第5話

 黒い球体は見た目通りの触り心地でツルツルとしていた。ひんやりとして気持ちが良い。目を瞑り、この球体の変化を待つことにした。ーーどれほどの時間が経過したのだろうか。黒い球体は、いつまでたっても、黒いままであった。青年はしびれを切らしたのか、無言で僕の手をどかし、そこに鎧の男のいかつい手のひらを乗せた。すると黒い球体はすぐに赤色の球体へと変わった。この男は「火」の魔法が向いているのだと青年は説明してくれた。

「これは実にけったいな話だよ。これはどんな人にでも反応するはずなのに!」

青年の愁嘆もむなしく、球体は僕に関しては終始無言を貫いていた。

 鎧の男が2脚の椅子の上に横たわってカエルの鳴き声のようないびき声を上げている。僕たちは固い地べたで寝ることになった。

寝る直前に青年は何かを思い出したかのようにつぶやいた。

「ああそうだ。一つ忠告しておこう。いいかい、もし用を足したいなら地上に上がってすぐに済ましてくるんだ。夜は危険な生き物が活動する時間帯だからね。」

「魔法じゃ追い払えないのですか?」

「なるほど。『魔法で追い払う』ね」

青年は僕の言葉を反芻して続けて、

「いいかい。残念だけど、この世界の魔法は君の予想よりはるかになんだ。」

 その話によれば、戦いにおいて魔法というのは使いものにならないそうだ。戦いにおける主戦力は竜である。その事実に疑念の余地はない。あの大きな体躯を前にしては、「炎」などマッチに等しいのだ。魔法を覚えるよりも竜を飼うことのほうがはるかに恩恵を得られるというのが世間の認識であった。

 真夜中のことである。僕は用が足したくなったので青年が用意してくれたなんとかして炎の形を保っている赤い点が乗ったかのような蝋燭を持って、地上へと昇った。空はすでに青紫色の絵具で染められている。獣を起こさないように薄氷を踏む思いで木の下で用を足した。こんなに怖い思いをして用を足すのは小学生以来だろうか。トイレに向かう途中、夕方に見たあの心霊番組がフラッシュバックしたために震え上がってしまった。「おねしょしてしまってもいいから目を覚まさなければいいのに!」とまで思ってしまうほどに。

 部屋につながるトンネルに戻る最中、突然僕は体を石化させてしまうような鋭い視線を感じた。僕は恬然とした姿を装ってはいるものの内心はすっかりとおびえていた。あの感情がそのまま蘇ったかのようだ。僕は僕のひ弱な肉体にすら涎を垂らすほどに飢えた獣を想像した。傍らには薄汚れた雑巾のような毛皮で身を覆う獣の子ども、僕を捕まえた母親は僕を子どもによこす。子どもが喜んで僕を食べる姿を親は微笑むのだろう。―追い払う術はないのだから万事休すだ。せめて、自然の歯車になってその子の成長を見守ってやろう。そう思い、僕は首だけを回転させて、その正体を覗いた。しかし、それは獣ではなかった。静かにその姿はくっきりと確認できたが頭巾を被っていたために顔は見えない。大きな布で身体を巻いているため、袖が手をすっかり隠していた。もし遠くから眺めたら幽霊と勘違いしてしまうだろう。

「ムラに着いたらその日の夜に月桂樹の下に来て。」

物憂そうなつぶやきに似た声を発したあと、踵を返してしだいに闇に染まるように消えていった。

僕は気づかないふりをして無言で地下へ戻り、そのまま寝た。内心は獣や幽霊の類ではなかったことの安堵感ですっかり満たされていた。

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