相思歌(シャンスゥコ)

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

序 章 ナイトヴュー

太妙了!タイミァオラ!看世界的窓戸カンシチィェダチォゥァンホォ」 

 街衢がいくからく無数の光粒こうりゅうが六月の夜空をあぶっている。リンは多分たぶん、世界中が見えるようだ……と言ったのだ。だが、多量の湿気しっけびた空気は光をたくわえてほのかにかすみ、ために、世界中どころか水平線さえ見えない。

 湾岸わんがんつらなる街灯がいとうおぼろげな破線はせんを描き、陸地りくち外郭がいかくを示している。その彼方かなたには、底方そこひ無く続く海のくらさがあるだけだ。

 窓際まどぎわから二フィート退さがっても街のほとんどが視界に収まる。リンの感嘆は、世界中が見通みとおせる看得遠的窓戸カントユィアンダチォァンホゥにではなく世界中が見渡せるほどの大的窓戸タダチォァンホゥに対してだろう。

 二人は、港町の高台に建つ古びたホテルに部屋をとった。

 以前からこのホテルに泊まってみたかった、と僕を誘ったのはリンだ。大きな窓と欧州風の外観が、シンガポールの常宿じょうやどと似ていると言う。

 部屋に入り窓際に寄ったリンはカーテンを開けた途端とたん、「ワォ」と小さく叫んだ。

「今夜は運がいいわ」

 六月が世界一鬱陶うっとうしい国に、りに選って六月に来てしまった。けれど、体にまとはりつくような暑さと重く湿った空気だけがこの国の六月じゃなかったんだ、と溜息をつく。

「生きているみたいな夜景ナイトヴュー

 湿気が、ひとつひとつの光点をやわらかくふくらませている。それらがらぎながら重なり合う様子は、夜光やこうする原生動物げんせいどうぶつ蠢動しゅんどう を思わせ、たしかに夜景は有機的ゆうきてきな雰囲気をたたえていた。

 リンはベッドサイドからテーブルを引きずって、窓際まで運んだ。

伍仁百菓月餅ウレンパイコゥウェピン純棗泥月餅チュェンザァオニィウェピン…」

 包装紙に書かれた品名を北京語で発音しながら、朱色しゅいろの袋から月餅げっぺいを一つずつ取り出しテーブルに並べる。

「この街の月餅は美味しいわ。世界一よ。でも老酒らおちゅうは駄目ね」

「さっき君が買ったのは、本場浙江せっこうの老酒だろう?」

浙江ツェチアンの酒は浙江でむってことよ」

 酒はそれをかもし出した土の上で飲むものだと言い、ショッピングバッグから紹興酒しょうこうしゅと今日買ったばかりの小さなグラスを取り出した。

「お酒、少しは強くなった?」

「いや」

「お酒めない人を日本語で何ていうんだっけ」

下戸げこ

 語感が軽蔑的だと、グラスを磨きながらリンは笑う。

「君みたいな好喝酒的人ハオホォチュウタァレン のことを、上戸じょうごっていう。その逆だから下戸」

 リンは老酒を自分のグラスにだけ注ぎ、視線を窓の外に向けた。

 リンと会うのは、半年ぶりだった。

……日本はもうホットな国じゃないのよ。

 リンが勤める通信社が東京支局の規模を縮小したため、彼女がこの国に立ち寄る機会は激減していた。

 十年前、日本の写真学校を卒業し帰国したリンは、合衆国の通信社に記者として採用された。中国系市民で中国語に堪能たんのうなこと、日本で十年ほど暮らし日本語にも通じていること、そして、写真について卓越たくえつした技術と才能をもっていることが、採用理由だった。

 写真学校でリンに写真を教えたのは僕だ。

たましい瞬間しゅんかん、眼に現れるって、よく言ってたわね」

 魂は瞬間、眼に現れる。カメラは、それをとらえる悪魔の箱だ。被写体の眼に光が無ければ写真は死ぬ。肖像写真ポートレートを撮る際の眼あかりキャッチライト の大切さを、僕は写真学校で、そう教えていた。

「あなたの写真は魂をとらえていたわ。ひとみの奥でうずくま っているアンの魂がはっきりと写っていた」

 ヨーロッパのるビエンナーレに出品した僕の作品が受賞した。

 受賞作はモノクローム四枚の組写真フォトストーリーだった。

 四枚の何れにも同じ人物が写っている。

 人物の名はアン。十九才。身長五フィート四インチ。東洋人。

「何故あの娘をあんなに綺麗きれいに撮ったの? まるでファッション写真のモデルみたい」

「綺麗に撮ろうと思ったわけじゃない。綺麗に写ってしまっただけだ」

「本当? 写真はしんを写さないと教えてくれたのはあなたよ」

 たしかに、そう教えた。映像はつくられるものだ。

 写真家はシャッター速度を調節して、ある速さの動きだけをとらえ、レンズの開口値かいこうちを変えてフォーカスの合う範囲を区切る。ある部分は影に溶かし、ある部分は光にくらませ、彼が見せたいと思うもの以外の全てを隠す。写真は混沌こんとんとした日常空間を有りのままには再現しない。写真は客観を写さない。客観を演出して、見る者の想像力を喚起かんきするだけだ。

 写真には写真家の思惑おもわくが必ず表れる。写真家が美しく撮ろうとはからなければ、写真は美しく撮れない。だが、四枚の写真に演出はなかった。僕はアンの瞳にあやつられ、魔法の被術者ひじゅつしゃのようにシャッターをリリースした。

「アンは綺麗だったよ。可愛かわいくて美人だった」

「そうね。あなたの言う通り。セクシーな娘……」

 リンは、記憶を辿たどるように視線を落とした。

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