着用している。どうやら、ケルディンから見れば、全員が下級生であるようだった。
頭を上げてもなお、申し訳なさそうな顔でこちらを見ている眼鏡の女子生徒に向かって、話しかける。
「あまり気にしていないから大丈夫だよ。敬語とかも無理して使わなくてもいい。先輩面する気もないから」
「そう……ですか」
眼鏡の女子生徒は少し俯いた。艶のある黒髪が彼女の目元を覆う。
「僕はケルディン。よろしく」
「レベッカと言います。三年生です。あっちの悪そうな人はウィル君で、私と同じ三年生です」
二人に続いて、赤髪の女子生徒はミオン、金髪の背の高い男子生徒はザックとそれぞれ名乗った。その間、ウィルは皆の輪から離れたまま、様子を窺うようにこちらを見ていた。
「これ、何のために集められたんですかね」
レベッカはケルディンに尋ねる。彼女にとって先輩であるケルディンなら、何か知っていると思ったのだろう。生憎、ケルディンも何も聞かされてはいない。
「いや、僕も何も知らないんだ」
「昨日の話のことじゃないですか?あの、集会で先生たちが言っていたやつです」
ミオンが言う。彼女は活発そうな見た目とは裏腹に、物腰が柔らかだった。周りがみな上級生だから遠慮しているのかもしれない。
「獣人の調査隊か……」
ザックが顎に手を当てて言う。
「くだらねえ」
ウィルが小声で吐き捨てる。それを聞いたレベッカは肩をすくめた。
「全員揃っているようだね」
少し離れたところから声がした。
人影が三つ、訓練場の端のほうからこちらに向かってやってくる。ウィル以外の全員が彼らのほうを向いて姿勢を正した。
キュリア魔道学園の学区園長を務める老人が二人の男を連れたってやってきた。後ろを歩く二人の男に、ケルディンは会ったことはなかった。しかし、すぐに彼らが防衛兵の制服を身にまとっていることに気が付いた。
「優秀な君達なら、既にある程度の察しはついていると思います。君たち五人には、獣人種の調査に行ってもらいます。今日中に支度を済ませ、夜明けと共に出発しなさい。詳しいことは、彼らに聞きなさい」
あっさりとした口調で言うと、学園長は踵を返して去っていこうとする。伝えられた情報の少なさに、ケルディンは不信感を抱いた。そして、それはケルディンだけではなかった。
「待てよ」
呼びかけたウィルの袖をレベッカが無言でつかむ。無礼なことはしないでくれ、と分厚いレンズの奥の目が訴えていた。
「色々聞きたいが……。まず、この五人はどういう基準で選んだ」
「もちろん、成績優秀なものから選んだのです」
振り返ることなく学園長は答えた。
「誤魔化すんじゃねえよ。それならなんで全員四年生から選ばねえんだ。それに、四年には神童なんてもてはやされている女がいるらしいが、こいつはどう見たって男だぞ」
ウィルはケルディンのほうをちらりと見て言う。確かにウィルの言う通り、成績の優秀さだけを鑑みれば、ケルディンが選ばれ、この場にマリーがいないというのはおかしい。この人選には、優秀さ以外に何か意図があるように感じられた。
学園長はウィルに追及されてもなお、振り返ることはなかった。
「なぜ、学園長の私が、一人の生徒に過ぎない君に、手の内を明かす必要があるのかねえ。しかも、そんな無礼な態度で」
ウィルの袖をつかんだままのレベッカが肩を落とした。すみません、と消え入りそうな声で言う。
ウィルは何も言わなかった。ただじっと、学園長の背中をにらみつける。
「調査を通じて、仲間にいろいろ教えてもらったらどうかな」
学園長は行ってしまった。
訓練場に、ウィルの舌打ちが響く。
「あー……、すごく話しにくいんだが、話を始めてもいいか」
沈黙を破るように、学園長に連れられてきた男が口を開いた。
二人の男は、防衛兵であり、今回ケルディン達の調査を手伝ってくれるようだった。
二人のうち、背が低く黒髪の男はサロメ、坊主頭の男はショーンと名乗った。
「調査の期間は十日間。明日の朝早くに出発し、ミヘラの近くにある、防衛兵の駐屯地に馬車で向かう。着いたら、防衛兵と行動を共にし、調査に勤しんでもらう。ああ、それから、私たちが君たちに協力する都合上、君たちにも防衛兵見習いとして私たちの仕事を手伝ってもらうことになる。異論はないね」
「おい」
ウィルがぶっきらぼうな声を上げる。
「質問か?それとも異議があるかい?」
「調査って何を調べるんだよ。獣人とやらを調べるのはわかっているが、その、なんだ……」
ウィルがうまい言い方が見つからないのか口ごもる。
「わからないのは、具体的に何を調査するのか、ということです。ですよね?」
ウィルの言葉を引き継ぐようにザックが発言する。ザックの確認に対して、ウィルは何も言わなかった。しかし、彼が声を上げていないのは、肯定しているという合図なのだろう。
彼らの問いは最もだった。獣人について何をどうのように調べるのか、調査隊の要となる目的は、明言されていない。
しかし、問いに対する答えは非常に簡潔なものだった。
「知らん」
坊主頭のショーンが答える。
「はあ?なんだよそれ」
ウィルが二人に詰め寄る。
「俺たちは、お前らの相手をしろと言われただけだ。その、調査隊とやらが何を調査するものなのかなんて、俺たちの知ったことじゃあない」
「なんだよそれ。じゃあ、俺たちは明日からどうしろってんだ」
「まあまあ、落ち着いて。ショーンもさあ、もうちょっと言い方選べないの?」
見かねたサロメが二人の間に入って仲裁する。このまま止めなければ、つかみ合いの喧嘩になってしまいそうな勢いだった。
「とにかく、明日は朝早く出発するからね。今日はしっかり休んで、遅れないようにしてくれ。それから、ケルディンという名の生徒はここに残ってくれ」
サロメがそう言ったことをきっかけに、集会はお開きとなった。ケルディン、サロメ、ショーン以外の生徒は、それぞれ帰っていく。
ケルディンは四人の後姿を眺める。レベッカはウィルの横を歩きながら、彼にしきりに何か話している。先ほどまでの態度を咎めているのだろうか。しかし、彼女の口調は穏やかなものだった。ザックとミオンは互いや三年生の二人には無関心な様子で、足早に訓練場を出ていく。
「さて、話を始めようか。腹も減っているだろうし、簡潔にな」
サロメの声で、ケルディンは四人から目を離し、防衛兵の二人のほうを向いた。
サロメたちとの打ち合わせを終えて、ケルディンが宿舎に戻るころには生徒たちは食事を済ませ、各々の時間を過ごしていた。
打ち合わせでは、ケルディンが調査隊を取りまとめるいわゆる、リーダーのような立ち位置を担ってほしいということが告げられた。
具体的に言うと、学生全員の性格や力量を把握し、適宜サポートを行うこと。また、万が一防衛兵が指示を出せない状況に陥った場合、彼らに適切に指示だしを行うことを求められた。
しかし、ケルディンは四人とは先ほど初めて顔を合わせたばかりで、力量どころか、彼らの名前以外ほとんど知らない。
そのことを正直に言うと、彼らは困ったように笑うだけだった。「まあ、できる範囲でいいから頼むよ」と、サロメはケルディンの肩を軽く叩きながら言った。
最期に、貴族を嫌煙する平民がいるため、基本的には平民の居住地域には、近づかないことを告げられた。そのため、道中は野宿を行うらしかった。
貴族を嫌う平民がいる、というのことを、ケルディンは初めて聞いた。二人に理由を聞いたが、教えてはもらえなかった。
ケルディンが部屋に戻ると、部屋の前でレオが待っていた。怪訝に思ってケルディンは声をかける。
「どうしたの」
「客が来てるぜ」
それだけ言うと、レオは去って行ってしまう。
部屋に入ると、中にいたのはマリーだった。彼女はいつもの制服ではなく、ゆったりとした空色のワンピースを身にまとっている。緩く開かれた胸元では、光を反射して、薄桃色がうっすらと輝いている。
「珍しいね、部屋まで来るなんて。どうかしたの」
「夕食の時、いなかったから。ご飯も食べずに、どこへ行っていたの?」
「ちょっと用事があったんだよ」
マリーの表情は今までにないくらいに沈んでいた。彼女に心配をかけたくなくて、つい誤魔化してしまう。
「調査隊、行くの?」
彼女は沈んだ声で問いかけた。彼女はひどく不安げな表情をしている。ケルディンは本当のことを言うべきかどうか迷ったが、彼女に嘘を吐きたくはなかった。
「ああ。行くことになった」
「そう……」
そう言ったきり彼女はしばらく何も言わなかった。沈黙が、狭い部屋の中を支配する。部屋の外は、無邪気に騒ぐ生徒たちの声であふれているのに、まるでこの部屋だけ違う世界のようだった。
「私が……。私が行ければいいのに」
「マリー……?」
その目には涙がたまっていた。それを両手で拭って、彼女は立ち上がる。
「ごめん、変なこと言った。頑張ってね、調査隊。無事で、ちゃんと、戻ってきてね」
無理矢理に笑った彼女の顔は、ケルディンにどこか壊れてしまいそうな危うさを感じさせた。何か声をかけなければ。そう思っても言葉は出てこなかった。
マリーはケルディンに手を振って、部屋の外に出て行った。扉がゆっくりと閉まる。
ケルディンは閉じてしまった扉を見つめた。
「名前だけの神童なんていらない」
くぐもったマリーの声が、扉の向こう側から聞こえた。
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