Track.7-10「失礼ですが、蓄えはありますか?」

 日曜の正午ちょうどに道場に現れた“コバルトさん”ソイツは、ジャケットだけを脱いだスーツ姿のまま正座していた。

 不機嫌な顔の葵に呼びつけられ道場に出てきたオレは驚愕し、その様子で葵も櫻も――勿論、親父も――得体の知れない来訪者の相手がオレだと気付く。


「この度の来訪の、目的をお伺いしてもいいですか?」


 うやうやしい、と言ってしまえばその通りだけど――それは明らかに何かを警戒する物言いだった。

 当然だ。

 眼前に座すのはどこからどう見ても堅気かたぎじゃない――曰くありありのホストだ。しかも隠そうと思えば隠せるのに、やる気だよってのを隠そうとしていない。親父の警戒は当然だった。


「いえ、昨晩、そちらの娘さんが我々の縄張りシマで随分なおいたをしでかしましてね」

「うちの――茜、ですか?」

「そうですね、茜さんです」


 しかし親父はこちらを見向きもしない。オレは胸の内側で酸素が薄くなっていく苦しさを感じながら、ただ涼しい顔を決め込んでその遣り取りを胡坐あぐらに頬杖という体制で眺めていた。

 隣で正座する葵と櫻の険しい表情は見ない振りを決め込んでいた。


「それで……茜は、何を?」


 訊ねるのを聞くと、“コバルトさん”ソイツはひとつ呼吸を置いて突き刺すように言い放った。


「仕事の邪魔をした、としか言いようが無いんですよ、これがね――」


 そしてすらすらと研ぎ澄まされた言葉を紡ぐ。

 いきなり現れてはホストの同僚の顔面を膝蹴り、駆け付けた5人を病院送りにした。

 当然その様子を見た繁華街のは110番通報をし、そうでなくてもあの騒ぎだ、警官が駆け付け、しち面倒なことになった――と、矢継ぎ早に“コバルトさん”ソイツは捲し立てた。


 何故だろうか――昨晩の物腰の柔らかい“コバルトさん”ソイツとは似ても似つかない、それは社会の裏側の気勢。


「本日お伺いしたのは、ですよ。当然ですよねぇ?こっちは被害こうむってるんだ、先に手を出してきたのはあんたんとこの娘さんだ――こっちとしても、穏便に話は済ませたいけどスジは通して貰わなきゃ」


 その表情は微笑だ。ただ、その裏側に凄味が仁王立ちしている。明らかに、その道の人間だと主張している。


 隣の険しいふたつの表情が、その深みを増してこちらを見た。それをオレは、見えていない振りをして躱す。

 ただ、脳内はクソの役にも立たない思考が溢れ返り、胸中は心臓の爆音をひた隠しにしようとしてどうしようも無い――昨日までは、きっとこうなってさえオレは動じずに我関せずを貫けたはずなのに。どうして今日になって――こうも、弱さが顔を出す?


「……申し訳、ございません」


 ゆっくりと、丁寧に親父は頭を下げた。どう見てもそれは土下座だった。

 それを見て、ごちゃごちゃとした思考は鳴りを潜め、一気に憤りが湧いて出た。


 オレが一方的に悪いのか。

 そりゃあ先に手を出したのはオレだ。でもアレは、傍から見れば過剰防衛かもしれないけど正当防衛だろ――そんな言い訳が喉を衝いて出かけた。


 そう、出かけた。

 出ては、くれなかったんだ。


 危うく立ち上がって怒鳴り散らそうになったオレの身体は、でもその勢いは引っ込んだまま、結局は傍観を決め込んだままだ。

 そしてそれを、“コバルトさん”ソイツは見透かしていた。


「親父さん、我々は、スジを通してもらいたいんですよ――あなたが頭を下げるのは、果たして通すべきスジでしょうか」


 打って変わって、ひどく冷えた表情だった。まるで感情が消え去ったかのような。

 その表情で、その双眸で。

 “コバルトさん”ソイツは、オレを見据えていた。


 ああ、分かる――“コバルトさん”ソイツの言わんとしていることは手に取るように解る。


 “お前だぞ”


 “お前が頭を下げるのがスジだぞ”


 ――――そう、投げかけているのだ。


「いえ。子供の不実は親であり監督者である私の不徳の致すところ。この愚鈍な頭を下げて如何なる傷も癒えぬとは存じますが、何卒お許しいただきたい」

「そう言われてもねぇ――は何処にあるんですか?」


 誠意。――――解ってる、その意味を。


 その道に於いて、それが意味するのは金だ。

 “コバルトさん”ソイツは言った、仕事を邪魔されたんだと。そしてオレは5人の人間をどうやら病院送りにした。ならばその診察代・治療費は、こっちの持ち分だろう。


 ただし、それが真実なら、だ。

 確かに5人ほどぶっ飛ばしたけれど、病院に行った証拠なんて今この場には出ていない。そいつらの診断書やら診察の領収書があるなら話は別だけど、まだこの場には出ていないのだ。

 ただの、“コバルトさん”ソイツが口走ったブラフ、ってこともある。


 違う。

 そうじゃない――オレが考えるのは、そんなことじゃない。


 解ってる。

 解ってるけれど、出てきてくれない。

 出すべきだって解っているけど――オレは、卑怯者だ。


「診察代や治療費、そしてその方々が完治するまでの間、本来であれば発生した賃金や売上――どうぞ、ご請求ください」


 何でだよ。

 何で――――オレに聞いてくれないんだよ!?


 オレには何も聞かずに、オレが悪いって決めつけて、何で全部相手の言いなりになるんだよ!?


 ああ――感情がぐちゃ混ぜだ、統制が取れない。

 今オレを衝き動かそうとするこの感情が何なのか――怒りなのか、悲しみなのか、失望なのか、解らない。


 いや、解っている。

 解っているけれど、出てきてはくれないんだ。

 身体の内側の奥深くで縮こまって、しゃがみ込んで、捻くれてるんだ。


 それが出てきてしまったら――解ってしまうから。


 が出てきてしまったら――オレが卑怯者だって、解ってしまうから。



「左様ですか――結構な額になりますが……失礼ですが、蓄えはありますか?」

「足りないようでしたら、この道場の権利書や土地を担保に――」

「な――っ、」


 声を出したのではなく、勝手に声は出た。ついでに言えば、身体も勝手に立ち上がってた。

 何度も言うけど、オレは卑怯者だ。

 “空手道場を手放す”なんてことを親父に言わせて漸く奮い立ったんだ。そして立ち上がってしまえば、そんなことなんて更々無いのにまるで覚悟を決めたかのように言葉は堰を切って溢れ出る。


「ふざけんなよ親父!全部悪いのはオレだろうが!なんで道場手放すとか言い出すんだよ!オレが稼いで返せばいいだろうが、オレが――」

「――お前は黙ってろ」

「…………は?」


 やっぱり親父はオレの方を見向きもしない。ただ静かに、でも道場内に響き渡る声を放っては、眼前に対峙する“コバルトさん”ソイツを真っ直ぐ見つめている。


 当の“コバルトさん”ソイツは、つまらなさそうな表情でこほん、と小さく咳払いをして。


「ちなみに、軽く1,000万円越しますけど……返す算段ってあります?」

「いっせんまん……?」

「そりゃそうでしょう。細かい見積もりは後々出させてもらいますが――大きいのは、君が病院に送ってくれた僕の同僚たちが稼げるはずだった金額なんですよね。僕たちホストの1日の売り上げ、知らないですよね?それが5人、しかも、完治するまで短くて1週間はかかりますよ?」


 血の気がさぁ、と引いていく。愚かにも程があった。


「確かにこの道場を土地も含めて売りさばけばお釣りは来るでしょう。でも君が単身稼いでどうにかする、って言うのなら……そうですね、手っ取り早く身体でも売ればいいんじゃないですか?」

「いえ。子供の過ちですから。親である私が責任を取り、弁償致します」

「僕としても、その方が賢明で確実だと思うんですけどね――で、君は?立ち上がってわなわなしてるだけ?」


 冷たい視線がオレを突き刺す。その嘲笑を秘めた言葉尻に胸に沸いた勘違いも甚だしい憤りはその熱量を増し、オレはさらに引き戻せない・飲み込めない馬鹿馬鹿しいにも程がある言葉を吐き散らかす。


「ふざけんなっ――――道場は売らない、オレの失態なんかで無くなっていい代物じゃぇんだよ」


 吐いた言葉の勢いのまま、オレは前に出た。次々と言葉が感情のように湧いてきて、最早オレは感情の代弁者みたいだった。

 でもそれらを紡ぐより早く――昨晩のように、いつの間にか立ち上がっていつの間にか肉薄した“コバルトさん”ソイツがオレの着ているTシャツの胸倉を掴み上げながら告げる。


「――いい加減にしろよ」


 絶対的な強者の圧。それまでの、凄みを利かせた裏社会の言葉遣いとも、昨晩あのホテルの一室で耳にした穏やかな口調とも違う――四肢と五臓と六腑を、一瞬にしてズタズタのバラバラにされたようなイメージ。

 溢れ返っていた感情たちは死んだように熱を失い、胸の奥底に沈んでいった。

 オレの目の前にいるは、まるで得体の知れない化け物がいるようにしか見えなかった。


「君は昨晩、あの女の人を守ろうとしたよね?いい心掛けだと思うよ、正直僕も、あの手の遣り口にはうんざりしてる。――でも君は自覚するべきだ。君はまだ守る側にいない、守られるべき存在だ。それは年齢的にもそうだし、社会的にも、そして、実力的にも」

「――――、」

「君が昨夜、後先を考えずに手を出したせいで今どうなってる?いきがってしゃしゃり出た結果どういう状況だ?本当に守るべきものは危機に瀕している、そうじゃないか?仮にこの道場を守り通せたとしよう、そうしたら君はどうなる?言っておくけど、身体を売るってことは春を売るってことじゃない、文字通り両目と四肢に五臓六腑、君以外の誰かのものになるってことだ」

「っ――、――――っ」

「自分さえろくに守れない雛鳥ひよっこが、一体誰を守れるつもりだよ」

「……、……」


 そしてぱっと掴み上げていた腕を放した“コバルトさん”ソイツは、親父に向き直ると再び正対する位置で膝を折り曲げて正座した。

 その間もオレは、何も言い返せず、何も出来ずにただ立ち尽くしているだけだった。――当然だ、ぐぅの音も出ないほどの正論なのだから。


「小早川さん」

「……はい」

「何度も重ねて申し訳ないが、うちの子の過ちです。親である私が責任を取ります」

「……だ、そうだけど?」


 言葉の矛先がまたもオレを向く。もう、その結末を止めることは出来ない。


 悔しいけれど、自業自得なんだ。

 恥ずかしいけれど、やっぱりオレが悪いんだ。


 安芸家の道場は、畳まれる。オレのせいで。オレの、実に自分勝手な愚かしさのせいで。


「――――ぅあ、」


 もう、この目から溢れ出るこの感情が何なのか、この身体全体に蔓延する熱が何なのか、何もかもが判らない。

 オレの膝は、先ほどオレの身体が勝手に立ち上がったように勝手に床に崩れ落ちた。

 ただただ慟哭の声を上げて、オレはただただ泣き喚いた。


「……娘さんから何も無いようなので、これで手打ちですかね」


 告げて、“コバルトさん”ソイツは畳んでいたジャケットの折られた隙間から1枚の紙を取り出し、親父に向かって差し出した。


「これが見積もり、兼、請求書です。ご査収ください」


 怪訝な顔でそれを受け取った親父は、その内容を確かめた後で一人立ち上がると、一度道場から出て行った。

 そしてすぐに財布を持って帰って来たと思うと、財布から金を取り出してそれを差し出したのだ。


「では、これで」


 差し出された金を受け取った“コバルトさん”ソイツはそれを確かめて返す。


「――タクシー代、1万円。請求額満額、確かにお預かりしました」

「――――1万円?」

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