魂取物語

 さっきから胸が痛い。喉の奥が熱いし、手が震える。

 俺はお姉さんに案内されて重い木製の門を潜った。

 白い敷石が敷かれた、屋敷に続くまでの庭。

 庭に咲いたアセビが慎ましく俯いている。家を護る様にでっかく立派な桃の木があちらこちらに植わっている。

 案内されたのは縁側。

 お姉さんの黒い靴の横に草履を揃えて屋敷に上がると何処までも畳が続く広い部屋に通された。

 「好きに寛いでいてね。」

 お姉さんは白に小さな赤い水玉模様の入ったワンピースを翻して畳の奥へ消えて行った。

 改めて正座を正す俺の鼻腔に又しても桃の香りが漂ってきた、が、お姉さんの香りとは少し違って「ナニカ」の混ざり物の香りがした。

 細かく鼻を動かしもっと良く嗅ぎながら、お姉さんが消えていった畳の奥へ目を凝らす。

 長い髪が艶っと光った気がした。

 「お姉さん?…じゃ…ない!」

 闇の中の影を探る様に目を光らせると襖の向こうから覗く細い眼を見付けた。

 お姉さんの大きくて黒くてまあるい眼じゃなくて鷹のような細い眼だ。

 正していた正座から指先に力を込めると畳に爪を食い込ませ飛び上がった。

 「それがし、なかなかにやるようであるな。」

 ムフフフと歯の隙間から笑い声を漏らしながら眼と同様に細い男が襖の影から出てきた。

 長い髪を後ろで一つに縛った男だ。

 「アンタ、何者だ?」

 俺は背負っていた背中のリュックから金棒を抜いた。

 本来の金棒は「星」と呼ばれる正方形や菱形の四角推型の鋲と箍で補強した物や蛭金物ひるかなものを巻き付たり長覆輪ながふくりんといった鉄板で覆った物の事を言うのだが、俺みたいな未熟者にはまだ早い。

 俺の金棒は長くて太いだけの鉄製だ。

 もう30年程先には俺も立派な星付きの金棒を貰う予定だ。

 「おっと、待ち給えよ。

 そうやって何でも暴力に訴えるのは頭の弱い下等動物だと名乗っているも同然。」

 声は小さいものの、細い男は俺の前に掌を掲げた。

 (下等動物!)

 その言葉に動揺した。

 鬼が下等動物だなんて言われる訳にはいかない。

 俺は向けていた金棒を床に下ろした。

 「ふぅむ。

 某、名乗り給え。」

 男は長い前髪のあいだから細い眼を光らせ俺の目の前に腰を下ろした。

 俺も習うように改めて正座した。

 「桃太郎と申します。」

 男の細い眼が一瞬大きくなったが、又、細さを保ったまま

 「我が名は鬼倒桃鬼きとうももおにと申す。」

 胸を張る様に名乗った。

 きとう…ももおに…俺はその最強さにひたすら慌てた。

 (何その最強な名前!!有り得ない最強臭!無理だろ!無理無理!!絶対勝ち目無い…。)

 この相手からは闘志の欠片も視えなかったがきっとそれが桃太郎の本当の強さの秘訣なのかもしれない。

 あのお姉さんだって、まるで闘い方を知っている風では無かったのに俺を一瞬で腑抜けにさせた。

 桃太郎一族は俺等が思っているよりも摩訶不思議な力を持つ人種では無いのか。

 「某、我が妹、桃姫に惚れたな?」

 我が妹…と言う事はこのお方は先程のお姉さんのお兄様と言う訳か!

 俺は角が畳に突き刺さるのも構わず頭を下げた。

 「お兄様‼先程の無礼、お許しください!」

 「フゥム、某、なかなか礼儀を弁《わきま》えているではないか…。

 某、桃太郎と申したな?

 桃太郎殿、我が一族と一戦目見得まみえようと来訪したのでわ?」

 やはり…桃太郎の末裔!俺達鬼の動きは手の内と言う事か…。

 ゾクリと背筋に冷たい物が走る。

 「すみません!その…桃太郎の子孫を倒して名を挙げようと考えていました!」

 頭を下げると又、畳に角が刺さった音がした。 

 「フゥム、それは残念…。

 小生の手は闘う為にあるのではない。

 世界を護る《LVを上げる為》にあるのだ。

 今、我が鬼倒を継いでいるのは桃姫故、一戦交えたければ桃姫を平伏す事だ。」

 (まるで鬼畜の所業!!)

 あの、朝露を浴びた花のように美しい桃姫さんを平伏すなんて!!!

 俺はショックで言葉にならなかった。

 「お兄様!それは俺にはできそうもありません!

 桃姫さんは可憐な花!そしてあのなんとも不思議と香る甘く熟した桃の香り!俺は近づく事すら出来ません!!」

 無論お兄様からも桃の香りは漂っていたが…。

 「桃太郎殿、某は桃太郎の出生の秘密をもしや知らぬのでわ?」

 お兄様の言葉に頭を上げた。

 髪からいぐさがハラハラと落ちた。

 「左様か。考えてみれば鬼には桃太郎の出生の秘密等知る由もないであろう。

 仕方がない。小生が教えてしんぜよう。」

 お兄様はずいと身体を前屈みにさせながら人差し指を立てた。

 「むかしむかしある所にお爺さんとお婆さんが住んでいました。お婆さんが河で洗濯をしているとどんぶらこ、どんぶらこ、と大きな桃が流れてきました。お婆さんは喜んでそれを家に持ち帰り、包丁を入れました。すると、中から出てきたのは玉のような男の赤ん坊だったのです。

 それが『桃太郎』の名前の由縁で候。」

 お兄様が自信たっぷりに俺を見下ろす。

 「は?」 

 (何で人間のクセに桃太郎は桃から産まれた?)

 自信たっぷりの意味が判らなかった。

 それなら桃の木の下で産気づいた俺の方がよっぽど現実味があるじゃないか。

 「冗談ですよね…?」

 そう言葉にしようと思った俺の後頭部目掛けて何かが派手な音を立てて落ちてきた。

 「おや?

 珍しい。キチンと固定していた筈の桃太郎が産まれた桃の桃拓が落ちるとは前代未聞であるな。」

 顎を撫でるお兄様の横で俺は悲鳴を上げるしかなかった。

 桃太郎の呪いに違いなかった。

 桃太郎の出生を疑った俺に対する桃太郎のし返しに違いないと悟り、俺は胸中必死に手を合わせ続けた。

 震える俺を尻目にお兄様は脚を崩し胡座をかくと目頭を弄りながら

 「それで桃太郎殿?某は桃姫とは闘わずして帰られるおつもりか?」

 わざとらしい程穏やかに口にした。

 俺は首部を垂れた。

 「桃太郎」と言う名が、鬼が強いと言う土産を持って帰りたいと言う気持ちが消えてしまった訳ではないが桃姫さんと…あんな綺麗なお嬢さんと闘うなんて鬼として、ではなく男としては情けなさ過ぎる。

 が、しかし同時に女子おなごに手を挙げる等男として許されるのか?

 それに…あの人に触れてしまうと俺…胸が火傷しそうな気がする。

 考えただけで顔が熱くなるし不思議に体温も上昇する!

 俺は両手で顔を隠し正座のままの両足をバタつかせた。

 「ムフフフ…、見ている限りではもう既に某は桃姫に敗けてしまっているようでござるな?」

 思わず顔を上げるとお兄様の細い眼とぶつかった。

 「惚れた者の敗け、でござるよぉ。」

 ホレタ…?

 首を傾げる俺に相変わらず嬉しそうに嘲笑うお兄様。

 俺達二人の間を割いたのは桃姫さんの

 「あ〜!おにいちゃん!」

 と言う声だった。

 お兄様はヒラリと立ち上がると縁側へ躍り出た。

 「部屋から出て来たならお風呂入って!

 ホント不潔ったらありゃしない!」

 「我が妹桃姫よ、小生には世界を救う《次のステージへ行く》と言う使命がある故、入浴等に時間を割いている暇はありはしないのだ。小生、戦地トイレに立ち寄っただけの事。それでは失礼致した!」

 お兄様は足を擦る様にして縁側を真っ直ぐに進んで行った。

 俺はその擦れる足音を聴き届けただけだった。

 入れ替わる様に、目の前に桃姫さんが座った。

 「まったくもう!」

 と言いながら、綺麗な音を立てる硝子の器と団子を置いてくれた。

 「ごめんなさいね。さっきの人は私のお兄ちゃん。ゲームオタクでたまにしか部屋から出てこないの。」

 肩を竦めながら桃姫さんはそう言った。

 それから俺の横に横たわる額縁に視線を向け

 「まぁ、桃拓が…。」

 呟いた。

 「なんか…急に降ってきて…。」

 焦って口にした言葉はまるで言い訳のようだった。

 「貴男は…鬼…よね?」

 桃姫さんは俺、と言うより俺の頭、つまり角を見詰めながら呟いた。

 恥ずかしくなって思わず両手で角を隠した。

 俺の自慢の角なのに。

 俺より少しだけ上に位置する桃姫さんの瞳に視線を向ける。

 俺が鬼だと退治されてしまうのだろうか。

 さっきのお兄様の話を思い出そうとしても桃姫さんの美しさと甘い甘い桃の香りに邪魔されて上手く頭が回らない。

 「良かったら召し上がりながら聞いて?」

 桃姫さんに手で示されて改めて団子に目を落とした。

 美味そうだ。

 「いただきます。」

 軽く頭を下げて、添えてあった楊枝を団子に刺した。

 「私の祖父の処には物凄く大きな鬼が来たそうなの。

 祖父は当時、戦争の為に兵隊をしていたから歩兵銃という機関銃を持っていた。

 それで、偶々やって来た鬼の額を撃ち抜いたって…。」

 若い頃は随分無茶したと言われているが今は米俵を両肩に乗せていつもニコニコ走り回る、美味しい米を作るので有名な嵐坊らんぼうさんの事を思い出した。あの人のオデコには鉛玉が埋まっているからだ。

 「若い頃無茶した時の名残なのよね」 

 「女を泣かせた罰でしょ?」

 「今では考えられない程悪かったからなぁ〜」

 口々にからかわれて照れ笑いする嵐坊さんを頭の中で思い描きながら知ってしまった事実に団子の味も感じない。

 嵐坊さんを撃ち抜いたのは桃姫さんのお爺様なのだ。

 団子を咀嚼する事も忘れて固まる俺には構わず桃姫さんは続けた。

 「祖父の曽祖父は夜の闇に紛れた鬼に頭から持っていかれたそうなの。

 ずっとずっと桃太郎の子孫はそうやって鬼からの仇討ちに遭ってきた。」

 哀しそうな桃姫さんの伏せられた瞳に気付くと、俺の口の中に残されたまんまの団子があるのも気付いて、やっと咀嚼を再開した。

 桃太郎一族と鬼の因縁…。

 俺は知らなかった。

 何処の鬼も語らなかった。

 本当は大人の鬼の中では当たり前みたいに囁かれてきている話なのかもしれない。

 だから大門前の大鬼は俺が人間界に上がるのを許してくれたのかもしれない。

 額縁の向こうに転がった金棒に視線を向けた。

 桃太郎の子孫をやっつける、俺が人間界ここに来た言い訳が立つ。

 しかし、桃姫さんを目前に金棒を振り回し闘いを挑む等どうしてもそんな気分にはなれなかった。

 金棒を今持つといつもの何万倍も重く感じそうだ。

 桃姫さんの瞳を覗きこんだ。

 お兄様のさっきの話がなんとなく理解わかった気がした。

 「桃姫さん、俺は桃姫さんとは闘わない。」

 今頃団子の甘く優しい味が口の中に広がった。

 「俺、自分の名前が恥ずかしくて、桃太郎の子孫をやっつけて鬼の方が強いって証明して、そんで堂々と桃太郎を名乗ろうって思って此処に来た!」

 桃姫さんの黒い丸い瞳に俺が映る。

 「でも…俺、桃姫さんの事…傷付けたくない…。」

 自分の鼓動の速さに反比例して喋りがギクシャクしてきた。

 上手く言葉が出て来ない。

 言いたい事があるのに一度口にしてしまったら取り返しが付かなくなるから慎重に、丁寧に言わなきゃならないって気がして脳みそだけ急いで、口が全然追い付かない。

 「桃姫さんの綺麗な肌に傷を付けたら…俺、絶対一生後悔すると思うから…。」

 やっと言えた一言に、安堵するようにもう一つ団子を頬張った。

 噛むとぷちぷちする食感が懐かしさを感じさせる。幼い頃に食べた事なんて無いんだけど何故か懐かしい食感だと思った。

 桃姫さんは両手を付いて膝を滑らせながら俺の傍へ寄ってきた。

 桃姫さんのワンピースの赤い水玉模様がハッキリと水玉模様だと視える位置に来た時には俺の顔は桃姫さんの柔らかな桃に埋もれていた。

 強烈な甘い甘い桃の香り。

 桃姫さんに抱きしめられていた。

 桃姫さんの柔らかな桃が胸なのだと認識すると体温が急上昇した。

 俺はまた、咀嚼を忘れた。

 「私もずっと『桃太郎』を恨んでいたの。桃太郎の一族に産まれたせいで鬼と闘わなきゃいけない自分の運命を恨んだ…。

 でも、今、私の所に鬼が…桃太郎くんが来てくれた事で私、産まれて初めて桃太郎が大好きになっちゃった。」

 見た事ねぇ。こんな愛らしい笑い方する女の人。

 俺ホントどうしちまったんだろう。

 ドキドキが収まんねぇ。

 兎に角、桃姫さんの手を握りたかった。

 桃姫さんも手を握ってくれる。

 暖かい。二人の手が暖かい。

 桃姫さんの体に少しだけ体重を乗せると桃姫さんは簡単に後ろへ寝転がった。

 絶対に俺は平伏したりなんかしない。

 そんなたいした力も出してねぇし、抑え込んでもねぇ。

 なのに、桃姫さんは簡単に寝転がった。

 人間ってのはとてつもなくひ弱だ。

 俺は桃姫さんに重なる様に倒れ込んで目の前の唇だけを目指して口を開けた。

 俺の後頭部に細長いモンが突撃してきた。

 パアンって派手な音がして俺はまたまた悲鳴を上げた。

 「あら、いつもは欄間らんまに飾ってある桃太郎の『日本一』鉢巻が飾ってある額縁が落ちるなんて…。」

 絶対、桃太郎の怨霊だと思って急いで桃姫さんから距離を取った。


 「鬼倒一族の元へ参りながら手を出さん等と余程賢いか腑抜けと見た。」

 光の差さない畳の奥から声が聴こえた。

 お兄様のものではない、しゃがれた年寄りの声だ。

 桃の芳しい香りと共に幾重にも折り重ねた重みのある何とも言えぬ重厚な香りがした。

 俺は本能から姿勢を正し、畳に頭を付いた。又、角が畳に刺さった。

 「そうかしこまらんで良い。何枚畳を駄目にする気じゃ。」

 しゃがれた声がどんどん近づくと、桃姫さんも笑顔を取り戻し、

 「おじいちゃん!」

 と呼んだ。

 さっきのけしからん行動と、それに対する天罰を見られていたのかと顔が熱くなる。

 「私は闘わない!鬼と友達になりたい!」

 俺とは大違いに明るく話す桃姫さん。

 「いや桃姫、そやつは刺客では無いと見た。」

 (刺客…?)

 聞き覚えの無い言葉に首を傾げた。

 桃姫さんと目と目が合った。

 「鬼倒一族の伝文では筋骨隆々な勢いの良い大きな鬼が来る、とある。ワシの所に来た鬼もそれはそれは大きな鬼じゃった。

 そやつは余りに若すぎる。」

 若すぎると言うズバリ言い当てられた言葉に思わずカチンと来た。

 「俺、もう115ですけど!?」

 「鬼のよわい等知らぬ。

 しかし、魂取たまとり合戦するには余りに場数を踏んでいなさ過ぎる。

 お前、桃太郎と言うたな。

 ちょい、桃姫と組んでみよ。」

 明るい処まで出て来た爺さんは俺が想像していたより遥かに小さく枯れ枝の様に細かった。

 しかし、いきなり桃姫さんと組めと言われて心底動揺した。

 俺は桃姫さんを傷付けないと口にしたばかりなのだ。

 「いや、それは出来ません!

 何があっても俺は桃姫さんとは組みません!」

 ハッキリ口にした途端、お爺様は懐から何かを取り出し、それを俺のオデコに向かって飛ばした。

 オデコに激痛が走った。何が飛んで来たのかは全く視えなかったがカツンと床に落ちる音がして咄嗟に目を向けた。

 種だった。

 オデコを押さえて蹲った俺の腹目掛けて、枯れ枝の様な爺さんが跳んできたのが目に入った。

 確かに目にした。

 だが体の動きが間に合わなかった。

 俺が体制を整える前に、爺さんの拳が俺の鳩尾に深く入った。

 後ろへ倒れ込む俺の耳に、爺さんの、

 「額に当ったのが鉛ではなくて良かったなぁ。」

 と言う静かな声が聴こえた。

 そうだった。このお方は嵐坊さんのオデコに鉛玉を撃ち込んだお人だった。

 俺は失いつつある意識の中で、「参りました。お爺様。」と呟いた。


 目を開けるとやけに明るかった。

 太陽の光ではない。

 周りを見回すと、桃色、桃色、桃色…桃色をベースにした小物類が目に入った。

 鼻を鳴らすと、甘い甘い桃の香り。

 少しだけ横を見ると、ワンピースを脱ぎ捨てた桃姫さんの真っ白な背中が飛び込んできた。

 桃姫さんは背中に手を回して乳バンドを外そうとしているようだったので慌てて顔を反らした。

 「桃姫さん!なんか俺情けない所見せちまったみたいで本当にすみません!」

 精一杯、ギュッと目を瞑る俺の背後で桃姫さんが嬉しそうに「あ!」と声を弾ませた。

 「起きたのね!桃太郎ちゃん。」

 「ちゃん」?

 その一言が聞き捨てならなくて桃姫さんを振り返ったが桃姫さんが何も着ていないのを微かに視てしまって慌てて背中を向けた。

 「俺!こう見えて桃姫さんより、お爺様より全然歳上なんです!

 『ちゃん』は止めてください!」

  後ろで絹ズレと桃姫さんの囀りの様な笑い声が聴こえた。

 「おじいちゃんが言ってたわ。

 鬼の115歳は人間で言うと12歳位だって。」

 「12は酷いです。

 鬼の12はまだ母ちゃんのおっぱい吸ってる…。」

 悔しいかな幼い頃から穴が空く程見てきた母ちゃんの写真を思い出す。見ない様に意識していながら自然に視線を向けてきたあの快活で豪快そうな笑顔。

 俺が座っている桃姫さんの桃色のベッドシーツが背後で沈んだ。

 心の落ち着く甘い、甘い桃の香りを背中に感じる。

 恐る恐る振り返ると桃色に白いフリルの付いた服と膝上の白いパンツを身に着けた桃姫さんが微笑んでいた。

 「じゃあ、桃太郎くんって人間で言うと幾つ位なのかしら?」

 首を傾げた桃姫さんの肩から黒い髪が河の水の様にサラサラと流れ落ちる。

 「大人だよ…。

 大人の恋愛だってもう知ってる。」

 得意気に言う。

 しかし何故か桃姫さんのが更に大人に見える。

 年齢云々ではなく、実際、多分、彼女の方が大人なんだ。

 「鬼の大人の恋愛ってどんな事するの?」

 ベッドから下ろしてブラブラと振っているその白樺のような綺麗な脚から目が離せなくなる。

 「朝陽が昇る迄力合わせする。

 そして、男が勝ったらそのまま結婚するんだ。」

 俺の母ちゃんは勝ったんだろうか。だから結婚出来なかったんだろうか。

 「それってなんだか面白そう。

 でも、人間の恋愛の方が絶対に素敵よ。」

 桃姫さんが上目遣いに覗き込んでくる。

 本当は桃姫さんの方が背が高いのに変な感じだ。

 「人間はどうやって想いを伝えるんですか?」

 そう尋ねると桃姫さんは俺の手に手を重ねてきた。

 「朝陽が昇る迄お互いの体温を与え合うの。」

 ああ、やはり人間はひ弱で非力な生き物だ。

 でも、その優しさが羨ましかった。

 「俺もしてぇな…。そんな恋愛…。」

 桃姫さんの頬が桃色からもっと紅く染まる。

 「出来るわよ。

 だって、大人なんでしょう?」

 桃姫さんの香りを肺の底まで深く吸い込む。

 全身で桃姫さんを感じてる気がした。

 「私も…桃太郎くんがす…」

 桃姫さんの綺麗な声に重なる様に俺のリュックから派手なベルの音が鳴り響いた。

 今度は桃太郎の怨霊ではないようだが酷く嫌な予感がした。

 「この音、何?」

 目を丸くする桃姫さんももっとも。

 俺は笑って誤魔化しながらリュックに手を入れた。

 取り出した携帯の画面には「菊魔」の文字。

 思いきり気分が顔に現れたが、もう一度笑って誤魔化しながら

 「DOMOCOってホントすげぇ電波良いっスよね!」

 と、通話ボタンを押した。

 あのまま拒否していたら何十件と秒置きに電話が来る。

 それ位こいつは恐ろしい。

 「もしもし…。」

 「もしもし?桃太郎?

 やっと地獄から還ってこられたわ。

 ホントマジ今回キツかったっつの!

 てかよぉオマエ、人間界にいるってマジ?今、父ちゃんから聞いてマジウケたんだけど!」

 声がデカイ!

 携帯から顔を少し離す。

 「マジだよ。

 別にイイじゃん。」

 「桃太郎の子孫をとっちめた?ブッ殺した?」

 声の主が下品にギャハハと笑い声を立てる。

 思わず、桃姫さんに目をやると、桃姫さんは頬を膨らませた。

 (ブッ殺すとか言うから!こいつ!)

 「しねぇし!俺は平和的に話し合って解決したの!」

 「は?オマエ、桃太郎って名前あんなに憎んでたのに怖気づいたのかよ!?」

 小馬鹿にした菊魔の鼻先での笑い声が又カチンと来る。

 「鬼倒の一族はスゲェ強ェんだ。

 俺、ここで修行させてもらう事にした!」

 俺の言葉に、桃色の耳の長いフワフワを抱き締めていた桃姫さんが花が咲いた様に笑った。

 そうだ。俺はここでお爺様に手合わせしてもらっていつか来るかもしれない刺客とやらから桃姫さんを守るんだ!

 「『キトー』の一族はツエェ?

 馬鹿じゃねーの?結局人間だろ?

 そんなの俺がやっつけてオマエを鬼ノ国に連れ帰ってやるよ!」

 「いや!オマエは来るな!」

 マズイ!菊魔が人間界に来る!

 「なんでそんな嫌がんだよ?俺がそっち行きゃ人間なんてイチコロよ。なぁ?そうだろ?冷たくすんなよ、兄弟。そっちでも暴れてやろうぜ?」

 菊魔は俺にとって疫病神以外の何者でもない! 

 「兎に角困る!オマエが来ると俺はロクな目に遭わねぇ!」

 「…ははぁ〜ん?

 女絡みだな?」

 ドキリとしながら桃姫さんを見詰める。

 桃姫さんを菊魔に会わせる訳にはいかない!

 俺がまだ保育園に通っていた頃、スゲェ好きになった雌鬼がいた。

 クルクルした髪の可愛い女子おなごだったが菊魔はその子の替えのパンツを盗んで俺の弁当箱の中に入れた。無論、それ以来俺は彼女から口を聞いてもらえなくなった。

 それ以降も好きな雌鬼が出来る度、女の子が嫌がる(俺への)嫌がらせを繰り返した。

 あいつは鬼のくせに悪魔だ。

 桃姫さんから嫌われたくない!!

 俺は必死に説得しようと試みたが鬼のくせに悪魔な菊魔は完全に人間界に来る事を決めた様だった。

 「桃姫さん!俺がアイツから桃姫さんを守ります!

 これから先、桃姫さんの身に良からぬ事が起こったらそれはあいつ…菊魔のせいだと思ってください!」

 俺は桃姫さんの柔らかくて温かい手を握り締めて誓った。

 「約束?」

 「約束!」

 頷く俺に、桃姫さんが何度も頷いてくれた。

 艶々した唇が美味しそうに誘っている。

 喉を鳴らしながらも辺りに「桃太郎」の遺品が無いか見回した。

 桃色の小物達しか見当たらなかった。

 俺は桃姫さんの唇目掛けて顔を近付けた。

 桃姫さんも瞼を閉じてくれた。

 俺は少しだけ口を開けて鬼歯を覗かせた。

 桃姫さんの長い睫毛が頬に触れそうだ。

 「こういう事だと思った…。」

 後、数cmと言うところでその声はした。

 二人揃って声の方へ顔を向けると黒豹の皮で作った小さすぎる乳バンドと短すぎるホットパンツを履いた褐色の肌にボサボサな燃えるような真っ赤な髪の菊魔がニヤリと笑って見せた。

 俺は今日何度目かの悲鳴を上げたが今日一番の大声だったのは間違いない。

 菊魔は六つに割れた腹の上にある大きな胸を揺らしながら、枷の付いた脚で俺を蹴り上げた。

 俺の身体は石コロみたいに簡単に飛ばされたが天井に足を付け、何とか地面に着地した。

 「女なんかにうつつをぬかしやがって鬼の風上にも置けねぇな!」

 「うるせー!桃姫さんは俺が守るからな!お前には手出しさせねぇぞ!」

 菊魔は背中に背負っていた鎖の付いた大きな金棒を地面に下ろすと「叩きのめす!」と喉を潰しながら呟いた。

 正直、菊魔に勝てる気はしなかった。

 菊魔は俺達同年代の中で一番強く狂暴だ。

 何度も地獄の懲罰房に入れられ、力を抑える為の足枷を填められたのだがその鎖を力任せに千切って今は枷だけが名残の様に付いている。

 とてもじゃないが俺には太刀打ち出来ない。

 桃姫さんを背中に回し、どうすべきか考えるしか俺には出来無かった。

 「桃姫、すまぬが次作品のコスチュームを着ては貰えぬだろうか?」

 ノックと共にお兄様の声がドア越しに聴こえた。

 これ以上守る者が増えたら俺では手の施しようが無い。お爺様に助けを借りるか…と一瞬過ったが返答を待たずとドアが開いた。

 菊魔はドア目掛けて金棒を突き立てようとしたがお兄様は軽々と手を上げて(幸いして細い為、届かなかったと言うところか。)回避するなり、菊魔に視線を送った。

 「某、新しい鬼の様でござるが鬼っ娘ならば黒豹ではなく小生は虎柄のビキニを所望致す。」

 菊魔は自分を見ても動揺すらしないお兄様に呆気に取られたのか身じろぎ一つしない。

 「後、夜は静かにお願い致す。

 小生の世界平和新しいステージの時間はこれからが本番故、何卒宜しくお頼み申す。

 ささ、桃姫、これに召し変える様何卒宜しく。」

 お兄様はそう言うと、手にしていたソレを広げた。

 ソレは虫取り網みたいだった。

 「やだぁ!何それ!もうお兄ちゃんの言いなりにならないって言ったでしょう?」

 「我儘を言うてはならぬ。桃姫には今迄散々勉強を見てやったでわないか。

 ささ、次作のSM女王がM奴隷を従えて異世界に転生する話の表紙を飾ってくれ給え。」

 「勉強って!何年前の話してるのよ!?もう散々モデルになったでしょう?私、学校で変な噂が立つ様になったんだから!もう本当にイヤ〜!!!!」

 「視覚に訴える為の桃姫表紙故〜そこは察して宜しく候。」

 ドアの前で押し問答を始める二人。

 多分、会話の内容はカラッポなんだろうけど、この服を着た桃姫さんは見たい…。

 急に菊魔がお兄様の手から虫取り網を取る。

 「俺はキライじゃないぜ?」

 菊魔の手から金棒が離れる。

 慌てて手にしたが余りの重さにそのままベッドに倒れ込んだ。

 上げた俺の目の前に菊魔の尻が飛び込んだ。

 全身を虫取り網が包んでいる。

 「コレでどうだ?」

 菊魔は腰を捻ってベッドに片足を上げて見せた。

 乳バンドとパンツの位置に黒革が施されている、が、菊魔の身に着けている物も黒なのでイマイチ良くは判らなかった。

 黒の艶々した衣類、というのは判ったが。

 虫取り網は乳バンドの上でゴチャゴチャとした華の刺繍がしてあった。(褒め言葉ではないが)菊魔に良く似合う。(個人的には桃姫さんに着て欲しかった!)

 「やんごとなき素晴らしさ…。

 何という事であろうか…我がイメージ通り…某は小生の救いのメシアでござろうか…。」

 お兄様がそう呟くと菊魔の勝気な眉頭がハの字になった。

 「めしあ…。」

 (飯…???)

 菊魔とは逆に眉間に皺を寄せる俺。

 自分に降りかかりそうになった災難が消え去って安心したのか桃姫さんもベッドの端に座って、

 「とってもお似合い!!

 私が着るより絶対良いし、イメージピッタリじゃないの!ね?お兄ちゃん!」

 と、手を叩いている。

 「もし、宜しければこのまま我が部屋にて撮影会等、致して頂けまいか?」

 お兄様がこんなに饒舌なのにも驚いたが、お兄様に褒められる度に、足でくねくねと「の」の字を書く一丁前に照れている菊魔に俺は驚いた。

 菊魔と言えば喧嘩ある処に菊魔あり!と言われる程いつも金棒片手に暴れ回っていた姿しか見た事なかったからだ。

 「それでは小生は先に撮影に必要な小物やカメラを準備してくる故、是非とも宜しく賜りたい。ペコリ。」

 お兄様がドアの向こうへ消えて行ったのを見守った菊魔が俺の首根っこに掴み掛かってきた。

 「やぁん!なぁに?あの人!!

 俺をスゲェ見詰めてたぞ?

 俺、男性からあんな風に言われたの初めてでどうしたら良いか判んねぇよう!

 しかも見た?あのスタイルの良さ!!

 背が高くてどこまでも細い!」

 確かにお兄様は細い。

 「鬼ノ国の雄は鍛えてナンボの筋肉馬鹿ばっかりだからスゲェ格好いい!!  

 しかも…俺を見詰めるあの瞳も…俺しか見詰める余裕の無い細い瞳…あのお方の瞳には俺しか映ってなかったぞ!!」

 菊魔に思い切り腕を叩かれ俺は床に顔を擦りつけた。    

 「俺…あのお人に頼まれたら…どんな格好でも悦んでやる…。」

 菊魔はウットリと眼を細めながらそう言うなり両手を胸の前で組んだ。

 「あの知的な喋り方。

 決めた!俺、あの人のモノになる!」

 (俺の事をなんだかんだ言いながらも)菊魔は夢現のように呟きながら身に付けていた鎖付きの金棒を投げ捨てた。

 「コレもう要らないや。

 オマエにもう少し体力が付いたらオマエにやるよ。」

 そんな勝手な事をかすと俺の意見も聞かず、菊魔は部屋のドアを開いた。

 「今日から別行動な、桃太郎!

 じゃあよ!」

 俺を追って人間界に来ておいて完全に俺を放置する事に決めたらしき菊魔は俺を置いてドアを後にした。(散々俺の邪魔しといて…。)

 床の上に残された重過ぎる鎖付きの金棒を見下ろしながら、ドッと疲れが押し寄せた。

 「菊魔のこれからと、この金棒、それと、本格的な手合わせをお爺様にお願いする事や、その間の俺の寝床を又明日改めてお話させてもらって構いませんか?」

 桃姫さんにそれだけ伝えると深々と頭を下げた。

 桃姫さんは身を屈めて俺に屈託なく微笑み掛ける。

 「本当に、鬼とお友達になれると思ってなかった。

 なれたら良いな、ってずっと思ってたから…私ちょっと嬉しいっ!」

 桃姫さんの笑顔はさっきまでの緊張が嘘の様に俺を和ませてくれた。

 

 (何でこうなったんだっけ?俺はいつも勢いで物事を決めちまう。人間界に来たのも勢いだった…。婆ちゃん…カレー煮込み続けてないと良いけど…。人間界に居座るなんて無謀過ぎただろうか…。)

 桃姫さんの柔らかな膨らみが背中に密着してなかなか寝付けない。

 俺が床で寝る、と言っても桃姫さんは「風邪をひいてはいけないから」と俺をベッドに招き入れた。

 「背中向けてね。」

 って言って桃姫さんは俺の背中に抱きついて寝るんだもんな…。蛇の生殺しとは良く言った。

 人間って奴はしたたかなのか、それとも桃太郎の一族の手腕か、どちらにせよ俺は「ホレタ弱み」というのを痛感するしか無かった。

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