Track.7-11「これ以上ないってくらいの優良物件だ」

「――――1万円?」


 “コバルトさん”ソイツのその言葉に耳を疑った。

 だって確かに、さっきは1,000万円を軽く越えるって――そこでオレはさらに深く思い出す。


『タクシー代は取り立てに行くからさ』


 あのホテルで。そう、“コバルトさん”ソイツは言っていた。

 そしてそこまでを思い出して、オレの脳はそこから今この場までの時の流れを高速で反芻する。


 ――――そう言えば。何故親父は、“コバルトさん”ソイツの名前を――“小早川”コバヤカワだと知っている?

 “コバルトさん”ソイツは名乗らなかったにも関わらず。


 もしや、と思考がその可能性にたどり着いたところで、オレの目と喉から溢れていた感情は鳴りを潜めた。


「……あ、気付いたみたいですよ」


 “コバルトさん”ソイツがオレを見て呟く。それを受けて親父は立ち上がり、呆けて棒立ちのままのオレと向かい合った。


「――茜。騙すような真似をして済まない。ただ、俺にはこれ以上のいい考えは浮かばなかった」


 その後ろから、付け加えるように“コバルトさん”ソイツが口を挟む。


「言いだしっぺは僕だよ。君の親父さんとは10年来の付き合いでさ――一応、僕もその頃は一度この道場に顔を出したことはあるんだけど……まぁ、覚えてないよね」


 問われ、記憶を掘り起こしてもぼんやりとした風景の中にその面影は見つからない。

 10年前、なんて――オレ、まだ5、6歳だろ?そりゃ覚えてないわ。


「ごめんね、怖いこと言って。安心しなよ、君がどこの誰だかなんてうちの人間は知りはしないし、もし露見しても全力で止めてあげるから」

「何で、何でそこまで?」

「んー、そうだね――うん。僕も君みたいな時期があった、そしてその時の僕を君の親父さんが変えてくれた、からかな」


 腕を組んだ親父は、鼻で溜め息を吐くと苦い顔をした。

 親父はいつだってそうだ、自分のことは全然話さない。寡黙で、背中でばかり語りたがる。


 そんな背中に憧れていたことさえ忘れていた。

 その背中に追いつきたいと願っていたのは、いつの頃までだったか。


「だから昨晩、君の名前を聞いて思い出したんだよ。それで君がシャワーに入っている間に連絡を取って確かめたら、すごいことになってるじゃんさ――重ねてごめんね。君を、恩返しの道具にしちゃったな」

「いえ――――」


 そしてオレは、そっぽを向いた親父の前に歩み出る。

 まだ恥ずかしさが先行するけど、自分で両頬を張って気合を入れた。


 出すべき勇気は、今ここだ。


「親父、――――稽古、つけてくれ」

「……ああ、いいだろう。形式は直接打撃制フルコンタクト、本数は」

「本数は要らない。お互いに十分だって思うまでやりたい」

「……分かった」



   ◆



「それで、どうなったの?」


 校舎の屋上に吹く風を浴びながら、オレは弁当の蓋を閉めながらその物語の結末を告げる。


「どうなったも何も、すっげーボコスカやられたよ」

「ぼ、ぼこすか?」

「ああ、今思い出してもえげつねぇ――――開始と同時に胴廻し回転蹴りで肩やられてさ、うちの親父、体重90キロあんのな。それがぐわぁって翻って飛び込んできたらそりゃ押されて倒れるじゃん、そのまま水月に下段正拳だろ?んで無理やり立たされてまた腹に鉤突きもらって、ちょっと離れたら下段蹴りローキックで脚壊されてさ、堪らず跳びついたらまた腹にしこたま正拳パンチもらってさ――――」

「うわぁ……」


 痛みに共感して吐きそうな青褪めた顔をする暁とは対照的に、オレは笑っていた。

 まだ1年しか経っていないというのに、笑えるほど懐かしいというのは可笑おかしいだろうか。それでも、今のオレがそう思える、ってことはそれだけオレが変われたからなのかもしれない。


 正しさ、という概念は、時に人を狂気に駆り立てる。

 正義に酔いしれたオレは自分を正当化するために敵をずっと探し続けていた。それを強さだと過信し、自分の立ち位置を見失っていた。


 立っている場所が見えないまま走り続けるというのは危険だ。

 目の前にそびえ立つ岩壁に気付かずぶつかり続けているならまだいい。

 足元が無いことに、あまつさえ、それ故に墜ちていることにすら気付かないまま進み続けている――オレはこれだった。


 全く可笑しな話だ――強さを求めて高みを目指しながら、自らは墜落しているんだ。

 オレは運が良かった。あの夜、コバルトさんと遭遇出来たのだから。



 そしてその後のオレは、求める強さを変えた。

 相手を打倒する力よりも先ず、自分を守れる強さ――護身を求めた。

 また、その力を暴力に変貌させないための自制心を培おうとした。


 けれど、人はそう簡単には変わらない。

 売られる喧嘩は後を絶たなかったし、その度に苛々が吐き気すらもたらした。


 だから、手始めにボコボコにされるところからスタートしてみた。


 一応これでも女の子だ、顔を殴られないように最大限防御はしたものの、結局口の端は切るわ、鼻血が出るわ、散々だった。

 自ら手を出さない戦いは、それまで浸りきっていた痛みで痛みを拭う戦いとは丸っきり違って、痛みが張り付いたように、或いはこびり着いたようになって耐え難かった。

 それでもどうにかオレが耐え切れたのは、上地流の基礎稽古である三戦サンチンを齧っていたからだ。身体を打ち付けられることで骨と忍耐力を鍛えるその稽古が無ければ、オレは我慢しきれずに手を出し、またあの頃のオレに戻っていたかもしれない。


 でもオレが手を出さずに耐え切れたのは、きっとコバルトさんの存在も大きい。

 いや、その理由の半分はやっぱりコバルトさんだろう。

 あの人が手数をかけてオレを矯正してくれたんだ。その恩には、絶対に報いなければならないという信念に似た気概をオレは持てた。


 そしてその気概の果てに、オレはひとつの願望を掲げていた。


 変われたら。

 真っ当になれたらなら。


 その想いは、でも報われることは無かった。


「――ごめんね、アッキー。僕は君の気持ちには応えられない」

「……何で?」


 それは12月、雪の降らない冬の話だ。いや、話と言っても大層な話じゃない。全然何でもない、オレはこんなでも結局は女の子だったんだなー、なんて話だ。

 でも、ちょっとビックリする話でもある。


「僕が成人男性で、君が未成年の女子だからだ。一応ね、この国の法律じゃ成人が未成年に手を出すと犯罪になっちゃうんだよ。とは言っても、じゃあ君が成人したら断る理由は無くなるかと言うと、そうじゃない」

「……何で?」

「簡単な話――僕には、好きな人がいるからだ。そしてそれは、君じゃない」


 告白をすると決めたのは、オレに売られる喧嘩が一切無くなったからだ。オレが一切手を出さず、なるべく関わらないようにしてから段々と少なくなっていったそれは、11月に入ってから綺麗さっぱりと無くなった。

 それから1ヶ月が経過して、喧嘩に塗れていたあの頃の面影が完全に消えて。

 そしてオレは、コバルトさんを呼びつけた。


 コバルトさんは夏の終わりにホストのバイトを辞めていた。目標としていた金額に貯金が達したからだそうだ。

 意外にも、コバルトさんは学生だった。年齢は20歳で、もうすぐ21歳になるそうだ。ホストのバイトは成人したらやってみたかった仕事で、でも貯金額が貯まろうとそうじゃなかろうと、1年で辞めることを決めていたそうだ。

 きっと、あれだけ格好良くて、あれだけ優しいから――貯金は、あっという間に貯まったんだろう。


 ホストを辞めたコバルトさんは、すでに次の就職先も決まっていた。学校は、その就職先にありつくための資格を取るために通っていたそうだ。その資格というのが、放射線検査技師――なんと、格好良くて優しくて強いコバルトさんは、加えて頭も良かった。


 知れば知るほど、思い上がりも甚だしいなと独り言ちる回数も増えていく。

 結果なんか分かりきっている――オレなんてまだまだ子供だし、頭良くないし、全然まだまだ強くない。


 でも。


 自分の今の立ち位置を知らなきゃ、前に進めない。


 そして前に進もうとして、オレは玉砕した。


「好きな、人?」

「そ。好きな人――――とは言っても、別に付き合ってるわけじゃないし、そもそも君みたいに告白すら出来ていないんだけどね」


 吃驚する話はここからだ。


「何で、告白しないんですか?だって、コバルトさん、格好いいし、強いし、優しいし……相手が断る理由なんて無くないですか?」

「そうだね、僕はこの通り格好いいし、強いし、優しいし、おまけに頭も良い。良い事づくめでこれ以上ないってくらいの優良物件だ。でも、そんな僕でもどうしようも無いってこともあるんだよ」

「それ、何ですか?」

「それはね、――僕が男で、僕の思い人も男だってことだよ」

「――――、」


 そう告げた時の、コバルトさんの表情は忘れられない。オレがずっとこの人に感じていた物憂げで儚い感触の原因は、きっとそれだった。


「僕も、どうしてそうなのかはよく解らないんだけどね?僕は同性が好きなんだ。異性と付き合ってみたこともあるけど――やっぱり、ダメだった」


 コバルトさんの懸念はふたつ。

 自分が相手を好きなのだと露見されてしまうことで、相手に迷惑がかかってしまわないか。そして、今のこの関係が壊れてしまうんじゃないか。

 コバルトさんにも怖いものがあるんだな、なんて、そんなことをオレは思った。

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