Track.5-11「用がある時はこちらから呼ぶから」
梅雨時期の弓道場は悲惨だ。星荊学園の弓道場は、設備の面で雨が降るとその稽古に支障が出る。
的を置く安土に屋根が無いために的を出せないのだ。そのため3つしか無い巻き藁を上級生たちが独占することになる。
そうすると下級生は主に筋トレやゴム弓での訓練が主となり、新入生は射法の繰り返しだ。
進む際は左足から前に出し、戻る際は右足から後ろに出す“左進右退”の歩法を反復しながら、続けて待機場所から射位に着き、射法を行い戻る流れを実践する。
愛詩は根気強く声をかけ続け、絲士を含んだ3人の駆け出し組は弓を持たない練習に緊張感を持って集中する。
動的な時間の中に身を置くと、知らぬうちに時は早く過ぎ去るものだ。
相対性理論のことなど理解の外である彼らは、部活終了の時刻が来ると何となく物足りなさを感じたが、翌週から弓を持った本格的な練習に入ると告げられ、俄かに浮足立った。
「弓は高いし借りられるからいいんだけど、出来れば矢は買っていて欲しいです。
弓道を志す者はまず、その道具の値段に面食らう。星荊学園の部活動への力の入れようは敷地内に弓道場を保有していることと弓などの道具の揃え方から窺い知れるが、それでも限界はある。
弽や道着は個人の所有物としてあるべきだし、競技者の体格によって矢の長短は左右される。腕の長さに合致するものでなければ、十分な引分けが出来ないのだ。
絲士はその矢の長さの重要性を
態度を改めた絲士は実に社交的だ。よく話すし、よく笑う。人の話を聞くことにも長けている。
部内での絲士の人気は右肩上がり、それこそ鰻上りだ。入学当初の人付き合いの悪そうな態度は何だったのだと時折話に持ち上がるが、彼は苦笑するばかりで多くを語らない。
そしてその理由を、愛詩だけが知ることになる。
6月13日・土曜日――愛詩にとっては待ちに待った――などとはとても表には出せない/しかし思いっきり周囲には何かがあるとモロバレである――絲士の家にお邪魔する日だ。
絲士の家は学園前の駅から2つ先だ。学園にバスで通う愛詩はその駅に初めて降り立った。
結局、その日は二人して部活動を休むことにした。その特訓のための準備が必要な絲士は私用のためと嘯き、そして愛詩もそれに倣って今週末は急に親戚が訪ねて来て、と嘯いた。
時刻は14時ちょうど。改札を出ると私服の絲士が軽く会釈して迎える。
白いシャツに細身の
髪の毛も、前髪が目にかかるほど長かったのがツーブロックのアップバングに切られている。襟足も刈り上げられ、愛詩は最初誰だか解らなかったくらいだ。
「髪、切ったんだね」
「そうですね。ちょっとぼさぼさでみすぼらしかったので」
対する愛詩は、実に解りやすく気合の入った
左胸にポケットのあしらわれたガーリィなTシャツに、
髪の毛はいつも弓道場で見せるような
「じゃあ行きましょう。案内します」
「う、うんっ」
寧ろ泊って来い・事後になって来いとは、午前中を愛詩のために費やして準備に付き合ってくれた彼女の友人であり弓道部に誘った同級生張本人の言葉である。愛詩もまた、再燃した恋心に舞い上がり、魔術云々の部分は省いたもののほぼ全てを彼女に漏らしてしまっていた。
(ま、負けないぞぉ――)
謎の気合とともに、愛詩はふんすと鼻息荒く呼吸をして歩を進める。それを横目で眺める絲士は、彼女が何故そのようなことになっているのか皆目見当もつかない、というわけでは無いために、変に意識してしまい、道中に話をしようと思っていた話題が意識から遠のいてしまった。
結果、二人は無言――時折他愛の無い会話をニ、三言交わしたが――で10分弱歩き、弓削邸に辿り着いたのであった。
「え、こ、これ弓削君の
「え?そうですけど……」
豪邸という言葉を使うことすら躊躇われるその洋館は、まるで旧岩崎邸や旧前田侯爵邸などのような、洋館と言うよりは異人館と呼ぶ方が相応しいような
「お帰りなさい、絲士さん」
「ただいま戻りました。それと、彼女は糸遊愛詩さんで、俺の弓道部の先輩です。昨日話した通り、今日は魔術の訓練を」
「美しいご友人ですね。
五指を揃えた右掌を上に向けて左胸の前に置き、にこりと微笑みかけながら頭を下げる褐色肌の男性。艶やかな黒髪を全て後ろに流し、白手袋を嵌めたその姿は、燕尾服では無いものの執事そのものだ。
家政婦がいるとは聞いていたが、まさかそれが執事のことだとは思っていなかった愛詩は面食らい、あたふたと慌てて自己紹介も早々に頭を下げる。
「えっと、が、外国の方……?」
「はい。私めはインドネシアに生まれ育ち、縁あって弓削様のお家で雇っていただけております」
「日本語、すごく上手いですね……」
「先輩、それ、相手が相手だったら失礼になりますよ」
「わわっ、ご、ごめんなさいっ」
「いえ、私めのことはお気になさらず。絲士さんのご学友にお褒めいただき光栄です」
掘り深く、大きく切れ長の目を細めて微笑む顔に嫌味は無い。アリフは格子の門を押し開き、二人を邸宅へと招き入れる。そわそわと落ち着かない愛詩は塀の内側をきょろきょろと見渡しながら前を行く絲士の背に続く。
滑らかに
絲士が玄関のドアを開くと、邸宅の中すらその外観に見劣りしない、厳かで静謐な雰囲気を携えていた。
そこに一人、今度はメイド服に身を包んだ、こちらもまた褐色肌の若い女性が立っていた。年の頃は愛詩や絲士とそう変わらないように思える。
メイド服と言っても、その出で立ちは修道服に近い。ひらひらとした装飾は無く、頭に載っているのもカチューシャでは無く白いモブキャップだ。前髪も真ん中から綺麗に左右に流され、丁寧にピンで留められている。
「お帰りなさいませ、絲士さん」
「リニ、ただいま。こちらは糸遊愛詩さん。俺の弓道部の先輩で、今日は魔術の訓練をするというのは聞いてるよね?」
「はい。伺っております」
「そういうことだから、部屋に篭っている時はあまり気にしないで大丈夫だ。用がある時はこちらから呼ぶから」
「はい、承りました」
一礼し、下がるリニ。何処となく雰囲気が先程のアリフと似ていると愛詩は思ったが、人懐っこいような笑顔を見せたアリフに対し、このリニという少女は少し人間味に欠ける表情だ。仄かに笑みは称えているものの、目が冷ややかと言うか、光が点っていないような――。
「こっちだよ、先輩」
「え?あ、うんっ」
廊下を進む絲士の背を追う愛詩。その二人を、リニがやはり冷ややかな目付きでじぃっと見詰めていたことは二人には知れない。
(うーん……思ったよりも長いなぁ――あとどれくらい続くのかなぁ)
お茶のお替わりを啜りながら、話を聞き通しの夷はにこやかな表情の裏で辟易とし始めていた。
「それでね、絲士君のお
終始、こんな感じなのである。すでに話が始まってから1時間が経過しており、それなのに本題である“何故彼のために魔術を修得しなければいけないのか”は片鱗さえ見えず、話の半分以上がピンク色だ。
だから夷は早々に聞き流すことを決め、“視えず・感触も無い”腕を伸ばして愛詩の脳に触れ、彼女の話に合わせてその記憶を読み取る方法を選択していた。
実際の記憶と、それをもとに語られる本人の話とでは、かなりの差異がある。
そして話が絲士の部屋で二人きりとなった時に差し掛かり、物語の本題は意外なところから飛び出るのだった。
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