Track.7-33「空の 王よ」

 流線――――それはひどく緩慢な時間の中でほんの一瞬輝いたと思うとすぐに消えた。

 青白い色をしていた。いや、透き通った翡翠色だったような。若しくは剥いた枇杷びわの熟れた果実のような色だった。

 それらに気を取られて、化け物アキラの羽根を握りこんで固めた拳が左肩に衝突しても尚脱力していたのが功を奏したのだ――結果、激しい痛みは覚えたし身体全体が吹っ飛んでざらざらとした屋上の床を転がったけれど、負傷の程度は思った以上に大したことは無かった。

 よろめいて立ち上がり、先程垣間見えた色とりどりの線が流れる風景へと振り返る――けれど、線はもうどこにも無かった。目を細めても見開いても、瞳孔に飛び込んでくる光はただ化け物アキラが追撃しようと左腕を振り翳しながら肉薄せんと駆け込んでくる姿だけ。

 未だ明白にならない霞がかった思考は当てにならない。ただ、長年武道を叩き込まれた身体は条件反射的に横っ飛びを選択する。脳ではなく脊髄がそうさせたのだ。


「くそぉっ!」


 真上から振り下ろされる左拳――右同様、固められた羽根が強靭な籠手ガントレットを形成している――それが地面に衝突すると、コンクリートには同心円状の亀裂が生まれ、聞きたくもない音とともに細かい灰色の破片が飛び上がった。

 ふたつ。身体を反転させながらバックステップで距離を取ったオレはいつもの構えオーソドックススタイルを取る。化け物アキラはゆっくりと地面から拳を引き剥がし、緩慢な動作でオレの方を向く。


 距離を取れば風切り羽根が。

 肉薄すればあの巨大な拳が。


 コンクリートをも砕く強固な拳の一撃をモロに喰らった左肩はずきずきと疼痛を訴えている――全く脱力していたおかげで、それでもどうにか動かせるし、痛み以外の問題は無い。

 打つ手がさっぱり見えてこないというのが大問題なんだけど、どうしてだが先程からやけに思考に霞がかっている。首筋が熱くて、耳を澄ますと遠くの方でガチャリガチャリと、何かが組み変わっていく音が聞こえる気がする。

 幻視に続いて幻聴――オレはどうにかしてしまったみたいだ。そりゃあ暁がいなくなった直後の連続行方不明事件だ、日増しに不安感は募っていったし、今日は朝から緊張しっぱなしだ。感情だって振り幅いっぱいに揺さぶられた。何らかの神経疾患になっていてもおかしくないストレスだ。

 ああ、また――関係ないことを考えてしまう。目の前には先程見た光景をなぞるような拳を振り翳し肉薄する化け物アキラの姿。しかし今度は脊髄も脳の代わりに指令を出してくれないらしい。

 しょうがないから、振り下ろされる拳の軌道をじっと眺めた。脳は今も遠くであの音を奏でていて、それが煩くて気に障ってまともに何かを考えられない。首筋の熱は頭と、そして背中を伝って全身へと肥大していく。ああ、自分の中身がぐちゃぐちゃになっていくようだ。


 だいたい、化け物の肉体を得ても暁はやっぱり喧嘩素人だ。いちいち攻撃の溜めがでかい。破壊力は見込めるだろうが、躱す・捌くと言った防御手段を容易にさせる。

 ひとつバックステップで距離を取る。拳は今度は地面を穿たずに横薙ぎに流れ、同時に化け物アキラの体勢も崩れる。

 好機チャンス――すぐに右足を大きく踏み出し、軸足を回転させて射程と遠心力を高めた空手特有の上段回し蹴りを化け物アキラの横っ面目掛けて振り下ろした。初手の目潰しサミングで顔面への攻撃に対しては羽毛硬化の反撃カウンターが無いことは知っている。


「ぐ――――ぅっ!」

「はぁ!?」


 ぎゅうと固めた足尖が頬に突き刺さるも、しかしそこから振り抜けなかった。化け物アキラが踏ん張って耐えたのだ。目潰しサミングは局部打撃、ただ当てれば良かった攻撃だが、上段回し蹴りはそうじゃない――屈強で太い首回りと巨躯を支える下肢一帯の筋肉はその化け物然とした見た目通りの仕事をした、ってことだ。

 しかしそうなると今度はこちらの体勢が大きく崩れることになる。

 頬に突き刺さったままの足尖を膝の折り畳みで引き戻し――それと同時に、化け物アキラは固めた左拳をぶん回してくる。軸足で床を蹴って空中へと浮かび上がったオレは両手を交差させて胸の前に置くと、衝突インパクトの瞬間に全身の力を両腕に集中させ――


 ――がづんっ。


 瞼を開けると、世界は回転していた。当たり前だ、踏ん張りの聞かない空中で伸びあがるアッパーカットを喰らったんだ、人間みたいな縦長の棒状の物体は跳ね上げられてぐるぐると回転する。

 しかし二回転もすれば勢いは落ち、オレはふわりとした放物線上で自分の身体が屋上のへりへと近づいていることに気付く。

 あ、これ、落ちるな――って。


 流線が視えた。

 首筋から生まれた熱は四肢の先端へと移ろっていて、その熱のせいで両腕に衝突した拳の痛みは全く感じない。

 脳の遠くで鳴り響いていた何かをがちゃりと組み替えていたあの音も、気付けばぴたりと止んでいた。ただ代わりに、誰かが呼ぶ声が密かに囁かれている。


『―― ――』


 誰を呼んでいるのか、それとも何かを告げているのだろうか。掠れた声で囁かれた言葉は聞き取れず、オレは空中に投げ出された体勢のまま走馬灯のような緩慢な時間間隔の中その声に耳を欹てていた。


『―― ―よ』


『―の ―よ』


 誰だか知らないけど、オレに言ってんならもっと聞きやすい声にしてくれ!

 溜まらず脳内で叫びあげたオレの耳は、遂にその声を――いや、その名を聴覚した。


『空の 王よ』


 まるで世界の一切合切、森羅万象を恨み上げるような燻ぶった声。しかし一度はっきりと耳にすると、どうしてだかオレの輪郭にがっちりと嵌る気がした。


『空の 王よ 我ら 馳せ 参じ 共に 戦う』


 それは多分――“盟約”だった。

 ぶつりと何かが頭の中で断たれ、断たれた傍から捻られ再び継がれる感覚があった。

 その感覚が過ぎ去った後で――――屋上の縁から飛び出そうとしたオレの身体は、何かにぶつかったかのように急停止し、その場で降下を始める。


 とす。


 片膝を折る形で難なく降り立ったオレの思考は、それまで蔓延していた霞が晴れ、すっかりと明白クリアになった。

 視界には夥しい程の流れる線――まるで世界そのものを蹂躙しているように、縦横無尽に輝きを散らしている。

 その中で、オレを目掛けて放たれた風切り羽根が4つ。

 だからオレは、それらに背中を向けた。


 一歩、二歩、三歩――初速からこれまでの限界を超えて最高速度をぶち破った運足は一秒にも満たない間に屋上の縁を踏み付ける。

 眼下、遠くにはひとつ階下のバルコニー。距離はたぶん10メートルより短くは無い。


 走り幅跳びの世界記録ってどれくらいだったっけか――確か、8メートルと少しだったか。

 やけに冷静というか、冷淡な頭でそんなことを思いながらオレは屋上の縁を蹴って――



 跳び出した瞬間、世界は劇的にを変えた。


 いや――そうじゃない。世界は何一つ変わらない。変わったのは、オレの方だ。

 オレの、こそが変わったのだ。


 まるで七色の飴を砕いてちりばめたような空気が、オレが慣性に従って前進するのに対しそれらの輝きはこの身体を過ぎ去って後方へと流れていく。

 その銀色線の流れに身を任せながら、オレの身体はやがて跳躍が重力に負けて落下を始める。


 手を伸ばしても、あのバルコニーの手摺には届きそうにない。

 だって言うのに、オレは必死でそれを覆すために藻掻き、足掻く。


 その足は、流れる銀色線を踏んで。

 この体は、虚空を蹴って前進する。


 それは跳躍を超え、しかし飛翔には届かない――きっとそれを、オレ達は“飛躍”とんだ。



 ――ダガンッ!


 かのマイケル・ジョーダンよろしく、空中を3歩だけ駆け抜けたオレは叩きつけられるように三階のバルコニーの手摺に衝突し、ほんの一瞬意識を手放したがそれをすぐさま取り戻してどうにか離れていく手摺のへりを掴む五指に力を入れた。


「ぐ――――ぅ、おっ!」


 身体を押し上げるようにして手摺を乗り越え、這いつくばる格好でどうにかバルコニーのコンクリート床に降り立ったオレは、息を荒げながらそれまで佇んでいた校舎の屋上を仰ぎ見た。


「――――茜ぇぇええっ!」


 変貌しきった巨躯。だって言うのに、その顔は憎悪を皺深く刻んでまでアイツの面影を残している。


「――っ、――っ、――――アキラぁぁぁあああっ!!」


 咆哮は銀色線を切り裂いて震わせ、の元へと届く。


「――どうした、オレはまだこの通り、死んでぇぞ」

「殺す、殺してやるよ!茜ぇ!」

 

 きっと。


 この後オレは、苛まれることになるだろう。

 自らの手で親友をち、殴り、蹴りつけるのだ。


 その感触を、きっとオレは忘れることが出来なくなるだろう――予感にしか過ぎないけれど、でもそう出来てしまえる人間になることもまた、怖くて仕方が無い。


 勿論、死ぬことも怖かった。

 結果、こうしてどうにか屋上から吹き抜けを超えてバルコニーまで跳び移れた――何か、異質な力が働いて。その力もまた、不鮮明で酷く恐ろしい。


 怖い。

 恐い。

 こわい――――それでも。



 ダンッ――――屋上の縁を蹴り、鷲のような翼を拡げた暁が滑空してこちらへと向かってくる。

 それを悠長に眺め、待っている暇はあるがつもりは無い。身を翻して階段を駆け下り、一路運動場グラウンドを目指す。


 怖い。

 恐い。

 こわい――――それでも、オレは。


「来いよ、暁――オレは死なないし、お前に殺させもしない」



 どれだけ恨まれようと構わない。

 この覚悟が、この行為が、この抗戦が。


 お前を止められるなら。

 どんな悲劇でも、受け止めてやる。

 そして、あの頃に戻れるのなら――――そう願ったオレの脳裏に、走馬灯のようにオレたちの青春が迸る。


 やはり、オレはらしい。

 今のオレには、オレたちが過ごしたあの青春を、懐かしいとも何とも思えなかったのだから。

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