第9話 2020年5月11日

 朝起きて、いつものように、なんとなくツイッターを眺める。新型コロナウイルスに対して、自粛緩和の方向に向かうかと思えば、いや、やっぱり、自粛緩和はおかしいという人も居たりする。


 テレビでニュースを見ると、「新しい生活様式」が言われ始めているみたいだ。来月、学校に通えるようになったとして、その時の学校は以前と同じように、授業をぼーっと聞いたり、教室で駄弁ったり、部活動をしたりできる場所なのだろうか。そんな疑問が尽きない。


 昨夜は母さんは帰ってこなかった。人がとにかく足りていないとかで、泊まり込みらしい。最近、ただでさえ疲れ気味なのに、大丈夫だろうか。


 父さんの会社は、長期戦になると踏んで、逆に落ち着いたらしい。テレワークも随分浸透してきて、その会社全体でテレワークになる予定らしい。ということは、父さんが毎日家にいることになるのだろうか。


 父さんが嫌いなわけじゃないけど、そうなったら、少し落ち着かない。会社の人と話しているときにうるさくしないように注意する必要もあるだろうし。


 そういえば、今日はヒナと散歩に行くのだった。メッセージだけでいいかと思ったけど、やっぱりベランダで話をすることになった。


「そういえばさ。今日はどこに行く?」


 こないだは錦糸町に行ったけど、もっと遠くに行くとなると電車に乗る必要がある。電車の中だと、子どもがなんで家でじっとしていないんだ、なんて目で見られるだろう。


「ちょっと、北に行きたいな」

「北?何かあったっけ?」


 僕たちの住む亀戸駅近くのマンションを北に行くと、15分くらいで北十間川という川に突き当たるけど、何か面白いものはなかった気がする。


「何も無くてもいいの!運動不足だったし」

「そういえば、そんなこと言ってたね。いいけど」

「じゃあ、後で」


 素早くジャージに着替えて外に出る。見ると、扉の前には既に着替えたヒナの姿。


「なんか、早くない?」

「なんか、うずうずしちゃって」


 あんまり外出できない反動だろうか。今にも走り出しそうなヒナの様子が少し微笑ましい。


 外に出ると真昼の日差しが差し込む。まだ暑いというほどじゃないけど、あと一か月もすれば6月で、夏も遠くないように思えた。


「ちょっと眩しいね」


 手を額にかざすヒナ。


「ウイルスがこれで消えてくれればいいのに」


 そんなことはないとわかっていても、ついぼやきたくなってしまう。


「ウイルスって熱とか湿気に弱いって聞いたことがあるんだけど、どうなのかな?」


 ヒナはヒナで色々気になっていたのだろう。


「どうなんだろ。もっと暑い国でも広がってるみたいだし、専門家の先生も何とも言えない、だってさ」


 僕も、以前にそんな情報を見たことがあったけど、やっぱり偉い先生によると、そういう傾向はあるけど、わからない、らしい。世の中はほんとにままならない。


「やっぱり、都合の良いことはないよね」


 溜息をつくヒナ。


「わからないって言っただけで、暑くなったらほんとに収まるかもしれないよ」


 そうなってくれればいい、と本気で思う。


「うん。そうだといいよね」


 少し暗い雰囲気になってしまったけど、外を歩くと、新鮮な空気が胸に入って来て、それだけで少し元気になる。


 休校になる前、僕はインドアを気取っていたけど、ほんとはただ学校へ行って帰って来るだけで運動をしていたし、それが大切な事だったのだと、今更ながら気づく。


「はー。空気が美味しい」


 ヒナが少しすっきりした顔でそう言う。空気が美味しい、なんて以前の僕が聞いても戯言としか思わなかったけど、今はほんとにそう思う。


「悔しいけど、同感だよ」


 規則正しい生活を、とか、運動しなさい、とか、大人が子どもを従わせるだけの中身のない言葉だって思って聞き流していたけど、ほんとに正しかったのだろう。


 北へ向かって大通りをしばらく歩くと、とある神社の看板。亀戸近くの神社といえば、亀戸天神が有名で、初詣でもほとんど人がそっちに行く。この神社は、それに比べると小さい神社だ。普段は興味も引かれないけど、ふと、見てみたくなった。


「ね。ちょっと行って見ない?そこの神社」

「いいけど。どうしたの、急に?」


 訝し気なヒナ。


「散歩するなら、行ってもいいかなって思っただけ」

「ならいいけど」


 大通りを少し内側に入ったところにそれはあった。


 亀戸天神に比べれば、だいぶスケールは落ちるけど、意外に大きな鳥居もあって、思ったより全然ちゃんとしていた。


「意外にちゃんとしてるもんだね」

「ゆうちゃん、失礼だよ」


 ヒナに窘められる。考えてみれば、神社の人が聞いていないとも限らない。慌てて周りを見渡すけど、誰も居なかった。


「参拝、していかない?スポーツ振興の神様なんだって」

「ほんとだ。でも、スポーツ振興の神様ってなんだろ」


 ま、いいか。賽銭箱の前に立つと、神様なんてものを信じていない僕も、厳粛な気分になってしまうのだから、不思議だ。


 神様がお願いをかなえてくれるかわからないけど、祈ってみるのも悪くないか。ぱん、ぱんと、拍手して、心の中で祈りを込める。


 ふと、視線を感じて横を向くと、ヒナが僕の事をみつめていた。


「ど、どうかした?」

「なんでもないよ。お願いしたの?」

「早くこんな日々が終わりますようにって、一応祈ってみたよ」

「ゆうちゃんらしくないね」

「効果がなくても、たまにはいいかなって思ったんだよ。ヒナは?」

「んー。私も、同じかな。早く、元通りの日常が来ますようにって」


 同じようで、少し違う願いを込めて僕たちだった。もう一つのお願いは口には出さなかった。初詣の時にもかなえてくれなかったんだ。やっぱり効果なんてないだろうし。


「帰ろうか」


 ヒナが口にする。


「いいの?どこか行きたいところでもあったんじゃないの?」

「ううん。ほんとに、ちょっと外を歩きたかっただけ」


 口ぶりに嘘は感じられなかった。


「もし、来月、登校できるようになったとしてさ」


 ふと、ヒナに聞いてみたくなった。


「元の学校に戻ると思う?」


 すぐには答えが思いつかなかったのか、ヒナは思案顔だ。


「戻るよ、きっと。ゆうちゃんは?」


 「きっと」と言ったヒナも、自信があったのかどうか。


「戻ればいいなって思う」


 元に戻ればほんとにいいのだけど。休校になってから、ずっと話していなかった友達と、すぐ元通りになれるか僕は自信がない。それに、ヒナのことだってそうだ。普段より一緒に居られる今でさえ、告白ができる自信がない。告白なんて、そんなことを言っていられる時期じゃないだろう、と自分にいつまでも言い訳をして。そんな僕が、いつか告白できる日が来るだろうか。


 その日は、勉強会をすることもなく、ぼーっとベッドに横になっていた。外には真ん丸な月が輝いている。


(いつか、勇気を持てるだろうか……)


 そんなことを改めて考えてしまう。そんな夜だった。

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