第8話

 二十年前、当時九歳のカリスは、王都から遠く離れたソクラ村に両親と暮らしていた。

 ソクラ村は地方貴族プラトー家所領の一部だが、石壁で囲まれたプラトー城の城下町の外にあり、魔物から村を守るのは簡素な木製の柵だけ。

 村周辺に魔物が現れると、男たちが団結して魔物を追い払っていた。しかし、そのような対処の仕方で村を守りきれるはずもなく、毎年十数人の犠牲が生まれていた。

 魔物に関してソクラ村のような環境にある農村は、当時も今も一般的だ。安全な石壁に囲われて生活している臣民は、決して多くない。貴族、その貴族に仕える者、一部の商人、そして王都に住む者くらいだろう。

 幼いカリスは、他の子どもたちと村中を駆け巡り、教会で読み書きを習う生活を過ごしていた。そんな彼の一番の楽しみは、村に一件しかない宿屋に時折滞在する異世界転生者。気の良いパーティーだと、子どもたちの話につきあってくれた。王都の様子、魔物との闘い、そして異世界の話を、カリスは夢中で聞いた。当時の彼は、異世界転生者が魔王を倒し、この世界から魔物を一掃してくれると本気で信じていた。

 事件は、その年で一番暑い満月の夜に起こった。

 ソクラ村周辺では、年に一度、奇妙な出来事が見られる。普段は凶暴な魔物リッカーが何千何万頭も集まり、集団で交尾をおこなうのだ。かといって、村人たちは避難などしない。なぜなら、その夜に限って、リッカーは人間を襲わないからだ。もちろん、彼らの交尾を邪魔しなければ、の話だが——。

 それは、まさにリッカーたちが交尾のために集まってきた夜。

「ウオォーン!」という求愛の鳴き声が、そこら中にこだましていた。

(今年もうるさくて寝られないな——)

ベッドの中で、カリスはリッカーたちの声をぼんやりと聞いていた。

 しかし、突然、鳴き声の様子が変わる。

「ウオオオォー!!」

怒りに満ちた雄叫び。——そして人間の悲鳴!!

 カリスはベッドから飛び出した。

「父さん! 母さん!」

居間では、外の様子を見に行った父親が、ちょうど戻ってきたところだった。

「どうやら異世界の冒険者がリッカーにちょっかいをかけたらしい。あいつら怒り狂って、手がつけられない」

父は、玄関脇に立て掛けてあった刺又を手にした。

「あなた、大丈夫なの?」

母がその腕にすがりつく。

「かなり危険だ。お前たちは家中に鍵をかけて、一歩も外に出るな」

そう言って、父親は外に出て行った。カリスが見た父の最後の姿だった。

——ドンッ!!

外の壁に何かがぶつかる音。

「ひっ!」

カリスは母に駆け寄った。

ドンッ、ドンッ!!

音は次第に激しさを増す。壁のすぐ向こうから、ウゥッ、というリッカーの呻き声が聞こえてくる。

「カリス! カリス!」

母はカリスをきつく抱きしめた。

「あなた、戻ってきてぇー!」

母は何度も何度も父親を呼んだ。たが、一向に返事はない——。

「ねぇ! あなた! お願いだから戻ってきて!!」

母は半狂乱で叫び続けた。

——バンッ!!

ついに戸が破られた。激昂したリッカーが目の前に立っている。

「ヒッ……、あ、あっ……」

母親は恐怖のあまり悲鳴を上げることすら出来なかった。

「母さん!」

リッカーに釘づけになっていた母の視線が、胸に抱いたカリスに注がれる。その瞬間、カリスは、母の狼狽した眼に強い意志が宿るの感じた。

「カリス、逃げなさい!」

「でも、母さん——」

「いいから、早く行きなさい!!」

母はカリスを押し出した。

 泣きながら、窓を乗り越えようと枠に足をかけた、その時——。

「うわぁあああー!!」

絶叫に振り向くと、母が包丁を手にリッカーへ突進しているところだった。

 包丁は確かにリッカーの腹に突き刺さった。——が、それはリッカーが母の頭に噛りつくのと同時だった。

 バリッ、バリッという、頭蓋骨の砕ける鈍い音がやけにはっきりと聞こえる。あの時の母の目は一生忘れられない。すでに息絶えた者の眼をしていた。

「——っ!!」

外に出たカリスは、声にならない叫びを上げた。

 地獄だった。

 逃げ惑う村人たち、徘徊する無数のリッカー、そこら中で人間が喰われている。

「助けて! ねぇ、助けてください!! お願いします! お願い——……、あっ、アァアア!!」

傍らでは、隣の家の奥さんが、リッカーに命乞いをしながら齧られていた。カリスはただ突っ立ったまま、それを眺めた。

「何だこれ——?」

現実感のない、夢のような感覚だった。正気を保つために、正常な感覚が遮断されていたのだろう。

 幼いカリスは突如思い出した。そういえば、宿には二組の異世界転生者パーティーが泊まっている。彼は弾かれたように駆け出した。

 やっとの思いで着いた時、パーティーは脱出の準備している最中だった。

「お、お願いします! 村を助けてください!」

カリスの訴えを無視して、彼らは黙々と準備を進めた。

「お願いします! ねぇ! 勇者なんでしょう?!」

カリスは勇者らしき男の腕を掴んだ。

「悪いな。俺たちじゃ、こんな数を相手にするのは無理だ」

男は冷たく言い放った。

「でも! 魔王を、魔物を倒すために旅をしてるんじゃないの!?」

「そりゃ、そうだが……。俺たちはこっちの世界で死ぬつもりなんてないし、とにかく無理なもんは無理だ」

男は馬にまたがった。

「君、お父さんとお母さんは?」

魔法使いらしい女の人がカリスに聞いた。

「二人とも死んだ」と口に出せず、カリスはただ俯くことしかできなかった。

「ねぇ、この子も連れて行こうよ! 一人だけでも助けたいよ!」

「わかった。早く乗せろ」

彼女に抱き抱えられ、カリスは馬車に乗り村を出た。



「——その後のことは、よく覚えいません。王都で降ろされたわたしは、ウェッソン武器店で住み込みで働き、十八歳のときに公募試験を受けて王政府職員になりました。これが、わたしの『魔物を駆逐したい』という動機の元です」

言い終えると、カリスはぐいと酒をあおった。

「それは、壮絶でしたね——」

ベルがしんみりと言った。傍らではハフマンが涙ぐんでいる。

「あまり暗くならないでください。昔のことです」

外を見ると地平線が白みかけていた。もうすぐ夜が明ける。

「わたしとマロン局長はここで仮眠を取って仕事を始めますが、みなさんはどうしますか?」

「俺は統帥本部に戻る」

グラディウスは席を立った。

「儂も科学技術局に戻ろうかの」

「それでは、わたしは総務局に。ベル殿も財務局に戻るでしょう?」

「ええ、まあ」

「資料は、明日わたしが事務局に提出しておきますね」

マロンは机に散らばった資料を集め、フォルダに仕舞った。

 僅かばかりの睡眠を楽しみにして、一同はそれぞれの部局に戻るのだった。

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