第15話 何食わぬ顔で
出社時刻になり、ドアを開けると通さんが丁度外へ出たところだった。ここから一緒に会社へ行くのはまずい。誰の目があるかわかったものではない。
「通さん、別々に行きましょう」
「そうですね」
「だって、一緒に歩いていると怪しまれますから」
「じゃあ、メグリンが先に行ってください。いつもそうだったでしょ」
「では、お先に。見えなくなったら出てください」
「僕はいつも五分前でしたからゆっくり行きます」
私は、そそくさと家を出て会社へ向かった。私が会社へ着くころには、大方のメンバーがやってくる。後ろを振り返ったが、通さんの姿はなかった。約束通り始業五分前に、通さんがやってきた。
綾の目が輝いている。彼女は私と通さんの仲を疑っているのだ。最近親密な雰囲気だと怪しんでいる。確かに親密は親密だが、これには説明できない深いわけがあるのだから仕方がない。綾がちらりと彼の方を見て挨拶した。
「おはようございます。通さんっ」
彼は昨日の寝ぼけ顔が嘘のように、きりっとしている。シャツをパリッと着こなし、紺地に水玉のネクタイをつけお洒落だ。派遣社員なのだが、小ざっぱりとお洒落な身なりをしているのは少々不思議ではある。綾に飛び切りの笑顔を見せて、通が言った。
「綾さん、おはようございます。素敵なブラウスですね」
声を掛けた人には気を遣って、褒めることを忘れない。私も挨拶してみよう。どんな反応をするかしら。
「おはようございます。通さん」
「メグリン、おはようございます。あれ、髪の毛、寝癖が付いてますよ」
「本当ですか!」
私は慌ててトイレに駆け込み、髪の毛を見た。右側の髪が跳ねて外側を向いている。寝ぼけて髪を梳かしただけで、ドライやーもあてずに慌てて出て来たんだった。でもやっぱり私にはこんなことを言うんだわ。
綾は、くすっと笑っている。通さんは私には意地悪なのだと優越感に浸っている。トイレから戻ってきた私に通さんがいった。
「アハハ、寝相が悪いんですね」
「まあ、私そんなことはありませんっ! 昨日は忙しかったんですよ、色々あって」
「家へ帰ってそのまま寝てしまったのかと思いました」
「私にもいろいろな用事があって大変なんです」
「……そうでしょうねえ」
「通さんは悩み事は無いのですか」
「……僕にもいろいろありますが、眠れないということはありません」
綾は馬鹿にしたような顔でこちらを見ている。通さんは昨日の事を覚えていないのかしら。半分猫なんだから、よく眠れるだろう。そうだ、私がソファで寝ていたことを知らないんだわ。その後ほとんど眠れなかったことも。
私は眠い目をこすりながら書類整理の仕事を始めた。それからパソコンで資料作成に取り掛かり、ようやく昼食時間になった。私は周囲に人がいなくなった瞬間を見計らって彼に訊いた。
「昨夜のこと覚えていませんか?」
「ああ、君の家にいたことですか」
「覚えているんですね。では、眠ってしまい夜中に帰ったことは?」
「へえ、そんなことがあったんですか」
「ええ、目が覚めてからラーメンを食べました」
「そうですか。そこは全く覚えていません」
「そうだったんですか。それでは私の寝ぐせの訳もわからなかったはずです」
「知らない間に、迷惑をかけっぱなしですね」
「いえいえ、何とか元に戻す方法はないのかしら」
「僕もいろいろ手を尽くしていますので、もうしばらくお待ちください」
昨日の事は全く覚えていなかったようだ。それでは私が大変だったことなど考えも及ばないだろう。はあ、これからどうなってしまうんだろう。まだまだこの生活は続くのかしら。
弁当の準備もできなかったので、私は外で昼食を摂ることにした。出かけようとすると通さんがついてきた。
「メグリン、外食ですか。僕も外で食べます。美味しい店へ案内してください」
「は、はい。では、一緒に行きましょう」
通さんは涼しい顔をして、私の横にくっついて歩いている。背がかなり高いので、私よりも頭一つ分ぐらい上に顔がある。斜め上を向かなければ話ができない。首を上に向けて話しかけた。
「どこへ行きますか?」
「定食か何かにしましょう。昨夜はカップラーメンしか食べてなかったんですよね」
「はい、夕食を食べ損ねちゃったんですよ」
「食べたような気はしました。口の中にラーメンの匂いが残っていたから」
「ふ~ん。じゃあ、ここにしましょう」
通さんは店の前のショウウィンドウを指さしていった。
「おお、魚定食いいですね。僕は鯖にします」
「では私は鮭にします。通さん、お魚がお好きなんですか」
「はい、焼き魚はいいですね」
私は、焼き魚に小鉢とみそ汁がついた定食を注文した。久しぶりにまともな食事ができ、ホッとしてお茶を飲すすった。お茶のお代わりをして、ゆっくりと昼休みの時間を過ごし、心とお腹が満たされた。財布を取り出していると、通さんがここはいいからとレシートを掴んでレジに向かった。
「昨日のお礼です」
「あら、大したものじゃなかったのに」
「プリンも頂いたし」
「あれは姉からでした」
通さんは覚えていないと言ったり、本当は覚えていたり、だんだん正体がわからなくなってきた。会社に二人そろって戻ると、綾がどこへ行っていたのと訊いてきた。
「たまたま二人と昼食を持ってこなかったから、定食屋さんで食べてきたの」
「えーっ、いいわねえ。今度私も一緒に行きたいわ」
「偶然よ、偶然」
持参した弁当を食べていた綾は、上目遣いに私を見た。通さんは、綾にいった。
「そのうち一緒に行きましょう」
通さんは、ストレートに好意を見せてくれる綾に誘われるとまんざらではなさそうだった。綾も今度こそはと真面目な顔をした。
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