Track.5-12「すみません、変な家で」
階段を上り、
ドアを潜り部屋に入ると、左手の壁一面が本棚となった圧巻の蔵書量、そしてその手前にあるベッドはどう考えてもシングルサイズでは無く、大きな枕やベッドカバーなどの寝具は全て落ち着いた深みのある黒い
そのベッドフレーム同様に、本棚を背に主の帰りを待つ琥珀色の机と椅子は、暖かな部屋の明かりを受けて濡れた飴のように
ドアから真っ直ぐ、対面のバルコニーに進む途中には内装に合致した品のあるラグが広がり、そこにはガラス製の低いテーブルと、それを3人掛けのソファが対面して挟んでいる。
「掛けて待っててよ。荷物置いてくるから」
告げて絲士は一見何も無いような、ドアから見て右側の壁の一部を押すと扉であったソレは蛇腹式に折り畳まれて開き、新たに生まれた――ように見える――空間に絲士は入っていく。
どう見ても16畳程度はありそうな部屋にウォークインクローゼットである。その中でさえ壁の長さ分空間があるのなら、やはりそれもかなりの広さを持つということだ。
愛詩も、弓道の道具一式を自前で用意できてしまえるほどの、富豪の
――コンコンコン。
背なのドアにノックの音が3回響く。愛詩は振り向き、そして絲士はクローゼットから「どうぞ」と声を投げた。
「失礼いたします」
ドアを開き現れたのは、銀のトレイに2人分のグラスとコースター、そしてガラス製のティーピッチャーを載せて持つ褐色肌のメイド――リニだ。丁寧な所作、そして涼やかな面持ちで部屋に入った彼女は愛詩の座るソファが挟むガラステーブルにコースターとその上にグラス、そしてティーピッチャーを置いて丁寧に頭を下げた。
「リニ、いいのに」
自分のや愛詩の荷物をクローゼット内に置いて戻ってきた絲士はリニに微笑みかけ、それに対してリニは「兄から言付かりましたので」と再び頭を下げた。
彼女の表情のように、波波とティーピッチャーの中で揺蕩うレモンティーは涼しげだ。
「ありがとう」
「いえ――それでは、失礼いたします」
淀みのない所作は、まるで武道にも通じるものがあると思わせるよう。
愛詩は不思議な気持ちでリニがドアを閉めた後も見詰めていたが、絲士がグラスに注ごうとティーピッチャーを持ち上げた拍子にからんと氷がぶつかった響きにはっとなって前を振り向いた。
「すみません、変な家で」
「えっ、そそ、そんなこと無いよ?」
思わず飲み干してしまったレモンティーは芳しい香りの奥でほんのりと甘く、少しだけ酸味を感じる。
「それで、弦を張らない方法なんですけど――先輩って、弓を引くとき以外に弦を張ったことってありますか?」
「え?無いよ?」
「じゃあ多分大丈夫だと思います。ちょっと待っててください」
告げて、絲士は再びクローゼットの中へと入り、そしてすぐに戻ってきた。手に握られているのは、愛詩が倒れた日に保健室で手渡され飲んだ小瓶だ。透明のガラスの中で、透き通った紫色の液体は甘そうにてらてらと揺らめいている。
「それって――」
「これは
愛詩の空になったグラスに小瓶から霊薬を2、3滴垂らし、レモンティーを注いで希釈する絲士。希釈することで霊薬の効果時間を短縮させ、弓を引いて弦が張られるかどうかを確認する意図がある。
そして、そもそも
「まず
「えっ、そうなのっ?」
「はい。だから位置付けとしては
すでに頭から湯気が出そうな愛詩だったが、絲士は構わずに話を進める。
意思が
意思を持つ存在は
霊基配列は脊椎動物であれば脊髄に、そうでないモノも思考や神経・本能を司る部分に有すること。
霊基という言葉は“塩基”を語源にしているか、或いは逆だと考えられていること。
ヒトには23対の霊基が存在し、地球上の生物の中では最多だと言うこと。
魔術士はこの霊基の配列を組み替えて術式を構築し、霊基配列を通じて
「そろそろ馴染んだと思うので、試してみましょうか」
霊基配列
大きな窓を開け、優しく風の通り抜けるバルコニーへと出る二人。梅雨時期の低気圧で生憎の曇り空だが雨は夕方まで降らない予報だ。
「今先輩は、魔術を使おうとしても
「う、うん……やってみるね」
遠間と同じ程の隔たりに見える、邸宅の窓を的として見据えて二つの足で立つ愛詩。
そう言えば着替えを持ってきたのに着替えてないや、この辺りはお金持ちが沢山住んでる街なのかなぁなど、雑念がぽつぽつと湧き出てしまいなかなか集中が出来ないが、目を瞑りいつもの弓道場を空想すると雑念はやがて薄れていく。
いつもとは違う環境。
いつもとは違う服装。
いつもとは違う体感。
その、いくつも折り重なった“いつもとは違う”の中で、しかし身体は正直に“いつもと同じ”を繰り返す。
行動は意識を以て行われるが、それを反復することで無意識に行われる“習慣”となる。愛詩にとって射法八節の美しい所作は最早習慣だった。
薄く目を開き、的を見据える。
礼をし、左足を踏み出して右足を引き付ける。
真横になった身体を左右均等に開いた両足に載せる。
右手には二本の矢。左手には弓。それらは空想上の産物だが、身体が覚えている感触はまるで実際にそこにあるかのように。
弓の下端を左膝に。矢を番え、両拳を握って引き付けるように持ち上げる。
絲士には視える。右拳から弓とは反対方向に伸びる、二の矢の
打起した弓と矢とを、先ずは視線の先に水平に押し込むようにし、そこから両腕を左右に開くように弦を引く。
その集中力は異常だ――見得ざるもの、在らざるものの想像は創造へと至る。
絲士は驚愕を顕わに、離れようとするその両腕を必死に掴み上げて阻んだ。その衝撃により、拡げた空想から現実に引き戻された愛詩は目を見開いて驚き、弛緩した両拳は手の内にあるものを落としてしまう。
愛詩の手から離れ、意思の供給源と物理的な接触を解かれた弓と矢は、その瞬間にまるで荒い3Dポリゴンのワイヤーフレームのような
残されたのは咄嗟の判断で弦創の弓矢が民家を撃ち抜くのを阻み息を荒げる絲士と、そして彼に両手を掴まれ肉薄を許した愛詩の二つの身体だけだ。
二人の距離は今や
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