第二章 母子のポートレイト
リンに顔をつなぐ相手を求めて例の店に再び足を向けたのは、女たちにインタビューした一週間後だった。
店の名は「セレナ」といった。
昼間は酒類を出さないらしい。モカマタリが香っている。
コーヒーカップは、四、五才の女の児を連れ奥の席に座った主婦の手元に置かれていた。他に客はいなかった。
子供は、僕と目が合う度に笑顔をみせた。
「マリは駄目よ。そんな女性じゃないの」
マリへの
「そういう意味じゃないんだ。もう一度、話を聞きたいだけだ」
「もう一度?」
セレナのママは、カウンター越しに僕の顔をじっくりと
「どこかで見た顔だと思ったら、お客さんUSの記者さんじゃない」
「本社の女ボスに顔つなぎを頼まれたんだ。そのボスがマリーさんに会いたいと言っている」
セレナのママは「そう」と言うと、店の奥に目をやった。
子連れの女が、振り向いた。
「マリーじゃなくてマリよ。幼稚園にこの子を迎えに行った帰りなの」
「あのインタビュー、記事にならないのね?」
僕が
「ごめんなさい。あの娘たち本当は皆カタギなんです。みんなであなたを騙したの」
マリは、僕に頭を下げた。
「お爺ちゃんにお願いされたんだから、しかたないよねえ?」
セレナのママの問いかけに、子供は大げさにこっくりをした。
「あのジャーナリストって
マリは奥の席を立って、僕の隣に座った。
「あの娘たちの
マリの日本語は日本人と
「マリさんは、日本に来てどれくらい?」
「六年だけど……私の日本語? 一生懸命勉強したわ。子供が幼稚園や学校で
マリの代わりに子供の相手をしようと、セレナのママは奥の席に座っている。ママ、パパという単語を含んだ会話が
「私の主人、日本語学校の先生なの」
日本に来てすぐ知り合い、一年後に結婚したという。
「取材費、
「経費は会社モちだから気にしなくていい。それに、実は、こっちも嘘をついていた。僕は顔つなぎをたのまれただけで、記者じゃないんだ」
僕は名刺をマリに渡した。
「写真学校の先生?」
マリは、名刺に書かれた漢字を、一字一字声に出して読んだ。
「漢字は苦手だわ」
マリが名刺の文字を全て読み終えたとき、店のドアが開いた。
「パパ」と声をあげて子供が走ってゆく。
子供を抱きあげた男は、カウンター前の二人に笑顔を見せ、頭を下げた。
「私の
健の性格は、穏やかな表情や話し方から
健は、ヤらせインタビューの
「私、娼婦に見えたかしら。すごく短いスカート
ぎごちなかった、と店のママは
「女優にはなれないわね。演技力不足」
「経験不足よ。私、健以外の男、知らないもの。私、健と一緒になるまでヴァージンだったの。本当よ」
川口健は、恥ずかしそうに頭を
勤め先の写真学校に川口健が電話をくれたのは、翌日の昼だった。
父親に会ってくれと言う。
「父も、お
アジアの裏事情に詳しい。情報屋として必ず役に立つ、と自分の父親を売り込んだ。相談にのってやって欲しいとも言った。
僕は、健の父親と会うことを承諾した。
その日の夕刻、写真学校近くの喫茶店で、川口健の父親は待っていた。
「先生ですか? 川口です」
店内を見渡していると、すぐ
彼の姿は店に入ってすぐ目についたが、これから会うべき相手だとは思えなかった。彼が若い女性と一緒だったからだ。
「どうしても連れて行けってきかねえもんだから」
若い女が立ち上がった。
僕は声をあげそうになった。
「ハジメマシテ」
初めてではない。一週間前、夜の
「孫娘みてえなもんですよ」
二人に視線を交互させると、川口は言った。
『川口一』
名詞には、よく知られた外国人援護団体の名と「通訳」という肩書が
「ふざけた名前だと思うでしょう。ただ、この名前はね、この子たちが役所で何か書かされるときには都合がいいんだ。書き易いでしょうが。縦に線三本ひいて、四角描いて、後は、横棒一本だ。この名前のおかげで、昔の勤め先じゃ外国人
元ヤクザだと言う。
「足を洗ったというより、老いぼれて
七十は過ぎているだろう。健は
「先日の
外国人援護団体はボランティアで手伝っている。主に東南アジアから来ている人々の面倒を弁護士と一緒にみているのだと言った。べらんめえ調で彼がどんな通訳をするのか、興味をもった。
話の
「
「おねがいしたいこと、あります」
頼みごとをすること自体、
「私の写真を、
アンは頭を下げた。
「私は写真のモデルをしたいのです」
アンは興行ビザで入国していた。川口の知り合いが経営するタレントプロダクションに所属している。プロダクションといっても畳敷きの部屋に電話を一台置いたきりの形だけの事業所だ。ダンサーとしての仕事は月に一、二回、
「写真のモデルをしたくて、日本に来ました」
無報酬でかまわないから写真の仕事がしたい。写真が好きだから、と
「俺の
川口は自分の胸を軽く叩いた。
「俺がこの娘の母親に、写真のモデルをやっているって言っちまった。そしたら母親が、その写真を送ってくれと言ってきた」
モデルの仕事を紹介してもらえれば一番有り
「アンの母親はね、この
川口とアンの母親は昔からの知り合いらしかった。
「この娘が
川口が話している間、僕は、ずっとアンの視線を感じていた。
この娘は娼婦だろうか? その疑問は、初めてアンを撮影した夜に生じ、写真のレタッチをしているあいだに増幅していた。
むかし、娼婦の街に案内されたことがある。
幅五フィート程の道の両側に
「僕、ここ写真に撮って欲しくない」
「ここで
その街の出口付近で、十五歳くらいの少女を見かけた。初老の女と並んで
僕らが立ち止まると、少女は顔を上げた。
彼女は、不思議なものを見るような目で僕を見た。僕は彼女の
「こんな所、早く出る、いいよ」
初老の女が僕らを
アンの眼差しにも同じ懐かしさがある。
僕は、川口の話にのることにした。
写真学校の撮影実習で、アンをモデルとして使ってもらえるように
セレナで待つという連絡を受けたのは、二日後だった。
マリが電話をくれた。スタジオ撮影の打ち合わせをした後、アンの部屋を撮らせてくれるという。
約束の
「やっぱり、この子、向こうの店に居たわ」
マリは遅刻したことを詫びた。
「もう一軒、同じ名前の店があるの」
アンは、そこで待っていたらしい。
「向こうの店、閉めちゃおうかしら。お客さんもほとんど入らないし」
セレナのママは、アンが間違えた店が実は本店なのだと言った。
昔は、港に近い本店の方が客の入りは良かった。その店は現在、アルバイトを雇って任せている。
「閉めちゃ駄目。絶対駄目よ。店の名前を変えるくらいならいいけど。向こうが東セレナ、こっちが西セレナ」
「それじゃまるで国の名前よ」
閉店反対を訴えるマリに向かって、セレナのママは何度か
写真学校で、ファッション写真の撮影実習を行う。アンにモデルを頼みたい。学生の習作なので写真が世に出ることはない。
「お母さんに送る写真は、その時に僕が撮る」
「先生ありがとう。私はヌードになってもいいのです」
「裸になんかならなくていい。そんなことをさせたら川口さんに殺されちまう」
スタイリスト志望の女子学生が衣装を準備すると言うと、マリは手帳を取り出し、その
「アンのサイズよ」
頁には、英単語と数字が並べて書いてあった。マリは、秘密が書かれた
陽が落ちる前に、アンの部屋を撮影することになった。
「後で私も行くからね」
アンと二人で店を出ようとすると、マリが言った。
「奥さんのいる男の人を誘惑しちゃだめよ」
アンは大きく
「先生には、コドモがいますか?」
「いいえ、子供はいません」
「先生のオクさんはキレイですか?」
「私は独身です」
「ドクシン?」
アンはポシェットから小さな辞書を取り出し、ページを
「ケッコンしていない…ですか?」
「はい、結婚していません」
まるで、日本語講座だ。
例文通りの質問に僕が同様な調子で返答する
古いアパートの一室がアンの
本棚の上に写真立てが置いてある。写真は、赤ん坊を抱いた女性のウエストショットだ。軟調のクロロブロマイド紙に焼き付けられた映像は、アンの母国の写真館で撮られたものだろう。撮影者は素人ではない。照明は
アパートは倉庫街の
アンの部屋からは、窓の
陽の色が最も濃くなる瞬間、僕は
アンはカメラの視界から
窓から射し込む陽の光が、彼女の顔を輝かせている。
アンは室内の一点を見つめている。視線の先には、写真立てがある。
アンは、写真の母親と無言で話している。
部屋の入り口でシャッターを切った直後、夕陽が倉庫の屋根に隠れた。
陽の光は大きく渦を巻き、部屋を
「あのキレイな女の人は、アンのママですか?」
写真立てに目を
「そうです、私のママです」
「ママが抱いている赤ちゃんは、アンですか?」
「そうです、私です」
「いまアンは、ママとお話をしていましたね?」
アンは
「どんなお話をしたのですか?」
「ドクシンの男の人なら部屋に入れてもいいですか? と、ママに
アンはウインクをした。
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