第三章 祈りの写真

 水平線と夜空とが、わずかなコントラストを見せ始めた。

 闇は揺らぎもしない。動きをとめ、湿気が地の底に沈みきる時を忍耐強く待っている。

「君のルポ、もう最終回じゃなかった?」

「最終稿は仕上げたわ。今晩中に取材後記を書いて一緒にメールするつもり」

「君が知りたかったことは、どうなった?」

……勃興ぼっこうするアジアでなら、売春のネタ集めには困らない。社会の様相が大きく変化しようとする時、そのビジネスは不可避的ふかひてきに発生するからだ。しかし私は、社会現象としての売春を調査分析するつもりなど毛頭もうとうない。私が娼婦について知りたいことはひとつだけだ……

 リンの記事の連載一回目は、そんな書き出しで始まっていた。

……景気の好い街の娼婦は一日十人もの客をとる。吃驚するほどチープなお値段で。アジアのイリヤ達は「日曜日はダメよネヴァーオンサンディ」などとは言わない。年中無休で稼ぐのだ。しかし、身をにして得た稼ぎも、とどまることなく消えてゆく。粗末そまつなメニューの割には高額な食費、ヤクザ者への所場代しょばだい、警官への賄賂わいろ、貧しい家族への送金、エトセトラ。貧しい国の娼婦は性的奴隷セクシャルスレーブ以外の何ものでもない… …

「問題は、彼女たちがいつまでも若くないってことよ」

……彼女たちは、ボロボロになって齢をとる。美味しいものを食べることもない。観光旅行に出かけることもない。ほとんどの娼婦が、牢獄ろうごくのような部屋で、ささやかな楽しみも知らず何の思い出も無く老いてゆく……

「それがわかっていて、なぜ彼女たちが当たり前のように暮らしているのか不思議だったの。私なら生きていないわ」

……彼女たちのパンドラのはこに残りかすのようなものがあって、彼女たちの生きるかてとなっているのなら、それが何なのか私は知りたい……

「ボイスレコーダに録音されていた歌だけど」

 マリたちを取材した後、スイッチを切り忘れたボイスレコーダが録音してしまった歌だ。透き通るような歌声が綺麗に録音されていた。

「港町の街角まちかどに立つ女たちが、八十年も前から歌い続けてきた曲なの」

夕陽西下黒夜來臨時シーヤンシーシャヘイイェライリンシー我情不自禁地唱起哀怨的情歌ウォチンプツゥジンダチャンチィアイユェンダチンク……

「陽が沈み暗い夜が来ると私は歌ってしまう、かなしい恋の歌を……そんなありふれた文句で始まるラブソングよ。でも、この曲は聴く人の心を打つわ。もの凄くね」

……歌い手が夜の女たちだからよ。

「人と触れ合うこと無しで、人は生きることができない。セックスは他人との究極の触れ合いでしょ? 独りぼっちでないことを確かめ合うために男と女はむつみ合うの」

 ところが娼婦の「仕事」は違う。肉体だけがむなしく交わり、本当にわされるべきものは逆に拒否きょひされている。

「私ね、アノ後、頭の中が真っ白になるわ。でも、彼女たちはどうかしら」

「仕事」の間、娼婦は孤独だ。

凄絶そうぜつな孤独よ。だから、いやしが必要なの。あの歌は娼婦たちの祈りなのよ。頭の中を真っ白にするためのね」

 リンは電気スタンドをせた書見台しょけんだいを指さした。机の上には、メモ用紙とボールペン、それに高さ六インチほどの青磁せいじ花瓶かびんが置いてある。

抽出ひきだしを開けてご覧なさい」

 抽出の中には、聖書が入っていた。

「ホテルの部屋には聖書や仏典が置いてあるでしょ」

 人は祈る動物だからだ、とリンは続けた。

「一人でホテルに泊まっていると、そんな本を読みたくなることがあるの。今くらいの時間、特に」

……地球上の何処かで誰かが必ず祈っている。それをその本は象徴している。

「今この瞬間、祈っている人が亜洲アジアに何千人いるかしら。地球に何万人いるかしら。何千何万という人々が同じ時を共有する。祈りは、自分以外の人とひとつになるための手段なのよ。テレビもラジオもインターネットもみんなそう。人は四六時中、自分以外の人とのつながりを求めている。『縁』にすがろうとしている。死は絶対的な孤独でしょ? 死ぬことは、全ての人との縁が切れること」

……だから人は、死をみ嫌うの。人は無縁を恐怖し孤独を回避しようとする。言葉を交わし、恋をし、抱き合い、家をつくり、街に住み、そして祈る……。

我深愛著你ウォスンアイチュニイ我需要你ウォシーヤォニィ

你不在的話ニィプツァイダホァ

我連死都故不到ウォレンスゥドゥツォブダォ

 歌うリンに今までにないほど「女」を感じた。だが、リンは媚態びたいをつくっていない。

 リンはその曲を賛美歌のように歌った。

 リンの歌う姿から、僕は一枚の写真を連想した。

「僕が写真を始めたけを、君に話したことがあったっけ?」

 リンは首を横に振った。

 祈りの情景がひとつ、記憶の片隅かたすみにある。その映像の画質は十九年の時をても、全く劣化していない。

 若い女性が、手を組んでひざまづき眼を閉じている。天井からる電灯の光がカーディガンの表面で拡散され、彼女の輪郭をふくらませている。女性が対面しているのは、おそらく白い壁だろう。そこに反射した光が、彼女の顔にわずかな明るさを与えている。画面からは見切みきれているが、壁には小さな聖母の肖像が飾ってあるに違いない。

 祈りの場所は教会ではない。彼女がひざまずいているのは畳の上で、薄暗い背景には生活の雰囲気がある。

 モノクロームの情景は半切はんせつの印画紙に焼きつけられ、街の画廊に飾られていた。*1

 十九年前だ。

 午後の画廊には誰もいなかった。

 受付のテーブルに、三十人ほどの名を連ねた芳名帳ほうめいちょうが筆ペン一本をえて置かれていた。カタログもない。受付横の壁に、その写真家の略歴を書いた半紙が貼ってあった。

 画廊には、三十数点の作品が展示されていた。「祈り」の写真以外は皆四切よつぎりで、題名がついていない。かわりに、それぞれのパネル下に撮影年月日と撮影データが記された紙片がピンでとめてあった。*2

 作品のモチーフは全て「人」だった。ただし、特別な「人」でも変わった「人」でもない。写っている人物の民族はおろか人種さえ不明だ。もちろん、職業も貧富の度合いもわからない。

 人を人たらしめている必要にして充分なもの……それを彼のカメラは抽出ひきだしていた。人種や民族や宗教といった皮相ひそうが一瞬消えて、純粋な「人」そのものが表に現れることがある。その瞬間を、彼のカメラは見事にとらえていた。

 世界中の人間は皆、同じ「人」なのだ。それがこの写真展……三十数枚で構成された組写真の記号内容シニフィエだろう。

 祈りの写真は、画廊の一番奥に飾られていた。そして、その作品にだけ、題名がつけられていた。

「祈りの写真を、僕は一時間も見ていたよ」

 いくつかの謎を、祈りの写真は問いかけていた。

 三十数点の中で、何故その作品にだけ題名があるのか。何故一枚だけ、他の作品の二倍の大きさに引き伸ばしてあるのか。

 モデルがクリスチャンで、撮影場所は日本……他の作品ではこばんでいるのに、何故祈りの写真だけには被写体や背景を特定させるような推理を許しているのか。

 写真家の意識が被写体の意識と見事に融け合っている、と誰もが思うだろうそのトーンは、どのような技法によってつくられたのか。

 長時間の推理をもってしても、朧気おぼろげな解答さえ得られなかった。

「こんな写真を撮ってみたい、と思ったよ」

 祈りの写真は、僕を写真学科を持つ大学に移籍させた。

「その写真、何て題名だった?」

 リンは、身体からだを僕に向けた。

「天使をください」

 青磁せいじの花瓶が何処からか光を受け、リンの瞳の中で刹那せつな、夜光した。

「モデルの女性、妊娠しているわ。たぶん、写真家の子供を」

 その程度のことに何故なぜ十九年間も気づかなかったの? そんな表情かおをリンはした。

「受賞したあなたの作品と『天使をください』との関係は何?」

 ビエンナーレで受賞した組写真の題名は、『天使ののぞみ』だった。


*1半切(はんせつ):写真のサイズ(432mm×356mm)

*2四切(よつぎり):写真のサイズ(305mm×254mm)

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