第四章 キャンディド
プラスチックのスツールにアンは座っている。彼女は畳んだオーバーコートを膝の上に
モデリングライトで薄く照明された
アンの顔は、スタジオの
アンの視線は、姿見の奥に映る僕たちの鏡像にじっと注がれている。
鏡の中のカメラは
鏡の中で僕が話している女性は、僕の教え子だ。
アンは
組写真の三枚目は、写真学校の実習用スタジオで撮影された。
撮影の準備で
モデルの面倒をみることになっていたスタイリスト志望の女子学生は、未だ学校に到着していない。他の学生達も準備に忙しく、アンの相手などしていられなかった。邪魔にならないようにとスタジオの真ん中に椅子が
独りで放っておかれるアンの表情が欲しかったのだ。
眼を
アングルを変えるためファインダーを覗こうと腰を屈めた時、女子学生が一人、近づいてきた。
「先生、このカメラどうしたの?」
「しーっ! 隠し撮りをしている」
リモコンを見せると、彼女は笑顔をさらに寄せてきた。
「先生、バレているんじゃない? モデルさん、鏡の向こうからこっちを睨んでるわよ」
彼女が僕の耳元で
「夜景を眺めていると哀しくなるわ」
人が明かりを灯す理由は沢山ある。ほとんどが哀しい理由だとリンは言った。
「ほら、あのビジネスホテルの部屋の明かり。自分の
自分が受けるべき愛情を、誰かに奪われるのではないか。評判も信頼も失い、輪の中から放り出されるのではないか。
「祈りのためにね」
リンは、言葉を続けた。
「あなたの天使も、何処かで明かりを
アンは、もうこの街に居ない。僕は、そう答えようとして、思い
アンは母国へ帰った。この街にはもう戻らない。
「アンの本名は何ていうの?」
「アンヘラ。和訳すると『天使』だ」
リンは振り向き、問いかけるような視線を僕に向けた。
「写真のタイトルの『天使』は固有名詞?」
「僕にもわからない」
「ごめんなさい。無意味な質問だったわね」
「天使」が、天使のような清楚で美しい存在を意味しようが、「娼婦」のメタファであろうが、
「スタジオの写真を見て、私もジェラシーを感じたわ」
「君も?」
たしかにアンの瞳には、鏡の奥で談笑する僕と女子学生への
「でも、私のジェラシーの対象は、鏡の中であなたにキスしようとしている美人さんじゃないわ」
「あの女子学生は、何時もあんなふうに人に顔を近づけて話すんだ」
「わかっているわよ」
リンは、テーブルの上に置かれた
「
リンは、つきあえと
「今日は、プロポーズしてくれないの?」
少量の酒で酔った
「お酒飲めない人とは結婚しない主義なの。私だけ酔っぱらって旦那が
ほとんど
リンは立ち上がり、冷蔵庫から氷を一個だけ持って来ると、グラスの一つに入れた。
「薄めてあげたわ。これで飲めるでしょ? 遠慮しなくていいのよ。今日も酔っぱらったふりをして私を口説きなさい」
リンは挑むような眼で、さらにグラスを押し寄こした。
「あなたが誰を好きになろうと誰から好かれようと、ただの
リンは
「あなたが天使の
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