第19話 メグリン、新会社に出社
社長に退社の旨を告げると、君もかと言われてしまった。それはそうだろう。私は五年間この会社に勤め、大抵の事なら何でもこなせると自負していたのだから。慣れた人が辞められるとあって、通さんの時とはだいぶ違っていたし、できることなら踏みとどまってほしいとさえ言われた。
「それで、退社の理由は聞かせてもらえるかい」
「あのう、一身上の都合ということで、処理して頂ければと思うので……」
「ああ、君も涼風通さんと同じ理由ですね」
私はぎくりとしたがそれ以上は話すことはできなかった。給料が三倍になることも黙っていることにした。
ただ、他の社員だけは社長の目のないところで、理由を聞いてきた。それにも答えることはできなかった。スカウトされたというのも、自分の実力ではないような気がするし、給料の事を話せばひがまれるに決まっている。どうしてなのかと勘繰られるだけだ。
綾が一番しつこく聞いてきた。誰かと結婚するのではないかと、怪しんでいるのだ。
「メグリン様、ご結婚なさるのですか? あ、いやいや、答えたくなければ結構なのですが……」
「いいえ、違います。それは断じて違います」
「じゃあ転職、あるいはそのための準備……ですか」
「そんなようなものです。働くことになるとは思います」
「そうですかあ。ずっと一緒にいてくれたから、寂しくなります」
「私も、寂しいですが……いろいろ事情があって……仕方ありません」
そこで二人は押し黙ってしまった。事情があると言われれば、綾もそれ以上は聞いてこなかった。
一か月はあっという間に過ぎてしまい、通の会社へ通う日がやってきた。前の会社の人と顔を合わせないように、と時間帯をずらして出かけることにした。初日は通さんと行くことになっていた。
会社のビルは五階建てエレベーターに乗り上へ上がった。通さんが五の数字を押した。緊張する。このビルに来るのは社長との面接以来だ。五階には会議室や社長室や秘書室などがあり、一般の社員とは隔たったスペースの一角にある。何が待ち受けているのかと、心臓が飛び出しそうなほど緊張している。
私たちは社長室へ入った。
「おはよう友村君」
「おはようございます」
「調子はどうですかっ?」
「あ、絶好調です!」
「なら、結構。今日からよろしく頼みますよ。うちの会社はハードだがしっかりやってくれたまえ」
「はい。体力なら自信があります。誠心誠意頑張ります」
「誠意だけでは務まらないんですが、いいですか、頭脳も使ってくださいよ」
「はいっ!」
「よろしい。では、秘書室に案内して、通」
私はエネルギッシュな社長に会い、通さんに連れられて秘書室へ入った。そこには生え際だけ白髪で他は黒々と染めた小柄な女性が一人座っていた。彼女は立ち上がり私に挨拶した。
「社長秘書の、武藤より子です。よろしくお願いしますね」
「私は友村めぐです。あだ名はメグリンです」
「ではメグリン、あなたはこちらの机を使ってくださいな。パソコンもあなた専用だから自由に使っていいわ」
「ありがとうございます。分からないことだらけですが、色々教えてください」
「あら、それじゃあ困るけど……少しずつ覚えてくださいな」
彼女は、黒縁の眼鏡をくいッと上げて眼鏡越しに私の全身を見た。
通さんも武藤さんに挨拶した。
「武藤さん、ご指導よろしくお願いします。彼女は物覚えはいい方ですので」
「その言葉を信じますよ、通さま。なんせ、彼女は通さんの秘書なんですから」
「通さん専属の秘書なんですか?」
「そうよ。ご存じなかったのかしら?」
「ああ、そうだったんですね」
「そう言うことなんですよ、メグリン。なので、僕の部屋へ来てください。これから仕事の打ち合わせをしましょう」
「ちょ、ちょっと待ってください。スケジュール帳を持って行きますので」
私は、持ってきた荷物の中からスケジュール表と筆記用具を出し、通さんの後に着いて行った。入り口には企画室と書かれていた。入って行くと数人の社員の人たちが既に座って仕事をしていた。通さんの席はその真ん中の一番大きな机だった。
私は案内されるまま衝立の向こう側にあるソファに座って通さんが来るのを待った。
「ここが僕のオフィスです」
「では、打ち合わせを始めましょう」
整然と配置された机とこぎれいな応接セットが置かれた部屋。ここが通さんの仕事部屋だった。今日は驚くことの連続だった。
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