第三章 祈りの写真
水平線と夜空とが、わずかなコントラストを見せ始めた。
闇は揺らぎもしない。動きをとめ、湿気が地の底に沈みきる時を忍耐強く待っている。
「君のルポ、もう最終回じゃなかった?」
「最終稿は仕上げたわ。今晩中に取材後記を書いて一緒にメールするつもり」
「君が知りたかったことは、どうなった?」
……
リンの記事の連載一回目は、そんな書き出しで始まっていた。
……景気の好い街の娼婦は一日十人もの客をとる。吃驚するほどチープなお値段で。アジアのイリヤ達は「
「問題は、彼女たちがいつまでも若くないってことよ」
……彼女たちは、ボロボロになって齢をとる。美味しいものを食べることもない。観光旅行に出かけることもない。ほとんどの娼婦が、
「それがわかっていて、なぜ彼女たちが当たり前のように暮らしているのか不思議だったの。私なら生きていないわ」
……彼女たちのパンドラの
「ボイスレコーダに録音されていた歌だけど」
マリたちを取材した後、スイッチを切り忘れたボイスレコーダが録音してしまった歌だ。透き通るような歌声が綺麗に録音されていた。
「港町の
…
「陽が沈み暗い夜が来ると私は歌ってしまう、
……歌い手が夜の女たちだからよ。
「人と触れ合うこと無しで、人は生きることができない。セックスは他人との究極の触れ合いでしょ? 独りぼっちでないことを確かめ合うために男と女は
ところが娼婦の「仕事」は違う。肉体だけが
「私ね、アノ後、頭の中が真っ白になるわ。でも、彼女たちはどうかしら」
「仕事」の間、娼婦は孤独だ。
「
リンは電気スタンドを
「
抽出の中には、聖書が入っていた。
「ホテルの部屋には聖書や仏典が置いてあるでしょ」
人は祈る動物だからだ、とリンは続けた。
「一人でホテルに泊まっていると、そんな本を読みたくなることがあるの。今くらいの時間、特に」
……地球上の何処かで誰かが必ず祈っている。それをその本は象徴している。
「今この瞬間、祈っている人が
……だから人は、死を
歌うリンに今までにないほど「女」を感じた。だが、リンは
リンはその曲を賛美歌のように歌った。
リンの歌う姿から、僕は一枚の写真を連想した。
「僕が写真を始めた
リンは首を横に振った。
祈りの情景がひとつ、記憶の
若い女性が、手を組んで
祈りの場所は教会ではない。彼女が
モノクロームの情景は
十九年前だ。
午後の画廊には誰もいなかった。
受付のテーブルに、三十人ほどの名を連ねた
画廊には、三十数点の作品が展示されていた。「祈り」の写真以外は皆
作品のモチーフは全て「人」だった。ただし、特別な「人」でも変わった「人」でもない。写っている人物の民族はおろか人種さえ不明だ。もちろん、職業も貧富の度合いもわからない。
人を人たらしめている必要にして充分なもの……それを彼のカメラは
世界中の人間は皆、同じ「人」なのだ。それがこの写真展……三十数枚で構成された組写真の
祈りの写真は、画廊の一番奥に飾られていた。そして、その作品にだけ、題名がつけられていた。
「祈りの写真を、僕は一時間も見ていたよ」
いくつかの謎を、祈りの写真は問いかけていた。
三十数点の中で、何故その作品にだけ題名があるのか。何故一枚だけ、他の作品の二倍の大きさに引き伸ばしてあるのか。
モデルがクリスチャンで、撮影場所は日本……他の作品では
写真家の意識が被写体の意識と見事に融け合っている、と誰もが思うだろうそのトーンは、どのような技法によってつくられたのか。
長時間の推理を
「こんな写真を撮ってみたい、と思ったよ」
祈りの写真は、僕を写真学科を持つ大学に移籍させた。
「その写真、何て題名だった?」
リンは、
「天使をください」
「モデルの女性、妊娠しているわ。たぶん、写真家の子供を」
その程度のことに
「受賞したあなたの作品と『天使をください』との関係は何?」
ビエンナーレで受賞した組写真の題名は、『天使の
*1半切(はんせつ):写真のサイズ(432mm×356mm)
*2四切(よつぎり):写真のサイズ(305mm×254mm)
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