Track.1-15「暇だから一人で行っちゃうよ?」

 はっきり言って七面倒臭いことだらけだが、その中で幸いだったのは森瀬芽衣に体力があることだった。


「悪い――場所がアレだが、ここで休憩させてもらう」


 そう告げて、上ってきたエスカレーターから廊下に出た比較的汚れていない広い場所で、俺は壁にもたれて腰を下ろした。


 正直、限界が近かった。

 融合異骸キメラデッドとの後半戦、万が一を想定して【順路など無き次元迷宮メイズ・ディメンジョン】を立ち上げながら、同時に全く新しい【捩じ斬り裁ち頻る異端の牢獄オーバーキリング・エグゼキュート】の術式を組み上げるという荒業を行うのは我ながら本当に馬鹿げた行為だった。


 俺のような空間を操作・制御する方術士ほうじゅつしは、脳機能を仮想領域化リジョナイズすることで思考を分ける、【二式並列思考デュアルシンク】という術式を使える。

 それは例えば、ピアノ演奏で左手が伴奏、右手が主旋律を奏でるような感覚で、全く異なる楽器で全く異なる楽譜を演奏するような行為だ。

 人間が持つ脳機能を明らかに凌駕するその振る舞いを可能とさせるその魔術は、勿論霊銀ミスリルの活性化もはなはだしい。

 本当に、脳や神経が焼き切れる寸前だった。

 方術を修める魔術士には、その上位互換である【四式並列思考クアッドシンク】やさらにその上を行く【八式並列思考オクトシンク】という術式を用いる者もいると聞くが、改めて俺たち魔術士は化け物だと思う。


「30分も休めば回復するから――わりぃな」


 目を瞑って、呼吸を操って体内の荒ぶる霊銀ミスリルを吐き出し、落ち着いた霊銀ミスリルを吸入する。

 魔道に進む人間が“霊銀ミスリルの知覚”を学んだ次に学ぶのが、この呼吸法だ。

 霊銀ミスリルの排出と吸入が出来なければ、魔術士はすぐに廃人へと変貌する。最悪、そのまま異獣化することだってある。


 まだ未熟だった学生時代に、そうやって異獣化した知り合いと対峙したことを思い出しながら――そして、目の前で佇んでいるはずの女子高生異術士が何か聞き捨てならない台詞を吐いたのを聞き逃しながら、俺は微睡みの中に意識を放り投げた。



   ◆



「暇だから一人で行っちゃうよ?」


 すでに四方月さんは寝入ってしまったらしい。

 正直、あたしだって疲労困憊、満身創痍だ。体力も血液だって消費した。休みたいっちゃ休みたい。

 でも――それを超えて、あの感覚を忘れないうちにもう一度くらいは実戦を味わいたい。


 色が消え。音が消え。流れていく景色がスローモーションになって――あの、走馬灯の景色を、反復したい。


 戦友から聞いたことのある、武道家・格闘家やアスリートが集中力の極限を迎えた際に訪れる“ゾーン”だとか“恍惚体験ピーク・エクスペリエンス”とか言われる状態だと思う。

 どこぞの、父親が地上最強の超雄な格闘技漫画じゃないけれど、それを自在に出し入れ出来るようになればまた強さを手に入れられる。


 あの魔女を、××せる――


 ――ピキ。


 まただ。魔女のことを思い出そうとする度に、頭の中に亀裂が入ったような痛みを覚える。

 だから結局、あの魔女のことは思い出せない。

 あたしはあの魔女に何をされたのか。

 あたしとあの魔女の間に、何があったのか。

 あの魔女とは誰なのか。

 あの魔女の、姿かたちは。

 そしてあたしは、あの魔女を結局どうしたいのか――。


「いいや。補給しよ」


 頭を振って痛みを掻き消す。

 あたしは邪魔だからと放っておいた鞄の近くに、四方月さんに倣って壁に凭れながら座り込んだ。

 鞄から飲みかけのペットボトルを取り出して蓋を開けると、その水を顔に浴びて気持ち悪さを払う。

 同じく鞄の中に詰め込んでいたハンカチタオルで濡れた顔を拭き、すす汚れのようなタオルの表面に顔をしかめさせる。


 そしてペットボトルとハンカチタオルを戻して鞄の底をまさぐって取り出したのは、輸血パックだ。それも、あたし専用の。

 10秒チャージよろしく、あたしはパック上部に取り付けられた、普通はありえない飲み口の蓋を開けると、それをぢうぢうと吸い、飲み込んだ。


 この輸血パックは、あたしの身元引受人である先生が用意してくれたものだ。

 先生といっても、教師じゃない。弁護士でも政治家でもない。お医者さんだ。


 魔術士でもあるその人は、異術の覚醒を迎えて死にたくなっていたあたしを、理解してくれた。

 あたしがあの魔女を××したいこと、そのために強くなりたいことに頷いてくれて、これを用意してくれた。

 あたしには必要になると言って。

 わざわざあたしの血を培養し、欠乏しないように、と。


 飲み口については、流石に針と管で輸血するのは無理だからと、経口補給でどうにかなるようにしてくれた。魔術ってすごい。


 結局一分ほどかけてパックの中の200mlの血液を飲み終えたあたしは、蓋を締めてそれを畳んで鞄の中に仕舞い、あの融合異骸キメラデッドの肉片と汁が敷き詰められた廊下の奥を睨み付ける。


 照明代わりの金属球はどうやらあたしを起点にしているらしく、自動追尾ホーミングモードの蜂鳥同様にあたしに追従する。


「よし、行こう――」


 鞄を背負い直して。

 あたしは滑って倒れて体中がまみれないように、肉や汁を慎重に踏み付けて探索を再開した。

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