隠居姫

 朝、洗面所で歯を磨いていたら菊魔が割り込んで来た。

 顔の目の前でブラシで髪をバサバサ梳き始めた。手で追い払おうとしても退かないので脚で蹴ってやった。それでも退かない。

 「綺麗になるまで待ってよ!」

 菊魔がそう言った。

 (300年そうしてたってオマエはキレイにゃならねぇよ!)

 それから、歯ブラシに山盛り歯磨き粉を乗せ、歯磨きを始めた。

 「オマエ!ソレ付け過ぎ!!

 もっと大切に使えよ!」

 「くひがくひゃいほ、きあわえうやお!?」

 口が臭いと嫌われるだろ?、と言ったのだろう。

 菊魔はすっかりお兄様に夢中なのだ。

 口が臭い位でなんだってんだ?天下の菊魔様が…。

 格好に気遣った事なんて無い。俺がブレスレットやアンクレットに夢中になってる間も。俺がパンツをコレクションし始めても、喰う為に獣を取り、獣を追う為に毛皮を身に着けた。

 それが菊魔だ。

 バサバサだった髪を液体石鹸で洗い、桃姫さんからドライヤーで乾かしてもらう。

 それだけでフワフワした頭に変わった。

 時にはお兄様が買ってきた服を、時には桃姫さんに借りた服を着て唇に色を付けたりもする。(桃姫さんの制服と聞くとそれだけで俺も過敏に反応してしまうけど…。)

 裸同然の格好で背中に金棒を背負って走り回っていたとは思えない変化を遂げた。

 下品でガサツだった菊魔が見る影も無く、猫みたいにお兄様にすがって甘えている。

 お兄様は「コスプレ」と言うのが好きらしい。

 初対面のあの日、桃姫さんに着せようとしていた虫取り網を思い出す。

 菊魔も又、何かしら変わった格好をしていた。

 菊魔は二つの角を隠すように髪を左右に分けて括ったりもした。

 (俺より大きくて二つもあると自慢していたくせに。)

 ひとえに、鬼の角と言っても色んな形がある。

 サイみたいに直角に曲がっていたり羊みたいに丸く巻いてある形もある。一本角と言っても場所も多少異なる。

 祖先の角の形によって色々違うらしい。

 俺は今のところ3cm程の小さな角が一本だけだ。

 婆ちゃんも一本だったが母ちゃんは二本あった。

 成長段階で二本生えて、計三本ある鬼もいる。

 角は強さの象徴というより遺伝なのだそうだ。

 それでも昔は大きくて立派な角を持っていた鬼がモテたらしい。

 今では角に穴を空けてアクセサリーを付けたりする奴も居るのに。

 俺は角の形より自分の身長が低い方がコンプレックスに思っている。

 鬼ノ国でもそうだったが人間界に来て更に思った。

 菊魔が俺より背が高くて隣を歩くのが嫌だったのに、お兄様は更に高い。桃姫さんだって俺の事を見下ろせる。

 俺が唯一見下ろせるのはお爺様とお婆様だ。

 それでもお爺様と会話をする時は尊敬の意を込めて正座をするように努めている。

 俺がどんなに努力しても鬼倒の家にすんなりと受け容れられたのは菊魔だった。

 鬼ノ国では嫌われ者だった菊魔が、だ。

 菊魔は一日の殆どをお兄様の部屋で過ごしたが桃姫さんとお風呂に入ったり(クソッ!)、部屋で何やら楽しそうに話したりする事もあって、俺は全く桃姫さんと二人になる時間を持てなくなった。

 「私も桃太郎くんがす…」あの後の言葉が気になって仕方がない。

 素敵だと思っている…?す、素直な良い子だと思っている…?他に「す」が付く言葉ってあったかな。後はもう「好き」しか思いつかないんだけどそんな事思ったら罰が当たるかな…と思っては桃太郎の遺品が何か飛んで来ないかと辺りを見回す日々を送っている。


 菊魔はお兄様を交えて桃姫さんと楽しそうに氷菓子を食べていた。

 俺はお爺様の言い付け通りにトレーニングをこなしていたので出遅れた。

 桃姫さんが俺にも氷菓子のカップを渡してくれた。

 「好き嫌いがあるかもしれないけど、私は好きなの。」

 そう言いながら。

 カップの蓋を開けると河の色と同じ翠色が覗いた。

 一口食べると冷たい氷菓子を更に冷たく感じさせる香りが鼻に抜けた。

 「おぉ!変わった味!」

 カップには「チョコミント」とあった。

 「美味しい?」

 桃姫さんが覗き込んできた。

 「はい。食べられる歯磨き粉みたいですね!美味いです!俺も好きかな。」

 爽快感が気に入った。

 隣の桃姫さんが嬉しそうに微笑む。

 俺もつられて微笑った。

 お兄様の肩に身を預けた菊魔もスプーンで河の深い翠をつついている。

 もう見慣れた光景だけどまだ馴染めないでいる。


 俺は修行がしやすいようにとお爺様と共に離で寝起きしている。

 だから俺の知らない桃姫さんと菊魔とお兄様の時間がある。

 気に食わなかった。

 菊魔は自分の漢字を菊魔から菊美と改めると言った。

 菊美と書いて「きくま」なんだそうだ。

 どうせ呼ぶ時は同じじゃないか、と文句を零したら気持ちの問題だと右頬を思い切り拳で殴られた。

 凄く気に食わなかった。

 脚にはまだ暴れていた頃の名残、枷が付いたままなのに声を偽って、可愛く着飾って、角を隠して笑っている。

 (鬼のくせに…)

 胸の中で毒付いた。

 声にはしなかった。

 鬼は耳が良いので絶対に聴こえると思って敢えて口にしなかった。

 とてつもなく気に食わなかった。

 

 夕方、皆は母屋で夕飯を摂っている時刻だろうが俺はお爺様の教えの通り、お爺様から「金属バット」と言われる俺の金棒を体の前で八の字に振り続けた。体全体を使って動く事を心掛ける。腕だけを振るんじゃなく、脚で踏ん張り脚の筋肉も使う。

 頭から顔から汗が流れ出た。

 腕の汗が肘まで伝って冷たくなって土の上に落ちた。

 「夕飯に来ねぇと思ったらこんな所で拗ねくって素振りかよ。」

 声を鼻先で確認する。

 桃姫さんと同じ液体石鹸で体を磨いているが桃の甘い香りなんて一切しない真っ白いシャツに緑のチェックの短いスカートを履いた人間のフリした赤い髪の二本角、菊魔。

 「そんなヒラヒラした服、オマエなんかにゃ似合わねぇよ!」

 顔を見なくても判る。

 菊魔の周りの空気に怒気が交る。

 それを判っていても尚まだ煽り続ける。 

 「天下の菊魔様も地に堕ちたなぁ。

 人間の男にゾッコンになってスッカリ腑抜けになっちまって。

 今のオマエになら敗ける気がしねぇ。」

 「オマエ、チビの桃太郎のクセに

 言うようになったじゃねぇかよ。」

 怒気を隠さない菊魔の声に応える様に地面に金棒を突き立てた。

 ジャッと菊魔が地面を踏み込んだ音がした。

 菊魔の突進の第一歩はいつも地面に足がめり込む。

 枷の重さか、菊魔の勢いのせいか。

 一、ニ、三…俺に近付く距離を見計らいながら菊魔の軸足が深く土にめり込む瞬間を捉えた。

 俺の体なのに俺のじゃないみたいに軽い。

 さっきまで重い金棒を全身で振っていたからか。

 太腿の筋肉は震えていたがそれでも容易く動いた。

 そして、刃物で斬る様な鋭さで菊魔の軸足を払い除けた。

 菊魔を地面に転がしたのは産まれて初めての事だった。

 いつも俺の上に馬乗りになるのは菊魔だった。

 菊魔には起き上がる隙さえ与えない。

 肩を抑え込んで首根っこに噛りついてやろうと思った。

 目立つ処に敗北の大きな印。

 菊魔の鬼としてのプライドごと傷付けてやろうと思った。

 恥も何も無いような顔でお兄様にしなだれて微笑む菊魔を。

 お兄様が買ってくるどんな服も着られなくなるような深くて大きな痕を。

 菊魔の愉しそうな笑顔が過る。

 桃姫さんの優しい笑顔も、お兄様のすました顔も、お爺様の厳しい眼差しも俺は全部裏切ってしまう…一瞬の戸惑いを見抜かれて、菊魔に右腕を噛み付かれた。

 鋭い痛みと共に俺の腕から肉が剥がれて行くのが見えた。

 「クソォ!!」

 急いで傷の上を力一杯掴んだ。

 「『敗けねぇ』のは気だけだったみたいだな?」

 目の前の菊魔の眼は鬼ノ国に居た時の光を孕んではいたが、しかしあの頃の菊魔では無かった。

 膝を折る俺の目の前まで菊魔が近寄ってくる。

 もう反撃する元気はない。

 菊魔は俺の目の前までやって来て、スカートを捲ると右脚を掲げた。

 覗く下着より気になったのは内腿にある大きな深そうな傷だった。

 「俺の衣類に成り果てた黒豹の最後の足掻きだ。

 俺がアイツを仕留めて、アレを着て帰っても誰も何も言わなかった。

 いつだってそうだ。

 菊魔なら当たり前。

 菊魔は最強で敗ける訳がない。

 オマエ等皆そう思ってたろ?

 桃オニィが勧めた服を俺が着たら、桃オニィは必ず『モユル』って言ってくれる。意味は判らねぇけど俺をいつも褒めて、満足げな顔をしてくれる。

 着た物を褒めてくれた初めてのヒトなんだ。

 オマエ等雄鬼にとって一番大切なのは強い事で、後は特にどうでも良い。

 お前等雄鬼の、そんな所が俺は大嫌いだった。

 強さより大切なモノ、それを教えてくれたのが桃オニィだ。

 俺は桃オニィの為なら鬼のプライドも女のプライドも捨てられる。」

 菊魔の話を俺は自分の呼吸の音の隙間に聞いた。

 俺はすっかり大の字になって地面に寝っ転がっていた。

 「頭冷やして飯に来い。」

 菊魔の枷の音が遠ざかるのが妙に悲しかった。

 どんなに努力しても人間に、桃姫さんに近づけない自分と違い、すんなりと人間に馴染んでいる菊魔の違いが判らなかった。

 

 土の冷たさが心地良く感じ始めた俺の鼻腔に嗅ぎ慣れた大好きな甘い桃の香りが届いた。

 香りが近付いて、俺の頭上で止まった。

 更に香りが強くなって、同時に右腕をキツく縛られた。

 「菊美ちゃんと取っ組み合うなんてどれだけ菊美ちゃんが好きなの?」

 「え?」とうっすらと瞼を開けると膨らんだ桃姫さんの頬が見えた。

 「スミマセン…桃姫さん。

 俺…皆に馴染んでる菊魔が羨ましくてひがんで菊魔を怒らせました。」

 そう言うと、桃姫さんはもっとプッと頬を膨らませた。

 「ホントに子供なんだから!桃太郎ちゃんは!やっぱり12歳の赤ちゃんよ!」

 「…スミマセン…。」

 力無く応えると、桃姫さんは大きく息を吐くと俺の頭を自分の膝の上に乗せてくれた。

 俺の顔に桃姫さんの柔らかい桃…つまり胸が微かに当たっている。

 動くと俺の顔に桃姫さんの胸がうっかり当たって居るのを知られそうで…そしてそれをなんとなく責められそうで、そこは気が付かないフリをした。

 「菊美ちゃんは努力してるの。私達と馴染もうと…。

 最初は力加減が判らなくてブラシもドライヤーも何個もダメにしちゃったり、ヘアゴムも上手く括れなくてイライラしてたけど、ちょっとずつ出来るようになって、イライラもしなくなって、お兄ちゃんの為に可愛くなりたいからって私にメイクの仕方を聞きにして、自分で出来る事を一つずつ増やしていったのよ。

 修行してるのは桃太郎くんだけじゃないの。」

 桃姫さんが俺を見下ろしてきた。

 照れ臭くて、今度は桃姫さんの胸に自発的に顔を埋めた。

 「お料理も今、お婆ちゃんに習ってるんだから!」

 「アイツの作るモンなんかどうせ混ぜただけ飯ですよ。」

 「それでも良いじゃない。

 作りたいって気持ちが大切だもの。

 なんでも『やってみる』っていう前向きな気持ちが大切でしょう?」

 鬼ノ国の俺達には、やる事が少なかった。

 目的が無かった。目的と言えば「強くなる事」とか、「欲しい物をどうやって取るか」とか…。

 「ガキだったんですかねぇ。」

 俺の声が夜の闇に溶ける。

 「ガキなのよ。」

 ウフフと桃姫さんが静かに笑う。

 草むらでコオロギの鳴き声が聴こえる。

 「桃太郎くんには今迄好きな女の子は居なかったの?」

 応え難い質問を桃姫さんが投げかけてくる。

 黙っていると、「菊美ちゃん?」と言われたので咄嗟に否定した。

 「菊魔はあくまで俺の憧れなんですよ。

 アイツみてぇに強くなりてぇとか…、ずっとそういう眼で見てました。

 だから女々しくなって哀しいのかも。」

 置いてけぼりにされた気がして…。

 「じゃあ、そろそろ菊美ちゃん断ちしなきゃね!」

 桃姫さんにそう言われて、俺が菊魔に執着しているみたいに思われている事が不愉快で頭を上げた。

 「全然!

 俺、アイツ居なくても平気ですよ!」

 幼い頃からずっと隣には菊魔がいた。時には前を走る背中を追い掛けながら…。

 頼もしかった。

 褐色の肌を太陽の下晒しながら金棒を振り回して誰彼構わず喧嘩を売る。

 大人だろうがデカかろうが強かろうが…。

 入ってはいけないと言われると立ち入り、触るなと言われると壊した。

 そうやって、「菊魔」の名を広めていった。

 俺の自慢だった。

 肉の剥がれた右腕に触れてみる。

 ジワッと血が滲んだ。

 「アイツが女になったのは寂しいけど、祝福してやらないと…。」

 そうだ。

 俺が好きだった菊魔にはもう会えない。

 なら、未練がましく思い出に、すがっていてはいけないのだ。

 「隣を走ってくれる相手が居なくなって寂しくて困ってます。良かったら桃姫さん、隣を歩いてくれますか?」

 弱々しく笑ってみせると、桃姫さんは自分の胸をドンと叩き

 「任せて!

 きびだんごだって用意出来るから!」

 と、微笑ってみせた。

 俺は親友を失った。

 代わりに唯一無二の存在を持った。

 桃姫さんの手はいつも温かい。

 温かくて柔らかい。


 傷付いた右腕を治すのは血肉を摂るのが一番良い。鬼倒家の冷蔵庫の中には俺達の為に、と、魚や肉、牛や豚の臓物が冷凍されていた。

 俺は解凍する時間を惜しんで、凍ったままの牛の肝臓と心臓に喰らいついた。

 血生臭い匂いが有難かった。これからこれらは俺の肉へと変わるんだ。

 俺はそれをお婆様が用意して下さった食事と共に嚥下した。

 喰い終った食器を洗っている所に菊魔の匂いを感じた。

 鬼独特の強い血の匂いと作られた甘い花の香り、そしてお兄様の匂い。

 横目で菊魔を見ると、不貞腐れたようにへの字の口をしている。

 「ごめん。」

 菊魔に「ごめん」なんて言われたのはわざと顔を踏まれて以来だ。

 本当は謝罪する気なんて無かったのをお兄様か桃姫さんに言われて謝罪に来たのだろう。唇が震えている。

 許すもんか、と言いそうになったが俺が先に煽ったのを思い出し、俺も「悪かったよ。」と口にした。

 改めて菊魔に眼を向けると菊魔は化粧をしていなかった。

 菊魔の素顔を見るのは久し振りだった。

 毛虫みたいなまつ毛が無くても、目の周りを黒く塗らなくても充分綺麗だった。

 洗いたてらしき髪の毛は鬼ノ国にいた頃みたいにバサバサだった。

 菊魔が一歩俺に歩み寄った。

 作り物の香りが、作り物と判っていても桃姫さんとおんなじだから、ドキリとした。

 菊魔が何か入った紙袋を差出してきた。

 「俺…桃太郎が好きなの知らなくて…

 ホント、悪いコトしたって反省してるんだ…。」

 (え?どういうコトだ?

 俺が菊魔を好きだと?それとも菊魔が俺のコト好きって?)

 眉間に皺を寄せ菊魔の眼を覗き込む。

 菊魔が女の子みたいに微笑った。

 一気に顔が熱くなった。

 「コレ、一人で食べてね!」

 そう言いながら菊魔に紙袋を押し付けられた。

 (なんだ…アイツ、あんな可愛い一面あったのか?)

 お兄様の気持ちが判る気がしながら紙袋の中に手を入れた。

 中から出てきた物を目にして前言を丸めて床に投げ捨てたい気持ちになった。

 「こっちの『ごめん』かよ!!」

 袋の中身は歯磨き粉だった。


 菊魔は菊美になった。

 体を鍛えなくなった。

 お兄様のお姫様になった。

 俺の親友は唯の幼馴染みになった。

 俺はお爺様曰くの「金属バット」を片手に一日のメニューをこなす。

 俺は目標の「俺」になる事が出来るだろうか。

 目的を探す為に俺は今日も汗を流す。

 

 

 

 

 

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