げんとげん

長月十伍

Ⅰ;幻 痛 と 幻 獣

Track.1-1「ああ、おなかが、ある」

 跳ね起きる意識は腹部の激痛によって拒絶シャットアウトされた。

 臍辺りから脳天に衝き抜けた鋭利の奔流を、背中を仰け反らせて歯を噛むことでどうにか耐える。

 あらわになった腹部を両手で抑え、その感触を確かめてはじめてあたしは、その素っ頓狂なため息を吐いた。


 ――ああ、おなかが、ある。


 確かにあの瞬間。

 あたしの腹部は巨大な螺旋回転に貫かれ、爆裂して血肉の飛沫を撒き散らした筈だった。

 だけど見渡してもそこには臓物の欠片も、血の一滴すらも認められない。

 どてっぱらに風穴の空く“幻痛”と。

 そして、あたしの代わりに腹部を失った“幻獣”の亡骸が、ただただ在っただけだった。



   ◆



げ ん と げ ん


   Ⅰ ; げん 痛 と げん 獣



   ◆



 実に不機嫌そうな表情で、少女は二十二時過ぎの池袋の街を闊歩していた。

 目深に被った帽子キャップのつばで陰っていたし、長い前髪に半ば隠れてはいたが、彼女の視線に気付いた人はそれが不機嫌そうだと――その理由までは定かではなくとも――そう思っただろう。

 だが実際にはそこまで少女を気に掛ける者はいないし、少女自身、それを知っていた。

 場所柄、彼女の容姿に惹かれて声をかける男性はいたが、少女が自分の年齢を僅かに低く偽って告げると彼らは皆去っていった。


「あたし、十五歳の中学生なんですけど」


 その顔立ちや背丈からその言葉を虚偽だと類推するのは難しい。

 だから、


「へぇ、むしろ大歓迎だよ」


 リスクを顧みずにそう答えた男性は、今日の“実証”に適していると。

 少女は心の中でひとつ頷いて、緊張のために口腔内の唾液を嚥下した。そしてその強張りを解くための溜息を一つ、声音が漏れぬようゆっくりと静かに吐いた。


「……たい」

「え、何?」


 浅黒く焼けた皮膚。鈍く光る双眸そうぼう。整えられた顎鬚あごひげ。太い首と金のネックレス。筋肉質で大柄な身体。

 街明かりにテラテラと照り返る趣味の悪いスカジャンと、ダメージが意匠されたジーンズ。

 偏見だろうが、その男は見た目からして“いいひと”ではないと断じられた。


 少女はポケットに忍ばせていたその金属を右手で握り締め、引き抜くと同時に“展開”する。

 中央の小さな長方形の部品を力を込めた親指でスライドさせると、ヂギギギッという威勢のいい不快音とともに飛び出す――薄い刀身。

 少女が取り出したのは、全体がステンレスで作られた、所謂“カッターナイフ”だ。


「――っ!?」


 勢いよく振り上げられたソレを見て男は目を見開いた。

 さすがにいきなりこの展開、というのは予測していなかったらしい。

 しかし、その直後にさらに予想だにしない状況が目に飛び込んでくる。


「ド変態っ!」


 言い放つと同時に少女が切り付けたのは――自らの左腕だった。

 鋭い刃先が左前腕の白い肌に触れ、一息に赤い線が作られた。その赤い線からは赤い雫が迸った。


 男は混乱していた。訳が分からないのも確かに頷けよう――夜の楽しみにいい感じの少女に声をかけたら中学生だとのたまい、いきなりカッターナイフを取り出したと思ったらおもむろにリストカットをキメたのだ。ぶっ壊れているにも程がある。


 しかし理解を超えているのはむしろその後の話だ。


 少女の切り開いた左前腕の傷口から垂れる赤い血潮は、その雫の形を変えていく。

 ぽたりと落ちた雫は、まるで卵のように、弾けて赤い羽虫へと変貌する。

 赤い羽虫は中空でひるがえると、ぽかんと口を開ける男へと殺到する。


「わ、な、何だっ!?」


 少女の傷口から殺到する赤い羽虫は勢いよく男の肌の上を跋扈ばっこする。それはまるでごく小規模な、麦畑を蹂躙する蝗害だ。

 身をよじり、手足をバタつかせて虫を追い払おうとした男だが、しまいには耳や口にも入る始末だ。

 そして、喚く男の首筋を、羽虫が噛みついた瞬間に元の血球へと戻り、透過して男に染み込んでいった。

 それを皮切りに、男を蹂躙していた赤い羽虫たちは一斉に男に染み込み、まるで何も無かったように消えていく。


 ――ドクンッ。


 男の心臓が跳ね上がる。

 膝をついて放心していた男は呆けた表情のまま、少女を見上げた。


 ――ドクンッ。


 まるで撃鉄のような衝撃を奏でる心音に呼応して、膨張した血管が男の肌に浮かぶ。


「ろす――」


 青筋立ったその表情を見て“実証”の成功を確信した少女は、踵を蹴って後退すると同時に身をひるがえした。

 逃げるのだ。


「――ぶっ殺すぅぅぅぇぇぇぁぁぁあああああ!!」


 理性のたがが消し飛んだケダモノから。

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