第一章 フルショット

 組写真フォトストーリーの一枚目はアンの全身像フルショットだ。暗調ローキーに仕上がっている。

 真上から降り注ぐ光が、ミニのドレスをまとうアンの全身を漆黒しっこくの背景から浮きあがらせている。

 数枚の枯葉かれはがアンの足元あしもとで舞う。アンは自分自身を抱きしめるように、組んだ両腕を胸に押しつけている。

 わずかに顔を上げ、シャワーを浴びるような姿でアンは立つ。だが、彼女が浴びているのは街灯がいとうの光だ。

 祈るような眼が、光源に向けられている。

 アンは、口を少し開けている。シャッターを切ったとき、アンは短くつぶやいた。

 街角まちかどに立つアンのスナップを僕が撮ったのは、リンからの依頼を受けて港街みなとまちの女たちを取材した夜だった。

 半年前、リンは、アジアの娼婦しょうふたちを記事にしようとしていた。

 リンは上海からの国際電話で、取材の日時と場所を指示してきた。

強面こわもてのお兄さん達の厄介やっかいになるのは御免ごめんだぜ」

「大丈夫、ワタリはつけてあるから」

 ジャーナリズムの下請したうけをもらって取材の段取りをとってくれる代理人がいる。リンは、その人物を手配師てはいしとよんだ。五、六人の女性を集めてくれるという。

「君が自分で取材しなくていいのか?」

「経費の無駄よ。手配師がね、その質問はいいがこれは遠慮してくれ、これは撮影してもいいがそれは困る、といった具合に、どこかの国のお役人みたいなことを言うのよ。当たりさわりのない質問をして紋切り型フィックスドフォームの答えをもらうだけ。退役軍人たいえきぐんじんが喜びそうなアジアの典型的売春婦といった写真も、たぶん彼が用意しているとおもうわ。適当に取材ごっこをしておいて頂戴ちょうだい。あなたにお願いしたいのは顔つなぎよ。彼女たちのうちの一人でいいから、知り合いになっておいて欲しいの」

 狭い通りの端に在る広さ八坪ばかりのスナックで、手配師は待っていた。

「なんだ、あんた日本人じゃないか」

 リンが手配師とよぶ自称じしょうジャーナリストの男は、暗黒社会とのコネクションによって自分がどれだけジャーナリズムに貢献こうけんしているかを宣伝した後、取材の段取りを説明した。

「カメラはあずからせてもらうよ。あのたちの写真が国内に流れると不味まずいんだ」

 写真は既に用意してあるからと、手配師はカメラをシートの反対側に置いた。

「あのたちの目的は一攫千金いっかくせんきんさ。真面まともな仕事をやっても端金はしたがねにしかならんし、第一その仕事が無い。で、都会に出てダンサーをする。裸同然の格好をして男たちの前で踊るんだ。もちろん踊るだけじゃない。自分を指名した客と一晩つきあう。だが、そんなことをしても自分の国じゃ大した稼ぎにはならない。どうせ売るなら、箆棒べらぼう高値たかねがつくこの国で売ったほうが得ってことになる。日本の助平すけべオヤジからふんだくった金を国に仕送しおくりする。その金で、故郷の家族が豪勢ごうせいな家を建てる。結構な暮らしぶりを見た近所の娘たちが、日本に行ってダンサーをやらないかなんてヤクザの口車くちぐるまに、わざわざ乗せてもらうんだ」

 女たちが店に来るまでの間、手配師はしゃべり続けた。

「あの娘たちはそれほど純情じゃないぜ。ワルだとは言わねえが、かなりしたたかだ。だからと言って、俺やあんたが免罪めんざいされるわけじゃないがね。一番のワルは俺たちさ。『先進国』なんて看板げてよ、つつましく暮らす連中に貧乏は悪だなんてもっともらしく教える。チャラチャラした毎日を雑誌や映画で宣伝して、これが人間らしい生活だ、お前らの暮しは真面まともな人間の暮しじゃねえ、って笑う。しっかり稼いで人間らしく暮らせって言われたって、働き口もつくってやらねえんじゃかせぎようがねえじゃねえか。じゃあ、パンパンでもやろうかって話になる」

 欲望を増殖することによってしか維持できない社会の価値観を、清貧せいひんに暮らす人々に巧妙こうみょうに押しつける。結果、多くの人々の自尊心を傷つけ、同時に自らの品性ひんせいいやしくなってゆく。なぜこの国の人間たちはそれに気づかないのか……そんな話を手配師はした。

「まあ、俺なんかが偉そうに言うこっちゃないがね」

 約束の時刻丁度ちょうど、五人の女たちが店に入ってきた。

 鞄の中を探るふりをして、ボイスレコーダーの録音ボタンを押す。

 女たちはアルコール類を注文しない。しゃべっちゃ不味まずいことはかないからと酒をすすめても、最年長らしい女の顔をうかがいながら皆、首を横に振った。

「みんなミセイネンだから。わたしもそう」

 その二十五、六才の女が言うと、

「そうそう、ミセイネン、ミセイネン」

 皆、大きく笑った。

 年長ねんちょうの女は日本語がうまく、質問は先ず彼女が受けた。彼女は、僕からの質問を母国語で補足ほそくした。

 米国の通信社の取材に英語で応じようとしていたらしい。女たちは、事前に用意してあったであろう答えを日本語に訳しながら、辿々たどたどしく並べた。

 家が貧しい。ちゃんとした仕事をしたいが、働き口が無い。だから日本に出稼でかせぎに来る。借金して出国したから、金を稼がないと帰れない。夜はホステスをし、朝はビジネスホテルやラブホテルのベッドメイキングを、昼はレストランで皿洗いをする。夜の街に立つ女もいるが、今この場に居る者たちはストリートガールでもコールガールでもない。世話になっている人に頼まれ、義理で客に身を委ねることがある。勿論もちろんその時には多額の報酬をもらう。売春といわれれば売春だろう……。

 五人が五人、同様な物語をした。

 最年長の女は、名をマリといった。「マリー」と復唱すると「マリーじゃなくてマリよ」と言って、テーブルの上に指で「まり」と平仮名ひらがなを書いた。

 女たちは、何か話す度、マリにうかがいをたてるような素振そぶりをみせた。

 マリの雰囲気は、他の女たちと少し違っていた。若いたちと同様に身体からだの線を極端にあらわにしたドレスを身に着けているが、着慣きなれている様子がない。借り物か久しぶりに着たという感じだ。すでに現役を引退いんたいしているのかもしれない。世話人せわにんといったところだろう。

 女たちの当たりさわりのない話に僕が満足していない様子を見て、マリは申し訳なさそうな顔をした。

 店の入り口付近で、電話が鳴った。

「マリ、カワグチのおとうさんから」

 店の女主人が、カウンターの内側からマリを呼んだ。

 マリはこの店の常連じょうれんらしい。僕は、リンへ顔をつなぐ相手を彼女にしようと決めた。店のマッチをポケットに入れる。

 取材は三時間ほどで終わった。今晩ホステスの仕事は休みだからこのまま店に残る。そう言って、女たちは席を立とうとしない。

「ホステスのシゴトじゃなくてゲイノウのシゴトでしょ」

 マリが言うと、

「そう、わたしたちゲイノウジン」

 皆、再た大声で笑った。

 興行こうぎょうビザで入国した者の接客せっきゃく皿洗さらあらいは禁止されている。

 全員分の勘定かんじょう余分よぶんに払い、僕は手配師と一緒に席を立った。

 店のドアを開けたとき、店内へ流れ込む冷気に混じって歌声が聴こえた。

 迷路めいろのような街並まちなみに聴覚が乱されるのか、表に出ても歌い手のいる方角は判らない。

 女ひとりのとおる声が、悲し旋律せんりつ辿たどっている。恋歌こいうたなら悲恋ひれんの歌だろう。胸をあっ沈黙ちんもくいるような曲相きょくそうだ。

「中国語ですね」

「そう、一応北京語だが、あれはマレーあたりの華僑の言葉だな」

 音が街の各所へ均等に伝わるのか、それとも歌う者が近くを歩いているのか、僕等が移動しているにもかかわらず、その音量は曲が終わるまで変わることがなかった。

「ボイスレコーダーのスイッチを切り忘れてるぜ」

 駅前まで来ると、手配師は簡単に別れの挨拶をし、大股おおまたに歩いて広い通りへ向かった。

 駅の玄関は南北に走る線路の下にあり、東西二つの出入り口をもっている。

 改札口の向かい側にかかげられた地図を見た。東へ十五分も歩けば波止場はとばに出る。終電までには充分な時間がある。街角まちかどに立つ女たちを撮影できるかもしれない。

 駅の構造物によって矩形くけいに仕切られた影が、点々てんてんと光を含んでいる。そのわずかな光にかれるように、僕は駅の東口を出、静寂せいじゃくの街に身をとうじた。

 街灯の光束こうそくが、電話ボックスや消火しょうかせんの冷えた影を路上ろじょうに落としていた。ビルのまど硝子がらすが街灯と落葉らくようした並木をえいじている。

 水銀灯の光は、冬の色をほとんど反射させない。建物は色を失い、錯綜さくそうする無数の影が街を支配していた。色彩を奪われているためか、どの建物からも個性を見出せない。国籍不明の街並みのなかで、欧文と簡体かんたい漢字の看板だけが、曖昧あいまい異国情緒いこくじょうちょをつくっている。

「世界中、どの街を歩いても迷うことはないわ。どんな街も似たようなつくり方をしているの。特に港街みなとまちはそう」

 リンの言葉を憶い出した。

 船荷ふなにを扱うためだろう、道はみな幅広く、直交している。

 整い過ぎた無彩の街並みは、放浪者のような通行人から方向感覚を奪った。リンと違って、角をひとつ曲がるなりたちまち迷った。

 僕は短く笑った。街娼がいしょうが立つのは歓楽街かんらくがいだ。こんな寂しい所で立っていても、つかまるのは間抜けな写真家くらいだろう。

 僕は三脚をバッグから出し、歩道に立てた。

 街は穏やかだった。その落着きは、微量びりょう臭気しゅうきさえ含まぬほどに冷えた空気と路面ろめん低くうねる硬い響きが造り出したものだ。写真は光と影だけで、この雰囲気を再現できるだろうか。僕は実験をしようと考えた。

 広角レンズをつけたニコンを三脚の雲台うんだいせ、夜に休息する街の風景へと向けた。

い画が撮れますように」

 構図を決め、シャッターをリリースするとき、写真家はそうねんじて息をとめる。カルティエ・ブレッソンが主張したように、写真の生命いのちは決定的瞬間だ。静物を撮るときでさえ、写真家は時間をとめようとする。

 レリーズを押そうとした瞬間だった。ファインダの左端で、かすかに影が動いた。

 影はなめらかな「女」の輪郭をもっていた。

 急いでレンズを長玉ぼうえんに替えた。

 街灯の光でだんをとろうとする街娼……僕にはそう見えた。

 シャッター音が、低温で硬化こうかした路面に響く。しかし、風上かざかみに立つアンがその音に気づいた様子はない。アンの声も風に散らされ僕のところへは届かなかった。ただ、ファインダーグラスに映ったアンの唇を読むことはできた。


「アンは『ママ』とつぶやいたんだと思う」

 僕がそう言うと、弁別べんべつできないほどゆっくりとした速度で夜景を走査していたリンの瞳がかすかに揺れ、動きをとめた。

「ママ?」

 窓硝子の向こうで、二人の視線が触れ合った。

「ママ……じゃないと思うわ」

 窓硝子に映るリンの瞳は、再び闇の中をただよった。

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