第17話 メグリンをスカウトする

 翌日会社へ行くと通さんがいなくなった席はぽっかり穴が開いたようだった。隙間風が吹いているようで今更ながら彼の存在感の大きさに驚かされた。綾は一人打ちひしがれているし社長も憮然としていて機嫌が悪かった。退社の理由がよくわからないまま去ってしまい、怒りの向け先がわからないのだろう。みな釈然としないまま黙々と仕事をし、時が過ぎて行った。


 休み時間になり綾が私にいった。


「通さん、本当に辞めちゃったんですね。まだ信じられません。急にいなくなっちゃうなんてメグリンだって驚いたでしょう」

「……えっ、ええ、まあ。驚いたわ。これからどうするのかと思って心配になっちゃった」


「彼のことだから仕事はすぐ見つかるでしょうけど、がっかりだわ。私のこと好きじゃなかったのかしら」

「そんなことはないでしょう」


「そう、そう思う。じゃあまた会えたら私を誘ってくれるかしら」

「どうかなあ。離れてしまうとわからないものよ」


「ああ、そんなこと言わないでください。悲しくなっちゃうう……」


 綾は寂しさを隠し切れないでいる。自分に気があると思い込んでいたようで、気の毒だ。本当に気の毒に思うが、こればかりは仕方がない。通さんが一体これから何をしようとしているのかは私にもわからない。


 

 その日もいつもの様に九時ごろ家に帰ると、頃合いを見計らって通さんが現れた。もうそろ帰宅時刻だと思ってやってきたのだろう。


「今頃帰ってくると思いましたから」

「通さん、新しい会社へはもう行かれたんですか」


「はい、今日行ってきました」

「……で、今度の会社はどうでしたか?」


「実は……メグリンンだけには言いますが、今度の会社というのは僕の親がやっている会社なんです」

「えっ、すると通さんは社長令息だったんですか?」


「そんな大それたものではありませんが、まあそういう人もいます。今まで自分の親の元で働くのに抵抗があって、外で働いていたんです」

「だから派遣で色々なことをやってきたんですか」


「まあ、それもあります。それであなたに提案があってきました」

「以前そんなことをおっしゃっていましたね。何でしょうか?」


「僕の会社で秘書をやってほしいんです」

「えーっ、それはスカウトですか! 私秘書の経験はありませんが」


「別に仕事は来てからでも覚えられますので大丈夫です。それで給料は、今の二倍出しますので断らないでいただきたい」

「二、二倍ですって!」


「どうですか。嫌ですか?」


 私はあまりに唐突な提案に面食らってしまった。そんなことを提案されるとは夢にも思わなかった。父親が会社をやっているからと言って、それでいいのだろうか。私をスカウトする理由は何なのだろう!


「ど、ど、どうして私をスカウトするのか、理由は何でしょうか?」

「理由ですか。そんなものが必要ですか?」


「必要でしょう。でなければ、お父様は納得しないのでは?」

「適任だと言えば納得するでしょう」


「はあ、でも私はとても不安です。他の社員の方々も何と思われるか」

「分かりました。では、三倍給料をお支払いしましょう」


「給料の事を言っているんじゃないんです! ああ、何と言ったらいいのか、本当に私がそんな秘書として価値があるのか、私にもわかりません。後で後悔するんじゃないかと」

「もう、分からない人ですね。僕がいいと言っているんだから、大丈夫なんだ! 信じてください!」


「では、考えさせてください。お返事はいつまでにすればいいですか」

「出来るだけ早い方がいい」


「考える時間を下さい。急なお話ですから……」

「決心がついたら報せてください。でもあまり長くは待てませんよ」


「分かりました。社長には何と……」

「他にいい仕事が見つかったと言えばいいでしょう。でも決めるまでは言わないほうがいいでしょう。多分引き留めると思いますから」


「そうだといいですけど。だけどそっちの会社へ入ってすぐに首になってしまうようなことはないでしょうねえ。それじゃあ、今よりも大変なことになってしまいま」

「大丈夫。僕が首になんてさせませんから」


 何とも狐につままれたような気分だった。給料を三倍出すなんて、そんないい話が突然降ってわいたように起こるなんて、今までの人生で初めてだ。誰の人生でもめったにあることではないだろう。そうだ、一番肝心なことを聞いていなかった。


「あのう、通さんのお父様の会社名を教えてください。それから勤務先はどこでしょうか?」

「そうでした。肝心なことをまだ伝えていませんでした。ここに名刺があります。持っていてください。勤務先もこの住所です」


 私は、名刺を受け取りそこに書かれた社名を見た瞬間、ぽかんと口を開けてしまった。そこには私の聞いたことのある社名が書かれていたのだ。かの有名な万能製薬。以前は富山県を拠点に薬の販売をしてたのだが、東京へ進出し大手にまでのし上がった会社だ。


「ば、万能製薬だったんですか。た、大変失礼しました」

「父が東京へ進出し、成功したんです。僕は大学を卒業してから、すぐに父の会社へ入るのには抵抗があり、派遣社員として様々な職種で働いていたんです」


「社会勉強ってことですかあ」


 何とも羨ましい。でも、やはり私をスカウトした理由は分からずじまいだった。それだけ話すと、通は隣の部屋へ帰って行った。



 通は隣の部屋でつぶやいていた。


『しかし俺は何でメグリンをスカウトしようと思ったんだ。嫌な奴ではないが、秘書として向いているかどうかなんて全く分からない。向いていないかもしれないのに……。俺の中の本能がメグリンに傍にいてほしいと言っているのだ。どんなことをしてでもメグリンに来て欲しいとプリンスが言っているようだ。俺の体はまだプリンスに支配されているんだ! 俺はあいつからは自由になれないのか。しかも、何たることか、通に戻ったのにメグリンをスカウトしてしまった!』

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