Track.5-24「じゃあわたしも、武器、使っちゃおうかな」
(やべぇなぁ――完全に怒ってるか)
行きとは異なり、立川駅から真っ直ぐ新宿駅までJR中央線に乗り、そこから隣駅の新宿三丁目駅まで地下道を通り抜け、東京メトロ副都心線に乗って地下鉄成増駅で下りた茜は、移動がてら今晩の夕食の献立を考えながらメッセージアプリを既読スルーする戦友の心境について溜め息を吐いた。
改札を抜けて階段を上りきり、コンビニの裏手にある小さなスーパーと川越街道沿いの肉や乳製品なども販売している八百屋を
アパートのドアの前でいつものようにポケットから鍵を取り出したところで、茜はドアの内側から聞こえてくる物音に異変を感じ、鍵を刺さずにドアノブを捻った。
突如、立ち込める異臭。空気そのものが針となったように、茜は手の甲で翳すようにして自らの視覚と嗅覚を守ろうとした。
「森瀬っ!?」
部屋の主――森瀬芽衣は、キッチンに立っていた。
その右手には包丁が握られており、刃の中央部分には薄ら赤い雫が滴っている。
左手は肉の塊を掴んでおり、その断面も、そしてそれを掴む左手もやはり血に濡れていた。
「お前――」
安芸は目を細め、言葉を続けようとしてしかし咳込んだ。その狭い空間に充満する仄かに黒い煙のような空気が、茜の喉を刺し込んだのだ。
「あ、安芸」
彼女の向こう側では、煌々と燃える火にかけられ炭化したナニカが、異臭の原因である黒く刺激的な空気を生みだしていた。
森瀬芽衣の料理の腕は、壊滅的だったのだ。
◆
「夷ちゃん、訊いてもいい?」
夕日が沈み切った街路の並木道を、駅へと向かって二人は歩いていた。
向かう先は弓削邸――弓削絲士の発した婚約者の件と、そして弓削邸に巣食う呪術士の問題を解決するためだ。
「なーに?」
「……どうして幻術を使わなかったの?」
問われた夷は刀を切り返す速度で軽口を発しようとしたが、自分を見る愛詩の表情が真剣そのものだったために一度口を噤む。
「幻術を使った方が、私の両親の説得はすんなりいったんじゃない?」
追及する言葉に、夷は表情を解いて遠く虚空を見た。
確かにそうだ。言葉に幻術を織り交ぜて愛詩の両親の猜疑心を消してしまえば、或いは信頼感を幻術で演出すれば、あのようにべらべらと捲し立てることも無かった。
「だってさ――そうしたらいとちゃんは怒るでしょ」
「うん――そうだと思う。でも夷ちゃんは、それでも幻術を使うって思ってた」
愛詩には、それが最適解であることが解っていた。脳内で勝手に迸る弦の影が、愛詩はそうするだろうという思考を引っ張り込んだからだ。
だから彼女は、幻術士である夷が、そうであるというのに幻術を使わなかったことが不思議で堪らなかった。
「流石にそれは無いよ。喋って駄目だったら、その時に考えたと思うよ」
「……ありがとう」
「別に感謝されることはしてないと思うけど」
「それでも。ありがとう」
「へいへい、どいたまー」
「……ごめん、もうひとつ、訊いていい?」
「はいよー、なぁに?」
「18歳で死んじゃうってところ、嘘だよね?」
「嘘じゃないよ。わたし、本当に18歳になったら死んじゃうんだって」
「あっ、ごめん。そこじゃなくて、その後の――夷ちゃんは、わたしに魔術を教えることが生き甲斐みたいに話してたけど、そうじゃないよね?」
「あー、そこかぁ。うん、確かに、そうじゃないね」
歩調は自然とゆっくりとなる。僅かな隔たりを間に置いて前を歩いていた愛詩は、少しだけ立ち止まって肩が並ぶのを待った。
「そっかぁ――いとちゃんって、そういうのももう判るんだ」
「うん……本当はどうなのかまでは分からないけど、本当か嘘かくらいは」
「それって無意識に?」
「たぶん。18歳で死んじゃうって聞いてハッとなって、つい“本当なのかな”って思っちゃって――そしたら、18歳で死んじゃうのは本当だって分かったんだけど、でもその後の話も、検索で引っかかっちゃって」
「それを意識的に出来るようにならないと、この後の人生つまらなくなっちゃうよ」
「うん……」
肩を並べて歩く二人を、街灯のオレンジ色が暖かく染めている。
口を噤んだ三歩の後で、ひとつ頷いた夷は懐かしそうに遠くを眺めながら口を開く。
「わたしがいとちゃんの力を必要とするのは、笑えなくなった友達が、笑ってるところを見たいから。極端に掻い摘むとそうなるんだけど……いとちゃんにはこの言葉、嘘に聞こえちゃうのかな?」
目を伏せたまま、愛詩は首を横に振った。
「でも、それだけじゃない、っていう風に感じる」
「隠してる的な?」
「うーん、そうなのかなぁ?」
「まぁ、勿論全部は言っちゃいないからいいんだけどさ。――弓削邸の問題を片付けたら、全部話すよ」
「……うん、そうしてくれると助かる」
そして二つの足音は明治時代の異人館を思わせる豪邸の門の目の前に辿り着く。
あと5メートル、というところで足を止めた二人の眼には、正装とでも言うように
手に白い手袋を嵌めた美顔の執事は二人に対して頭を下げ、言い放つ。
「お待ちしておりました――糸遊様、そして四月朔日様」
「昨晩は随分な贈り物、どうもありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。ご丁寧に送り返してくださるとは、思ってもいませんでしたので」
「え、な、何?昨晩って?」
愛詩が二つの顔を見比べる中、夷とアリフは対峙する。
アリフは門を開くと、どうぞと二人を手招く。そして先行し、玄関へと続く石畳を歩いていく。
「いとちゃん。こっから先、あいつらとバトるからよろしく」
「う、うん……わかった」
愛詩の肩が強張る。夢の中で何度も夷と戦ったとは言え、実戦はこれが初めてだ。
しかし体内の
門を潜る二人。その目は玄関のドアで待ち構えるアリフに焦点を当てながら、視界は端で庭から来る攻撃を警戒しているし、耳や鼻、皮膚の感覚もまた強襲に備えている。
加えて夷は視認できない手と眼とを量産する
それでも、門を潜った瞬間に自分たちが異界に飲まれるとは、思いも寄らなかった。
「――いとちゃんっ!」
手を伸ばす夷だが、その先にすでに愛詩の影は無く、すでに自分さえももといた場所にはいない。
「……あー、見事にやられたわ。確かに、まさか異界があるとは思ってなかった」
独り言ちる間に
転移された異界は、陰鬱さを形にしたような空間だ。
足元を
前後に続く川の両岸は川原の丸い石に紛れて動物や人の骨が散見された。
川原の奥は森になっていて、曲がりくねって伸びる木々はどの枝も葉をつけておらず、尖った枯れ枝は針山のようだ。
濁った川のように曇った空は、灰色の濃淡の隙間から黄色く蝕まれた空の色を覗かせている。
鼠の死骸がまた、川面を流れて遠ざかっていった。
「ねぇ、いとちゃんわたしいなくて大丈夫だと思う?」
問いを投げかけられた褐色肌の執事が、左手奥の木の影から滲み出るように現れる。
「さぁ――
その右手には、刀身の波打った特殊な形状の片手剣――隕鉄を鍛えて造られる、インドネシア特有の“呪われた聖剣”クリス。
「あんた剣も使うんだ。冴えない呪術士としか思ってなかったよ」
「それはそれは――随分と、
挑発には乗らず、ふふ、と鼻先で笑うアリフ。完全に木の影から姿を表した彼は、右半身を前に、クリスを握る右手を自身の顔の左横に置いて刃先を夷へと向けた。まるでそれは、刀を片手で霞に構えたのと左右逆だ。
両足は前後に開かれ、重心は後ろ。無手の左手は身体の影に隠れ――その構えを見た夷は愛玩動物めいた顔で悪魔のように嗤う。
「へぇ――様になってんじゃん。じゃあわたしも、武器、使っちゃおうかな」
右手を真っ直ぐ横に伸ばし、自身の
空間を裂いて現れたのは、彼女の背丈よりも少し長い
その錫杖を掲げた夷は、両手で器用に身体に沿わせて振り回すと、再び右手に握って力強く川底に石突を叩きつける。
ガジャラン――8つの
その異質な残響に、対峙するアリフは怪訝に目を細めた。
「さぁて――いとちゃんの恋路を邪魔する
その言葉を聞き終わる前に、爆ぜるようにアリフは飛び掛かり、迸るほどの
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