白昼夢
燃えるような茜色が、少女の横顔を照らしていた。黒色のローブに華奢な身体を包んだ幼い少女が、ケルディンの隣に立って、ゆっくりと水平線の向こう側へ落ちていく夕日を眺めている。
夕陽を見ていたマリーが、不意にこちらを向いた。ケルディンは慌てて目をそらした。その動きがおかしかったのか、彼女は首をかしげて笑った。その拍子に赤みがかった茶色の髪の毛がなびき、胸元に光る薄桃色の小石が揺れ動いた。
「ねえ、ケルディン。もしかして、今日の訓練でうまくできなかったこと、気にしている?」
ケルディンは何も答えなかった。
マリーはケルディンの顔と夕陽を交互に眺め、所在ない様子で胸元のネックレスに触れた。
「大丈夫だよ。まだ———まで一年あるし。———って急にうまくなったりするらしいし。ほら、だって私は、ほかの子よりもずっと早く———がうまく使えたし。ケルは少しみんなより遅いだけだよ」
少女の言葉の一部は、なぜか少しくぐもっていて、よく聞き取れなかった。
返答のないケルディンを見て、少女は目を伏せた。
「私に言われても嫌だよね」
「そりゃそうだ。なんたってマリーは『神童』だからなあ」
背後から少年の声がした。
後ろを振り返って見てケルディンは驚いた。声のした方にいた男の顔は、黒い靄に包まれていて、どんな表情をしているのかどころか、彼にほかの人間と同じように、目や鼻がついているかどうかさえ、わからなかったからだ。
ケルディンはそこでようやく、これがいつもの夢であることに気づいた。幼い自分とマリー、そして姿の見えない少年の夢。それが妄想なのか、過去の出来事なのか、何度見てもケルディンにはわからなかった。
「もう、その呼び方はやめてよ」
マリーがふくれっ面を作る。
その様子を見てケルディンが笑った。
「ケル、やっと笑った」
そう言ってマリーが破顔し、三人で顔を突き合わせて笑う。
三人は並んで歩きだした。
「でも、あと一年か……。マリーはいいとしても。俺たちは頑張らないとな」
顔の見えない少年が言う。それに同調するように、ケルディンとマリーはうなずいた。
「いっそ……。いっそのこと三人で———になれれば楽なのにね。ごめんね。私が『神童』なんてもてはやされて、———に目をつけられているから……。三人一緒にいるには、みんな———になるしかない……」
マリーが目を伏せた。彼女の歩みが段々と遅くなり、ついには立ち止まってしまう。マリーは胸元の薄桃色の小石に触れる。
「どうしたの、マリー」
夢の中のケルディンは、そこで言葉を止めた。たぶん、彼女の目に溜まった涙を見てしまったからだ。
「私ね、すごく嬉しかったんだよ。落ち込んでいた私のために、二人がこれをとってきてくれて、ケルがネックレスにしてくれて……。二人ともすごく優しくって……。大好き……なの。だから……。だからね、私は———だけで全てが決まるこの世界が嫌い。誰よりも優しい二人が、報われないこの世界が……」
マリーの目に溜まった涙が、零れ出す。
「まだ、報われないって決まったわけじゃないよ。———は何とかなりそうだし。あと一年はあるんだ。一年もあれば僕だってきっと」
「そうだよ、三人で行くんだろ?———へ」
慌てて言葉を紡いだのは、きっと、彼女の涙を見たくなかったからだろう。少年が同調したのも、きっとそうだ。
二人の気遣いが功を奏したのか、マリーが顔を上げた。ごしごしと目元をこすった後、二人の顔を交互に見てにっこりと笑顔を作る。
「そうだよね。きっと行けるよね」
マリーが再び歩き始める。置いて行かれないように、二人は彼女の背中を追った。しかし、追っていた背中が不意に止まる。マリーが振り返った。
「そういえば、二人は何で最近これつけてないの?私、ずっと気になっていたんだけど。まさかなくしてないよねえ」
マリーは胸元の小石を指先でつまみ上げて尋ねる。
ケルディンと顔の見えない青年は、顔を見合わせながら、ほぼ同時にローブのポケットに手を突っ込んだ。中から同じような薄桃色の小石が出てくる。小石には小さな穴があけられており、マリーのものと同じように紐が通してあり、ネックレスとして使えるようになっている。
「持っているじゃない!なんで身に着けないのよ」
顔を赤くして、マリーがケルディンに詰め寄る。
「いや、その……、恥ずかしいし」
顔の見えない少年も、無言でうなずいてケルディンに同意する。
「じゃあこれを私は着けている恥ずかしいってこと?」
「いや、マリーは女の子だし、似合っているからいいけど俺たちは……」
「もう知らない」
顔の見えない少年の言葉を遮ってマリーは言い放ち、そのまま背を向けて駆けて行ってしまう。
ケルディンは顔の見えない少年とともに、彼女の背を追いかけて走った。走っている最中、黄昏が揺れ、歪み、白んでいった。
不意に頭に衝撃を受けて、ケルディンは体を起こした。
銀縁眼鏡をつけた中年の女教師がケルディンを見下ろしている。手に持った教科書が、ケルディンの頭に当てられている。どうやら衝撃の正体はこれらしい。
彼女は呆れたように、授業中です、と言って教壇のほうへ戻っていく。
周りからくすくすと笑い声が起こった。
どうやら机に突っ伏して居眠りをしていたらしい。机に広げられたノートには何かが書かれた形跡はなく、真っ白だった。
かなりの時間居眠りをしていたのだろう。教師の話を聞こうとしてもまったく授業についていけない。ケルディンは早々に授業を受けるのを諦めた。
先ほどの夢は何だったのだろうか。実のところ、ケルディンは、これまで似たような夢を何度も見たことがあった。
あれは恐らく、幼い日の記憶だ。マリーと『彼』との、ささやかな毎日。しかし、不可解なのは彼の顔が見えないことや、話している内容がところどころ聞き取れないほどぼんやりとしていること。そして、ケルディンは、夢で見る以外、『彼』の記憶をまったく持っていないことだ。
ただの夢、と片付けてしまったら済む話だ。しかし、ケルディンはそれがただの夢にはどうしても思えなかった。その夢が、大切な何かであるような気がしてならなかった。
夢の話は考えてもわからない。授業も今更聞いてもわからない。
することがなくなり、退屈になってしまったケルディンは、何となく窓の外に目を向けた。
窓の外、遠くのほうに石煉瓦で形作られた立派な王城が見えた。キュリア城という名のその建造物は、ケルディンが暮らす、ザクニア王国の王族たちが暮らしている城である。
ザクニア王国は、大陸の東に位置する小さな国だ。国土は、民たちが暮らす平民街と、キュリア城を中心とした王都から形成されている。王都では、王族と貴族が暮らしている。
ケルディンは王都の中にある、キュリア魔道学園に通う生徒の一人だった。その名の通り、この学園は魔法の技術を学び、訓練するための教育機関である。ケルディン達のように、貴族の位を持つ子供たちは、この学園で魔法を学び、将来王国に従事するために、この学園で魔法を中心に、様々なことを学んでいる。
結局、ろくに授業も聞かず、窓の外を眺めているだけで、座学の授業は終わった。
座学の次は、実技の時間だった。実技の授業は、校舎の外にある訓練場で行われる。そのため、休憩時間の間に、教室から移動をしなければならない。すでに他のクラスメイト達もちらほらと移動を始めていた。訓練場に移動しようとケルディンが立ち上がりかけた時、後ろから声をかけられた。聞き慣れた声だった。
「ケル、すごく寝ていたわね。昨日あまり眠れなかったの?」
白のブラウスに、膝丈ほどの紺色のスカート。学園指定の制服を身にまとったマリーが背後に立っていた。彼女の胸元には、夢に見たものと同様の、薄桃色の小石が光っている。
「いや、そういうわけじゃあないんだけどな」
ケルディンは照れくささを隠すように笑う。居眠りを見られていたのは、少し恥ずかしい。
「ふうん……。あっ、もしかして実技のために体力温存していたとか?やばいなあ。私そろそろケルに追い越されちゃいそうで焦っているもの」
そう言って屈託のない笑みでマリーは笑う。花のような笑顔に見とれそうになって、ケルディンは慌てて言葉を紡ぐ。
「それはないでしょう。さすがに神童サマには勝てないって」
「あぁ、また神童って呼んだ。やめてって言ったでしょう」
マリーは拗ねた幼子のようにプイっと顔を背ける。ケルディンはそれを見て、彼女にばれないように微笑む。豊かな移り変わりを見せるマリーの表情を見ることは、ケルディンの日々の楽しみの一つだった。
「お二人さん、仲が大変よろしいようですが、このまま続けると授業に遅れますよ?」
冷やかすような口調で、二人に声をかけてきたのは、ケルディンやマリーと同じクラスの男子である、レオだった。レオはクラスメイトでもあると同時に、ケルディンにとっては宿舎におけるルームメイトでもあり、二人は仲が良かった。
「やばっ。急いで行かなきゃ。レオ君ありがとう」
そういうや否や、マリーは教室を飛び出して行ってしまった。
「ケル、俺たちも行こうぜ」
レオと共に教室を出ると、既にマリーの背中は見えなくなっていた。
二人が訓練場についたと同時に、授業の開始を告げる鐘が鳴った。男の教師にじろりとにらまれたが、それ以上咎められることはなかった。一足先についていたマリーは、走ったせいか、息を切らしている。ケルディンと目が合うと、悪戯な子供のように微笑んだ。
キュリア魔道学園における、魔法の実技の授業は、三つの科目に分けられている。一つは様々な魔法の使い方を教わる魔法基礎訓練。二つ目は魔法基礎で習った魔法をものづくりや調理などを始めとした、様々な日常生活の雑務に生かす技術を学ぶ魔法実務。そして三つ目は、魔法を用いた戦闘技術を学ぶ戦闘訓練だ。学園においては、戦闘訓練の成績が最も重要な項目となっている。
これから受ける授業は、最も重要な戦闘訓練だった。教師の指示で、軽くストレッチを行った後、生徒たちはほかの生徒を相手に稽古を行う。
ケルディンの稽古の相手はレオだった。向かい合った彼の顔は真剣だった。
「手加減なしだぞ、ケル」
ケルディンはうなずく。目を閉じて、心を集中させる。魔法をうまく使えるようイメージをする。沈黙が、訓練場を包んだ。教師が合図をするまで、勝手に魔法を行使することは許されていない。生徒たちは合図が出るのをただじっと待っている。時が進むのがひどく遅く感じられた。握りしめたケルの拳に、汗が滲む。
「始め!」
教師の声が訓練場に響いた。
ケルディンはその瞬間、目を開いた。レオが手を振り上げるのがスローモーションのように見えた。
「燃えろ!」
レオが叫ぶと同時に、火球が彼の右手から生み出され、まっすぐにケルディンのほうへ向かってくる。ケルディンは左に倒れこむようにして躱し、受け身をとりながら魔法を使う。レオの足元目掛けて、ケルディンは風の刃を飛ばすイメージを作る。思った通り、刃は生まれ、狙った位置に飛んでいく。レオは跳躍してそれを軽々とかわす。
「それで終わりか?」
レオは次の魔法を放つために再び右手を構える。しかし、彼の動きはそこで止まってしまった。ケルディンの放った風の刃が、地面とぶつかり、砂埃を巻き上げたことでレオの視界を遮ったのだ。
「くそッ」
レオが焦ったように声を上げる。闇雲に魔法を放つが、そこにはケルディンの姿はない。ケルディンはレオの隙を突き、体勢を立て直していた。レオの背後に回り、回し蹴りを浴びせようとしたところで、教師からやめるように指示が入った。ギリギリで足を止めたケルディンは、そのまま体勢を崩して地面に倒れこんだ。
「いったん休憩にしろ。ただし、別の生徒と組みたいものは今の間に相手を見つけておくように」
張り詰めた空気が緩み、楽しげな談笑が訓練場を包み始める。
未だ地面に倒れているケルディンに、レオは手を差し出してきた。
「ありがとう」
レオの手を借りて立ち上がり、ケルディンは服についた砂を払い除ける。
「これじゃあ、傍から見たら俺が勝ったみたいだなあ。完敗だったのに」
そう言ってレオは笑う。
「わざと足元を狙ったのか」
「魔法だけじゃレオに敵わないからね。小細工してやっと互角だ」
ケルディンはほかの生徒と比べて、魔法はあまり上手いほうではない。単純な魔法力では、レオには到底かなわない。そのため、レオは得意な体術を織り交ぜてみたりたり、戦術を練って、戦闘訓練に臨んでいる。
「小細工じゃねえだろ。立派な才能だ」
「そうかな……。ありがとう」
「いいってことよ。それよりさ、最後の回し蹴り教えてくれよ。あれかっこいいから俺もやりたい!」
レオは目を輝かせて言った。彼と一緒にいると、魔法が下手なことなど気にならなくなってしまうから不思議だ。
「あれはね……、」
結局、その日の授業はレオに体術を教えるだけで終わってしまったのだった。
戦闘訓練の後には、剣術や体術、弓術など魔法を使わない戦闘術を学ぶ、基礎戦闘術の授業が行われた。ケルディンは、戦闘訓練よりもこちらのほうが得意だった。
今日の授業は基礎戦闘術が最後だった。
授業を終えて宿舎に戻っている途中に、ケルディンはマリーに話しかけられた。
「ケル、ちょっといい?」
ケルディンは立ち止った。横を歩いていたレオは、気を使ったのかそのまま宿舎に向かって歩いて行ってしまった。
「どうしたの?」
「付き合ってくれない?いつものところ」
お願いをするように、胸の前で手を合わせて、マリーは微笑んだ。
夕日が、水平線の彼方へと沈んでいく。
王都の周りには、防衛と人の行来を制限するという二つの目的から、巨大な防壁が築かれている。その防壁の上に、ケルディンはいた。時々マリーにせがまれて、授業が終わった後に学園を抜け出してここに夕日を見に来るのだった。
「いつもここに来ているけど、飽きないの?」
無邪気に夕日を眺めているマリーに問いかけた。マリーが振り返って、ケルディンのほうを見る。
「んー……、飽きないよ。何回見ても綺麗。ケルは飽きちゃった?」
夕日を背にして、マリーは首をかしげる。正直に飽きた、なんて言うことは彼女の笑顔を曇らせてしまいそうだった。ケルディンは黙って首を横に振った。
「そっかあ。ならよかった」
マリーは防壁の端に腰かけた。防壁の下、平民街に向かって足を投げ出す。彼女が下に落ちてしまわないか、ケルディンは心配になった。そんな彼の心配をよそに、マリーはケルディンのほうへ向かって手招きをする。どうやらこっちに来いということらしい。ケルディンは恐る恐るマリーの横へ腰を下ろすと、彼女に習い、防壁の外へ足を投げ出した。
「いつも付き合ってくれてありがとうね」
「別に、これくらいどうってことないよ。僕も気分転換になって楽しいし」
マリーがケルディンの顔をじっと見つめる。そして何がおかしいのかくすくすと笑いだした。
「なんだよ」
呆れたようにケルディンが顔を背ける。
「いや、ごめんごめん。ただ、やっぱりケルは優しいなあと思って。ケルディンのそういうところ本当に……、その、尊敬……しているわ」
その言葉を聞いてケルディンは、昼間に見た夢のことを思い出した。夢の中の幼い彼女もまた、ケルディンと『彼』の優しさを慕っていた。
夕日の光に阻まれて、マリーの表情はよくわからなかった。彼女の右手は、胸元のネックレスに当てられている。
「また、夢を見たんだ。君と、『彼』の」
マリーがはっと息をのんだ。手の中の小石を強く握りしめる。
「私は……、私には未だに『彼』が見えない。一度も見えたことはないわ」
「やっぱり信じられないかな」
「いつも言っているけど、ケルの言うことが信じられないわけじゃないの。でもね、私が幼いころの夢を見るとき、出てくるのはあなただけなの。私と、ケルだけ。いつだって、そこに『彼』はいない……」
ケルディンは制服のポケットから、ネックレスを取り出した。夕日にかざすと、光を反射して小石は輝いた。
「一体誰だろうな……。というか、そもそも本当にいたのかな……」
「そろそろ帰りましょう。夕飯に間に合わなくなるわ」
マリーは立ち上がり、背を向けて歩き出した。彼女の表情を、見ることはできない。
夕日は完全に沈んでしまい、真っ黒な闇と静寂が世界を包み始めていた。
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