Track.2-7「アルバイト、を、しよう、と、思って……」

「失礼します……」

「失礼します」


 あたしが再び訪れた研究室のドアノブを回そうと手を伸ばすと、心ちゃんは抱きついていたあたしの腕をそこで漸く離してくれた。

 布越しの温もりが離れてしまったことで、あたしは自分の身体の僅かな強張りを認識してしまう。


「入れよー」


 しかし返ってきた声にあたしは驚いて、ドアノブを回す手に思わず力が入ってしまう。


「よ、おかえり」


 研究室の中では、安芸が冷房クーラーの風を真っ向から受けて立っていた。


「安芸さん、ちょっと汗臭いですよ」

「マジで?消臭剤デオドラント持って来て無ぇよ、今日」

「私の貸してあげますよ」


 心ちゃんは鞄からスプレー缶を取り出して安芸に手渡す。安芸はその蓋を取り、Tシャツの裾からスプレーを噴霧しようとして、応接室から出てきた常盤さんに止められた。


「研究室の中では化学物質そういうのNGなんですけど?」


 どのようなことを言おうが、常盤さんの表情から笑みは消えない。

 安芸は慌ててぱたぱたと廊下に出て行き、その背中を追っていた視線があたしの視線と交差する。


「検査、どうだった?」


 自分のデスクまで歩く途中の椅子を出し、その行為であたしにそこに座ることを促す常盤さん。あたしはひとつ息を吸ってそこまで歩き、自分の椅子に座った常盤さんと対峙した。


「問題無いって――それより、お願いがあるります」


 緊張で舌がもつれ、即座に頬が熱くなった。そんなあたしの様子を見て常盤さんはその笑顔をより深くさせる。


「落ち着いて?」

「……うん」


 常盤さんを前にすると、あたしはつい緊張してしまう。

 こんなあたしの身元を引き受けてくれて、大人になったら少しずつ返す、という契約はしているものの、あたしが生活するお金を出してくれている。

 あたしと常盤さんは、家族でも親戚でも遠縁ですら無いのに。


 あたしは二度ほど深呼吸をして、意を決して、というよりは、半ば諦めて口を開いた。


「あの――アルバイト、を、しよう、と、思って……」


 一語一語を選びながら、ただたどしく紡いだあたしの言葉を、常盤さんは慈愛に満ちた表情で受け止める。


「その――魔術の、企業に、ですね、……安芸と、心ちゃんと、三人で、」

「いいわよ」

「――え?」


 最後まで聞かずに、常盤さんは肯定をくれた。あたしは何故かきっと反対されると思っていたから、その言葉がうまく噛み砕けなかった。顎の力がまるで無くなったように、あたしの口はぽっかりと空いている。


「今の時期はどこの企業も若い魔術士を募集してるから、選ばなければ採用してくれると思う。――どこにするかは決めてるの?」


 空いた口を慌てて閉じて、口の中に溜った唾液を不器用に飲み込んだあたしは、心の中でひと呼吸置いてからつい最近知ったばかりのその社名を口にした。


「うん――クローマーク、ってとこなんだけど」


 その名を聞いた常盤さんは、目を細めて頷く。


「そう――私も、そこがいいと思っていたの」

「本当?」

「私はどっちかって言ったら嘘吐きのたぐいだけど、それは本当。たぶんあの人たちは、あなたの――いえ、あなただけじゃない、あたなたち三人のことを思って、よくしてくれると思う」

「うん」

「でも魔術企業にアルバイトとは言え就職するなら、それなりに用意するものがいっぱいある。私が教えてもいいけど、それくらい自分で出来るでしょ?」

「えっと……人に聞くのは、アリ?」

「解らないことを人に聞いて学ぶのは、至極当然のこと。でも私は教えない、私に聞くのは卑怯な行為も同然だから。教えてくれる誰かを、あなた自身で考えて見つけなさい」

「……うん、わかった」


 そこであたしは席を立ち、いつの間にか――おそらく、あたしがお願い事を話し始めてから――退室していた心ちゃんを追って廊下へ出ようと研究室のドアに手をかけた。


「頑張ってね」


 その背中を押す声がひとつ、あたしの胸の内に響く。


「――行ってきます」


 その残響に耳を澄ませながら、あたしは金属製の無機質なノブを回した。


   ◆


「玉屋、気付いたか」


 西館から北館へと至る、中庭に面した渡り廊下を歩きながら、俺は隣の玉屋に問いかけた。


「何をですか?」

「あの応接室部屋、時計無かったろ」


 いくら思い出しても、壁や調度品にそれらしい物体は影も無かった。

 あの応接室の中で俺が見た時計は、魔女が胸元から取り出したあの懐中時計術具だけだ。


「言われてみると、確かにあった記憶は無いですね。でも、別段不思議なことでは――」

「今、何時だ?」


 言われて玉屋は、左手首を返して時計の針に目を落とす。


「9時、7分です――」


 そこまで言って、玉屋もどうやら気付いたらしい。

 俺たちはあの魔女との予約を、9時にしていた。

 その十分前には駐車場に到着し、北館から西館に移動して森瀬たちと合流、エレベーターで6階へと上がって魔女の研究室に入ったのがおよそ9時ジャストくらいだ。

 そうして話し終え、エレベーターで1階に下り、渡り廊下を歩いている今が、9時7分――ここまであからさまに見せつけられると、笑いを通り越して呆れ返ってしまう。


「あながち、異界だっていう話は本当なのかもな」


 やや青ざめたような面持ちの玉屋の背中をバシっと叩き、俺はひとつ舌打ちをして渡り廊下から北館へと歩を進めた。

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