床に愛しの白ムスメ

 大好きだった夏も終り、涼しい風が吹き抜けるようになった。

 紅葉は嫌いじゃないけど真夏のどうしようもない暑さの中、我武者羅に汗をかくのが大好きな俺には物足りない季節が来る。

 そして、動物の習性…

 「あおぉぉぉぉぉぉん!」

 発情期だ。

 鬼ノ国に居た頃は、発情期になると彼方此方で喧嘩が勃発する。

 男も女も気が立っているからだ。

 俺も例外じゃない。

 男友達と、キクマと、心行くまで喧嘩した。

 何日も何日も。

 頭が真っ白になるまで血を流し合った。

 キクマは辛くないんだろうか…と思ったがキクマは「お兄様」という発散法を見付けた事を思い出して舌打ちする。

 俺は辛くて仕方ない。

 どんなにキツイ特訓の後でも無関係に余力が在った。

 血がって一時もジッとしていられない。

 どうする事も出来なくなった時は蔵に行った。

 桃太郎の袴に「助けてくれ」とすがったりもした。

 蔵の床板は俺の爪跡で傷だらけになった。

 桃姫さんの香りを嗅ぐだけで眼の色が変わるのが自分でも判った。

 なるべく接触を避けて、夜、桃姫さんが来た後は外を走った。

 一度、たがを外すと何処まで行くか判らない。自分を見失いそうで怖かった。

 

 その日も特訓の後、冷たい水を頭から被り蔵に籠った。こんな状態になって10日は超えただろうか。

 もっと長い時間こうしている気もした。

 自分の膝に噛み付いて背中を掻きむしった。

 桃太郎の袴は静かに哀し気に俺を見下ろすばかりだ。

 喉が灼けるように熱い。

 体内から血の臭いが上がってきそうだ。

 冷たい筈の床板に横になって削った床板の傷を数える。

 切ない。

 人間にはこんな想い、無いんだろうな。

 皆、涼しそうな顔して生活してる。

 俺達は獣と何ら変わらない。

 ゴトリと蔵の扉が開く音がした。

 お爺様には蔵で暫くソッとして欲しい旨は伝えてある。

 理由は伝えては居ないが「暫く人間が近づかない方が良い状態」とだけ伝えてある。

 定まらない視線を入口に向けたまま床を引っ掻き続けた。

 「どうしてそんな状態なの、教えてくれなかったの?」

 声に思わず上体を起こした。

 香りを嗅ぎ付ける事すら鈍る程イカれていたなんて…。

 「桃姫さん…来ちゃダメだって…。」

 膝を抱えてその中に頭を突っ込んだ。

 「傷だらけじゃないの。

 そんなになってもどうして何も言ってくれないの?」

 優しい筈の桃姫さんの声に今は酷く神経を逆撫でされる。

 「言えねぇよ。

 発情期だなんてダサい…。

 動物とおんなじじゃん。」

 桃姫さんは冷たいペットボトルを俺の頬に押し付けた。

 「人間には発情期は無いの。

 どうしてか判る?」

 俺はペットボトルのキャップを回しながら首を横に振った。

 「年中発情出来るようによ。

 決まった時期しか交尾しない動物の方がよっぽど節操があると思わない?」

 冷たい水が気持ち良くてあっという間に飲み干した。

 空になったペットボトルが転がる軽い音が蔵に響いた。

 「桃姫さんを喰いたい。

 喰いたくて…堪らないんだ!」

 切ない声を絞って叫んだ。

 ペットボトルが俺を軽蔑している様に見えた。

 二人の間に暫しの沈黙。

 俺の隣で桃姫さんが膝を抱えて座った。

 桃姫さんはロングスカートを履いているので膝は見えなかったがそれでも発情期の勘で身体の線は頭に描けた。

 胸元ばかりに眼が行く。

 今迄の俺なら「俺ってなんて破廉恥なんだ〜!」とか思いながら眼を瞑ったりしていたのに今は雄丸出しで凝視している。

 桃姫さんの頬が紅く染まり、桃姫さんがゆっくり此方を向いた。

 「ねぇ、桃太郎くん。辛いまんまで居るのは止めて?

 私で良ければ…食べて。」

 桃姫さんが両手を広げる。

 拒めない。拒まない。

 そのはにかむ表情が愛おしくて暫く見詰めていたかったが一秒でも早く繋がりたかった。

 桃姫さんの腕を掴んで強引に引っ張った。

 軽々と俺の胸に飛び込んできた。

 「桃姫さん『で、良い』んじゃねぇ。桃姫さん『が、良い』んだよ。」

 首筋に歯を立てた、が、

 「あ、俺…歯、抜いたんだっけ…。」

 肉を噛んだあの手応えは無かった。

 歯を抜いた事を、自分を感謝した。

 二人で思わず笑い合った。

 「菊美ちゃんが教えてくれたのよ。

 桃太郎くんは発情期中で、喧嘩相手が見付けられずにきっと苦しんでいるだろうからって…。

 菊美ちゃんも、お兄ちゃんがバテちゃって喧嘩相手を探してた。」

 嗚呼、これで喧嘩相手が出来た。やっと苦しまずに済む。桃姫さんに獣みたいな真似しなくて済む。

 少し残念に思いながらもこれで良かったんだ、と自分に言い聞かせ深いため息を付いて立ち上がろうとした俺の首に桃姫さんの真っ白い腕が絡みついてきた。

 「発情期が終るまで何日も菊美ちゃんと喧嘩するんでしょ?

 何日も…菊美ちゃんと過ごすんだよね?

 それなら一瞬だけ私との時間を頂戴?」

 揺るがない桃姫さんの瞳を覗き込む。

 「だけどそれって…つまり…。」

 「うん、つまり…。」

 俺の両手を桃姫さんの小さな手が包んでくる。

 温かい。

 「止めとこうよ。

 俺もどうなるか判らないし…。」

 「鬼のくせに怖気付いてるの?

 男のくせに?

 発情期のくせに?

 どれを言えばその気になるの?」

 俺の額から、頭から、汗が伝い落ちる。

 「男の…くせに…かなぁ。」

 甘い甘い桃姫さんの香りに酔う。

 鬼は、桃太郎に恋をしたのかもしれない。

 一晩中闘って、こいつになら敗けても良いと思ったのかもしれない。

 そっちの方が気分が良い。納得してやれる。

 だって俺はもうすっかり桃姫さんに全部持ってかれちまってる。


 それから5日間、俺とキクマは思う存分暴れた。

 鬼歯があるだけやっぱりキクマの攻撃の方が強い気がしたけどずっと動いてなかったキクマの身体はすっかり重たく鈍くなっていた。

 これが鬼ノ国なら今頃キクマと祝言だ。冗談じゃない。

 悔しがったがそれでもキクマは又、身体を鍛えようとはしなかった。

 「俺は充分強いから良い。」

 キクマは顔を腫れ上がらせながらも負け惜しみにそう言い捨てた。

 俺の傷はキクマからの噛み傷程度で、大した事はなかった。

 俺もキクマも帰って啜るように肉を喰った。体力消耗と怪我の治癒には肉は欠かせない。

 俺より弱くなっちまったキクマが少し小さく見えた。

 肉を掻き込む俺を正面から穏やかに微笑みながら見詰めるお姫さん。

 俺のお姫さん。

 なんか久し振りに視たからか、今迄と少し関係が変わったからか、桃姫さんは今迄よりぐんと大人っぽく魅惑的に微笑むようになった気がした。

 俺は更に桃太郎に、鬼倒家に、敵わなくなった事を自覚した。

 

 

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