第15話

「少し席を外してもいいかな。一人で考えさせてくれないかい。」


彼らが僕の言葉に耳を傾ける様子を見ることができなかったが、そんなことは元から期待していない。僕はドアへと回れ右をして、個室トイレへと向かった。考えさせてくれ、とは言ったものの、何を考えようかということすら決めていない。あのときの僕も同じ行動を取っていたが、そのときだって何も考えてなかった。

彼らとは決してハナから仲が悪かったわけではない、むしろ「個人的」には良好な関係を築いているとさえ思っている。よくカフェやカラオケに行って交流を深めたり、互いに意見を交換したりすることもあった。彼らの様子に変化が見られたのはほんの少し前のことであった。これだけは言及しておきたいところだが、僕は彼らの心理などてんでわかっていない。彼らは近ごろ僕のせいで食事が喉を通らなかったという。彼らの怒りはその苦労を僕が無神経なことに理解しなかったことに起因するものなのか、これまでの僕の行動に起因するものなのか、いずれにせよ、人間が他人の心情など理解できるわけがないのだから理解を求めること自体―いや、このままでは愚痴をこぼしているだけで、一つも解答が見つからないという惨めな結果に終わるに違いない、空虚な時間を過ごすだけである。解決方法を導き出すために原因を追求することは生き物に空気が必要であることと同じくらい重要だ。そうか、考えるべきものがわかってきた。昔の僕はたしか何を言うべきか、自分が何をして彼らの怒りを買ってしまったのかがわからないまま、その何かに対して懺悔の弁を述べていた。今回の僕は違うぞ、指針がわかっていればなんてことはない。僕は彼らの憤怒の矛先、つまりこれまでの何らかの罪について明らかにし、懺悔を述べなければならない。弁護人がいないのだからわからないのも無理はなかったのだ。

 白のペンキが剥がれ落ちて木板が見える。木板からは瞳孔のような模様が浮かび上がり、腐敗したかのような褐色の眼球が白い海で遭難しているようであった。僕はこの眼球をぼんやりと見つめながら、僕は考えた。個室トイレというものは公共の建物において唯一孤独を得られる環境である。僕たち人間は常に孤独を恐れるが、その一方で、どこか孤独を求める時もある。狭い部屋がどうにか外部の視線を妨げているようで、ドアの中に入りこめば、僕は個人として観察はされず、「トイレに入った一般人」として、公共の建物に存在することができる。孤独を求めるようになれば、ドアから出ればいいのだからとても便利だ。


――しかし、彼の目論見は外れていた。かといって、その見解が全て真理に反していたというわけではない。その見解における大きな欠陥というのは彼の孤独に対する向き合い方ただ一つのことであった。彼はこれまでの彼よりかすかに成長を感じられるものはあった。しかし、彼の孤独における観念は稚拙で、未発達なものであることは依然として変わることはなかった。もし彼が小説家のような、想像力に長けた俯瞰者であれば、経験から生じた想像力により自分を第三者として俯瞰し、他者を説得させる言葉遣いと、他者の苦しみを理解して共感できるはずで、この事態は難なく済ませることのできることであった。芸術家のいう「孤独」は俯瞰者としての位置であり、他者の心情を理解できるのだから他者に嫌悪されることはなかったに違いない。一方で彼の「孤独」は単に、利己心に基づく孤独であったために、彼の悩みというのは依然として解決することはなく、彼の固執した考えはウロボロスの尾のように回り続けたので、長い時間をかけて生み出されたのは苦労だけであった。また、孤独というものには複数人で議論すれば、ほんのわずかな時間で解決する問題を非常に難儀なものとする効力があった。俯瞰者は他者の考えを取り入れ、たとえ孤独であろうとも解決できるだろう。一方で彼は独りよがりな思考であったために、問題は床を反射するばかりで、やがて肥大化し、個人では解決のできないものとなっていった。まるでスーパーボールが床に着くたび、体積が指数関数的に大きくなるかのような様子である。彼が立派な俯瞰者であれば、スーパーボールは木の葉に置き換わり、静かに解答へと着地が可能であっただろう。かくして彼の答えは夢が醒めるまで永遠に解決のできないものとなっていった。彼は自分が成長したと捉えているがそれは単に利己心の現れでしかなく、孤独ではなく、孤立という表現のほうが彼の場合には適していただろう。

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