魔獣戦線

@peace6flower

プロローグ

 かつて俺が希望だと信じて、縋りつき、妄信した男の顔は、邪悪を体現するかのように酷薄に歪んでいた。獣そのものと言えるほど、醜く発達した右手が、ぐったりとした少女の首を掴む。


 声を上げようとしても、掠れた息しか出てこない。まして、すでに限界を迎えた身体は、地面に這いつくばったままピクリとも動かない。


 動け、動け、動け。

 願うように、縋るように。やっとのことで前に伸ばした手を彩るのは、至極色の体毛と、擦り切れた汚い爪。およそ人間とはかけ離れた、醜い姿。バケモノになってもなお、彼女に手は届かない。自分の無力さに吐き気がする。

 

 少女がこちらを見た。伸ばされた俺の腕を見て、男の腕から逃げようともがく。男が手の力を強める。骨が軋む音が聞こえてきそうなほど強く、彼女の首を握りつぶすように締め上げる。少女の顔が苦しげに歪んだ。


「無駄な抵抗はやめろ。君は、私の希望となるんだ。とても、光栄だろう?」

 男は右手を少女の首に回し、左手を天に向けて掲げた。

「さあ、仕上げだ」

 男の左手には、小さな注射器が握られていた。透明なシリンジの中は、どす黒い液体で満たされている。


「やめろ……。やめてくれ」

 絞りだした声に、男はこちらを向く。這いつくばっている俺を見下ろす。宙に浮く少女の細い足がゆらゆらと揺れる。真っ白なその肌は、赤黒い痣と血で汚れている。


「見届けるがいい、世界の変革を」

 男が左手を振りかざす。銀色の針が、きらりと輝く。


 叫んだ。声のかぎりに叫んだ。何の意味もないのに。

 少女の細い首に、勢いよく針が突き刺さる。かふっ、と声にならない悲鳴が彼女の口から漏れる。

 ピストンが押される。どす黒い汚物が、少女の身体を侵す。


 男が手を離した。どさり、と音を立てて彼女が崩れ落ちる。

「嫌、嫌。嫌だ。嫌だああああああ」

 少女が掠れた声で絶叫する。

 少女の身体がビクビクと痙攣を始める。

 

 違う。

 こんな光景を見たかったんじゃない。

 

 ただ、望んだだけなのに。

 彼女たちの安寧を仕立てる。それがただ一つの望みだった。

 

 少女の身体を、至極色の体毛が包み始める。見ていられなくて、俺は目を覆う。

 未だ、俺の身体は動いてくれない。彼女を助けることや、憎くて仕方がないあの男をなぶり殺しにすることはおろか、立ち上がることさえできない。


 少女は変革を続ける身体を引きずって、光の差し込むほうへ向かう。その身体を、男が踏みつける。

絶望的な光景を、無力な俺はただ眺めていた。馬鹿みたいに、届かない手を伸ばしながら。


「助けて……」

 少女は押さえつけられたまま、顔を上げ、光に向かって手を伸ばした。

影が光を覆い隠し、世界は動きを止める。


 眼前に広がった光景は、地獄そのものだった。

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