第16話 突然の退社 

 朝出社していくと、今日は珍しく通さんが先に来ていた。


「あら、通さん。今日は早いですね」

「はい、色々とありまして」


 通さんはなぜか落ち着かない様子だ。しかも紙袋に自分の荷物を詰めている。


「何をしているんですか?」

「後で社長から話があるはずです」

「もしかして会社を……」


 私は嫌な予感がした。突然入社してきて、まだ三か月ぐらいしか経っていないのに。始業時刻になり、社長が立ち上がった。


「皆さん今日は残念なお知らせがあります。涼風通さんが今月いっぱいで退社します」


 周囲からはざわめきが起きた。通さんはゆっくりと立ち上がり、皆に丁寧にお辞儀した。


「短い間でしたがお世話になりました。今月いっぱいで退社いたします。あと一週間ぐらいですが、ありがとうございました」


 綾の肩が小さく震えだした。悲しげな顔をして通を見つめている。目には涙が光っていて、恨めしそうな表情をしている。今まで度々家へ来て、個人的な話をする機会はたくさんあったはずなのに、私にはその事は何も言っていなかった。特別ここでトラブルもなかったのにどうしたことだろう。


「通さん、なぜですか……」


 綾が小声でつぶやいた。自分自身に行っているのか、通に行っているのかわからなかった。通は小さい声でいった。


「家庭の事情で退社しなけれならなくなりました。すいません」


 人には色々事情があるのだろう。これ以上聞いてはいけないのかもしれない。そうすると、隣の家は引き払うつもりなのだろうか。あるいは家はそのままにしておくつもりなのか。通さんが隣の席に座り仕事を始めたのを見計らって、私は彼にメモを見せた。


(引っ越しするのですか。それとも、そのまま?)


 誰かに見られてもさほど問題にならない文面にした。


(いいえ、家はそのままです)


 では、まだ仕事以外の部分では変わっていないということだ。私にとっては、会社で会わなくなってもあまり生活に変化はないだろう。一日中会う必要がなくなり、むしろホッとした。ただ意味もなくからかわれることがなくなると思うと、一抹の寂しさもあった。心のどこかで通さんと話をするのを楽しんでいる自分がいたのではないか。少し自信家で、カッコつけているくせに、どこかひょうきんなところがあり、それほど嫌味ではなかった。

 あまりに短期間で、しかも辞めるのが急だったので、送別会の話は出てこなかった。


 会社に来る最期の日、通さんは私にいった。


「もう会社では会えなくなってしまいますが、家には入れてください。僕の中のプリンスがあなたに会いたがっているようです」

「ええ、もちろん。でも、急にやめてしまうなんて、私にだけは訳を教えてくれませんか」


「いずれ訳は分かります。でもちょっとここでは言えないんです。今日メグリンの家に行きますね。あなたにだけは言っておきます」


 二人きりになったら教えてくれるのだろうか。まあ、理由は後でじっくり教えてもらうことにしよう。


「是非、来てください。待ってますね」


 私は、好奇心もあり強く念を押した。その日の夜、通さんはワインを片手に入って来た。私はパスタを作って二人だけの送別会をすることにした。


「会社ではもう会えなくなっちゃうので、今日は送別会にしましょう。二人きりですけど」

「僕もそのつもりで、ワインを持ってきました」


 私はパスタとサラダ、つまみにチーズを用意した。ちょっとしたディナーになった。グラスに赤ワインを注ぎ乾杯した。


「お疲れさまでした」


 私がそう言うと「たった三か月だったけど、いい経験になりました」

と彼は答えた。


「それで、これからどうするんですか。次のお仕事は」

「仕事はあります。薬品や、健康食品などに関係する仕事です」


「では、今までとあまり変わらない分野ですね」

「まあそう言うことになります」


「それなら安心しました。会社を辞めてしまって生活の心配はないのかなと心配していたんです」

「おお、優しいですね」


「プリンスがらみの仲ですから。あら、今日は通さんのままのようですね」

 

 普段の通さんと違って、素敵な雰囲気で接してくれているし、とても紳士的だ。こんな一面もあったんだ。


「新しい会社に移っても、また来てください。別の会社のお話も聞きたいです」

「はい、そのうちあなたにある提案をさせてもらうつもりです」


「あら、どんな提案なんでしょうか」

「それは後のお楽しみです。また来ますからその時に」


 通さんは食事を楽しみ、最後にコーヒーを飲んで帰って行った。会社では風のように現れて風の様に去っていった。涼風という名前のように、爽やかな風を吹かせて通り過ぎて行ったということなのだろうか。


 会社へ行って隣の席に彼がいなくなると、無性に寂しい気持ちになった。家へ来りベッドに横になると、そこに通さんが寝ていたのだと思うと、次に来る日が待ち遠しくなっていた。

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