第四章 キャンディド

 プラスチックのスツールにアンは座っている。彼女は畳んだオーバーコートを膝の上にせ寒さをしのいでいる。オーディションの順番を待つ女優志願者といった風情ふぜいだ。

 モデリングライトで薄く照明された背景幕ホリゾントが、アンの着るワンピースの輪郭を際立きわだたせている。

 アンの顔は、スタジオの一角いっかくに置かれた大型の鏡に向けられている。その姿見すがたみには、三脚にえられたカメラと僕、そして僕の顔に唇を近づける若い女性が映っている。

 アンの視線は、姿見の奥に映る僕たちの鏡像にじっと注がれている。

 鏡の中のカメラはまさにこの情景を撮影しているカメラだ。だが、僕はファインダーを覗いていない。僕は、若い女性と話をしながら、アンに気づかれないようにリモコンでシャッターを切った。

 鏡の中で僕が話している女性は、僕の教え子だ。身体からだに密着するジーンズが彼女の長身を強調している。片手でりげなく持つスウェーデン製の中型カメラが、彼女の美貌びぼうに知的な印象を加えている。長い髪を後ろでたばね額をあらわにしているせいか、アンと同い年には見えない。その教え子は、唇が触れるかと思うほど僕に顔を寄せている。

 アンはおびえている。馴染なじみのない場所で初めて会った人々と未経験の仕事にのぞむのだ。さらに、頼りにすべき唯一の知合いは、自分を見放みはなして魅力的な日本人女性とたわむれている。

 組写真の三枚目は、写真学校の実習用スタジオで撮影された。

 撮影の準備であわただしいスタジオに、アンは独りで来た。

 モデルの面倒をみることになっていたスタイリスト志望の女子学生は、未だ学校に到着していない。他の学生達も準備に忙しく、アンの相手などしていられなかった。邪魔にならないようにとスタジオの真ん中に椅子がしつらえられ、アンは独り座らされた。

 思惑おもわく通りの位置だった。付近の露出ろしゅつあらかじめ計測され、シャッター音の比較的小さいカメラのレンズが、そこをねらっていた。

 独りで放っておかれるアンの表情が欲しかったのだ。

 眼を見開みひらいて、スタジオを眺めまわす。気をつかった学生がかける言葉に愛想笑あいそわらいを返す。手持無沙汰てもちぶさたにハンドバックを開け閉めする……。撮影準備の喧噪けんそうにシャッター音をまぎれ込ませ、そんな隠し撮り キャンディド が何枚か撮られた。

 アングルを変えるためファインダーを覗こうと腰を屈めた時、女子学生が一人、近づいてきた。

「先生、このカメラどうしたの?」

「しーっ! 隠し撮りをしている」

 リモコンを見せると、彼女は笑顔をさらに寄せてきた。

「先生、バレているんじゃない? モデルさん、鏡の向こうからこっちを睨んでるわよ」

 彼女が僕の耳元でささやいた時、僕はリモコンのスイッチを押し、カメラのイメージセンサーにアンの姿を焼きつけた。


「夜景を眺めていると哀しくなるわ」

 人が明かりを灯す理由は沢山ある。ほとんどが哀しい理由だとリンは言った。

「ほら、あのビジネスホテルの部屋の明かり。自分の居所いどころを人に伝える灯火あかしね。…私なら此処ここに居るよ。ほら、私ははぐれないように灯火をけているでしょう…。向こうの一戸建て。一部屋だけ電灯が点いているわ。家族が一人も欠けていないことを確認している。…みんな一緒に此処ここに居ようよ。一緒に居るだけで寂しくないから…。坂の下にネオンが見えるでしょ。…此処に来てごらん。此処は楽しいぞ。此処にはお前の仲間が沢山来ているぞ。独りぼっちの奴らが集まっているぞ…」

 自分が受けるべき愛情を、誰かに奪われるのではないか。評判も信頼も失い、輪の中から放り出されるのではないか。便たよりが途絶とだえ、寄辺よるべから遠離とおざかり、孤独との絶望的な戦いを強いられるのではないか。

 はぐれることへの不安が街の深層を成している。街の意識下を探るのは簡単だ。街は夜になると、仮面ペルソナを脱ぐからだ。

「祈りのためにね」

 リンは、言葉を続けた。

「あなたの天使も、何処かで明かりをともしているかしら」

 アンは、もうこの街に居ない。僕は、そう答えようとして、思いとどまった。

 アンは母国へ帰った。この街にはもう戻らない。

「アンの本名は何ていうの?」

「アンヘラ。和訳すると『天使』だ」

 リンは振り向き、問いかけるような視線を僕に向けた。

「写真のタイトルの『天使』は固有名詞?」

「僕にもわからない」

「ごめんなさい。無意味な質問だったわね」

「天使」が、天使のような清楚で美しい存在を意味しようが、「娼婦」のメタファであろうが、あるいはモデルの本名であろうが、組写真『天使の希み』のテーマは変わらない。そうつけ加えてリンは、さらに強く僕を見据みすえた。

「スタジオの写真を見て、私もジェラシーを感じたわ」

「君も?」

 たしかにアンの瞳には、鏡の奥で談笑する僕と女子学生へのかすかな悋気りんきひそんでいる。

「でも、私のジェラシーの対象は、鏡の中であなたにキスしようとしている美人さんじゃないわ」

「あの女子学生は、何時もあんなふうに人に顔を近づけて話すんだ」

「わかっているわよ」

 リンは、テーブルの上に置かれた月餅げっぺいを取り上げて四つに割り、ひと欠片かけらを口に運んだ。そして、紹興酒を二つのグラスにそそいだ。

なつめのアンコも、結構老酒ラオチュウに合うわよ」

 リンは、つきあえとばかりにグラスの一つを押しこした。

「今日は、プロポーズしてくれないの?」

 少量の酒で酔ったふりをすると、リンを抱きよせて「結婚しよう」と口説くどくのが常だった。

「お酒飲めない人とは結婚しない主義なの。私だけ酔っぱらって旦那が素面しらふあきれ顔なんて、絵にならないもの」

 ほとんど本音ほんねの求婚は、何時もそんな具合にかわされた。

 リンは立ち上がり、冷蔵庫から氷を一個だけ持って来ると、グラスの一つに入れた。

「薄めてあげたわ。これで飲めるでしょ? 遠慮しなくていいのよ。今日も酔っぱらったふりをして私を口説きなさい」

 リンは挑むような眼で、さらにグラスを押し寄こした。

「あなたが誰を好きになろうと誰から好かれようと、ただの色恋いろこいなら私はかまわない。私にみさおを立ててくれなくてもいいわ。でも、アンがあなたに求めていたのは恋だけじゃない。私が焼き餅を焼くのは…」

 リンは語気ごきあらくした。

「あなたが天使ののぞみにこたえようとしていたことよ。その希みは私にはもち得ない希み…」

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