第32話

 さすがに呼吸も乱れ、俺はようやく足を止めた。携帯の画面を開いてみると、もう事故まで残り三十分しかない。夢亜からの連絡も入っていない。もうそろそろ公園に戻ってくれている頃だろうか。

「俺もそろそろ戻らないと……」

 こうなったからには公園の前で愛奈が来るのを待つしかない。

 五分ほどかけて乱れた息を整え、公園に戻ろうとしたが、不意に未来の愛奈が残していた動画が引っかかった。

「そういやあの動画、事故の瞬間に誰か映ってたよな」

 最初に見たとき、一瞬過ぎて見えなかったこととゆっくり考える時間もなくて気にしなかったが、見たことあるような人物だったことは覚えてる。近所だから偶然通りかかった人でもおかしくはない。ただ、俺にそんな交流はない。高校の同級生とも関わりはほぼないし、一人暮らしでご近所付き合いもない。なら、あれはいったい誰だったのか。

 何が起こるか分からないからと保険をかけて持ってきていたことを思い出し、未来の愛奈の携帯を取り出す。

 動画を再生してシークバーを事故の瞬間まで移動させ、その人物が入り込んだ瞬間で停止させる。

 画面にその人物が移ったのが一瞬過ぎて画面が大きくブレている。それが誰なのかどこか性別すらも分からない。見て取れるのは、それが黒い服装の人間ということだけ。しかし、この人物の存在が不自然すぎる。激しい事故が起こったというのに、それを見届けるように立ち尽くしている。しかも、愛奈が轢かれた直後のカメラ移りこむほど至近距離にいうというのに、堂々とし佇まいに見える。警戒するに越したことはなさそうだ。

「夢亜にも報告しておくか」

 今度は通話履歴から一番上にある幼馴染の名前を選択する。時間に追われる今の状況ではこの時間すら惜しい。

 呼び出し音が何度も繰り返されじれったく思うが、次第それは不安へと変わる。

 夢亜だって時間のことは分かっているはずだ。俺とは連絡を取れるように待機してくれているはずだし、忘れてるなんてことはないはずだ。12時までには公園に戻ると言っていたし、そろそろ公園には戻りかけている頃だろう。

 なら、あり得るのはもうすでに何かが起こっている可能性。だがそんなはずはない。夢亜が残した動画の中に夢亜は出てこなかった。

 ただもし、それよりも先に夢亜に何かが起こっていたとしたら……?

 俺は頭を振って思考を打ち消した。

 不安でいつの間にか悪い方へ悪い方へと思考が寄っていた。

 冷静になれ、と自分に言い聞かせる。12時までは事故は起こらないのだから大丈夫なはずだ。そう言えば夢亜は学校に用があると言っていたし、学校に寄っている可能性もある。

「──学校?」

 夢亜は学校の制服を着ていた。画像の人物の服と制服の色は一致している。

「いや、さすがに偶然だろ」

 ならなぜ夢亜は愛奈が十二時に公園に来ると知っていた? 十二時頃に事故が起こることと、説明したが愛奈がいつ公園に来るかは説明していない。しかも、俺だってそのことは未来の愛奈の携帯に残された動画を見るまでは知らなかったことだ。

 停止させた動画の黒い人物をもう一度凝視すると、夢亜とは言い切れないがそう見えなくもない。

 思えば、俺が愛奈に協力し始めてから、夢亜はずっと俺の動向を気にしていた。いつもは気になったことがあっても口にはせず俺に任せてくれていたのだが、今回はやたらと何か隠してないかと問いただしてきた。もしそれが俺ではなく愛奈の動向を気にしていたのなら──

 愛奈と初めて水族館に行った時だって、帰りに夢亜のような人物を見かけたのも見間違いじゃなかったとしたら全てが腑に落ちる。

「何が最悪の事態は防げるだよ……これが一番最悪じゃねぇか!」

 愛奈が公園に来るよりも先に帰らないと。まだ今なら間に合う。早く公園に戻って夢亜を止める。それができれば愛奈の未来は変えられる。

 つまり神様の言っていた、愛奈を狙う人物というのは──夢亜。

「くそ! もっと早く気づいてたらこうはならなかったのに……!」

 今さら悔やんだところでどうすることもできない。だから今は本当に手遅れにならないことを祈るばかりだ。

「頼む。間に合ってくれ!」

 今日だけでこれまでの人生と同じくらい走ってるとか、そんなことは言ってられない。もし間に合わなければ俺は一生後悔することになる。この事件に愛奈が関係しているのなら、俺の未来にも大きく影響することになる。誰も得しない結末を受け入れていいはずがない。

 動かす足が重い。疲労を考えれば当然だが、肉体的な重さじゃない。早くいかないとという焦燥が、実際の速度以上に遅く感じさせているのだ。それなのに時間の進みは早く感じる。こんなことなら普段から体を動かしておくべきだった。

 俺にとっては数分後の未来で運命が変わるというのに、休日の街は平穏だ。天候の雲行きの怪しさがまるで俺だけの世界なのかと錯覚してしまう。

 ただのランニングとは思えないぐらい懸命な俺を見る周囲の目を集めながらただ駆け抜けた。

 お昼の十二時を告げるサイレンが鳴るよりも早く公園に到着することができた。途中で愛奈を見なかったのが不安ではあったが、公園の入り口にいないということはまだ大丈夫ということでいいだろう。

 残された時間は二分。それまでに夢亜を見つけるしかない。

 動画で夢亜がいた場所には誰もいない。どこだ。どこにいる。

 催しはないはずだが、土曜日ということで近所の商店街と公園を行きかう人は多い。その人ごみ一人ひとりを注視して夢亜を見逃さないようにする。

 公園に出入りする人、公園の前を通る人、ベンチで休憩している人、さらには通りかかる車の中。

 逸る気持ちを自制しながら、瞬くすら忘れて目を凝らす。

 そして──。

 湿気を含んだ生暖かい風が頬をなぶった。

 非常にも正午を告げるサイレンが鳴り響いた。

「くそっ、見つけられなかった……!」

 しかし、落ち込む暇もなく辺りの空気が豹変する。

 賑わっていた人々がざわめき、そろって一方向を見ていた。

 誘導されるように周囲の視線を追う。

「っ!!」

 公園の前を通る道の奥から、見たくなかった黒のミニバンがアクセル音を唸らせながら接近していた。

「赤崎は!?」

 女神の像の前に視線を戻すと、群衆の視線を縫うようにしていつの間にか愛奈が立っていた。あと数秒のうちにミニバンは愛奈に追突し、無残にも彼女は殺される。

 もう止められない。間に合わなかった。俺は、未来を変えられなかった。

 ──ごめん、赤崎。君を救えなかった……

 俺を信じて自分の未来を託してくれた愛奈に、俺は何と言えばいいのだろう。不安でしょうがないはずなのに、平然を装っていた彼女の姿がフラシュバックし罪悪感に苛まれる。けど、謝罪する機会すらもう与えられない。愛奈はもう、この世からいなくなってしまう。

 やり場のない感情を発散させるように俺は唇を噛みしめた。

 俺は一生この過ちを背負っていかなければならない。こんなことなら初めから愛奈に協力しなければよかった。柄にもないことをするんじゃなかった。

 今さら後悔しても遅すぎる。

 現実を受け入れるのがつらくて、顔を背けて俯いた。

 そのタイミングで一基のベンチが目に入った。初めて事故を目撃した前夜に、俺と愛奈が話した場所であり、事故を始めて目撃した場所。

『私はまだ死にたくない! 死にたくないの!』

 脳裏に愛奈の悲痛な叫びが聞こえてきた。

『死ぬのは怖い! 私はまだ生きたいの!』

 俺が初めて愛奈の運命を聞かされた時に彼女が発したセリフ。あのときの涙を滲ませた目と鬼気迫った表情は忘れられない。間違いなくあれが赤崎愛奈の本音であり、本心。

「あー、くそ!」

 なんで俺は諦めてるんだ。まだ愛奈は死んでいない。ここで諦めていたら本当に取り返しがつかなくなる。俺の一週間だって無駄になる。そんなことがあってたまるか。それが一番労力の無駄遣いだ。ここまで来ておいて最後の最後で投げ出すのは情けなさすぎる。

 再度ミニバンを見つめ、覚悟を決める。

「もうどうにでもなれええぇぇぇぇぇ!」

 叫びながら、俺は硬直してしまっている愛奈に向かって走りだした。

 突然上げた大声に、ミニバンを見ていた群衆たちが一斉に俺に視線を向ける。

 だが俺には愛奈しか見えていなかった。

 ──俺はどうなってもいい。だから、間に合ってくれ……!

 アクセル音でミニバンが近づいているのが背中越しに分かる。これは俺の人生をかけた、最初でおそらく最後の無茶。けれど恐怖はない。

 愛奈との距離が詰まる。同時に、倍以上の速さでミニバンが接近している。

 あと少し。だが、ここに来て身体が限界に来たのか足がもつれる。

 それでも意地で地面を踏みしめ、スローモーションに感じる足を進める。

「届けえええぇぇぇぇぇ!」

 最後の力を振り絞り、愛奈に向かって身を投げた。

 ミニバンが衝突した激しい音が、俺とぶつかったものなのか、あるいはそうでないのかの判別はつかなかった。体を地面に打ち付ける痛みに耐えるためにぎゅっと目を閉じる。

 身体が地を弾み、静寂が訪れる。

 ──俺は死んだのか……?

 何も聞こえず何も聞こえない。自分の身体感覚も今は感じない。ここが死後の世界というやつだろうか。

「なんで……?」

 自分の下から驚愕と困惑の混じった声が聞こえ、恐る恐る目を開く。

 俺の眼前には、目を瞠った愛奈がいた。

 すぐにはそれがどういうことなのか理解できなかったが、時間をかけて愛奈が無事だという事実を認識する。

「よかった……俺は未来を変えられたんだ……」

 心底安堵し喜びを噛みしめる。

 もう駄目だと思った。自分がやってきたことが無駄になると諦めかけた。でも結局諦めず、誰もいなくならなくていい最高の運命を勝ち取った。嬉しい以外の感情があるわけない。

「なんでそこまでして……」

「最初に言ったからな。君を助けるって……」

 ようやく愛奈も穏やかな表情になり、自分の生を実感するかのように目を閉じた。

 これで全てが終わった。短いようで長い一週間が最高の結末で幕を閉じた。明日からはまたいつも通りの日常に戻れる。

 俺だけじゃない。愛奈も本来の時間に戻り、これまで存在しなかった明日以降の日々を過ごしていく。愛奈は、救われたんだ。

「翔人!」

 忙しなく駆け付ける足音を伴って幼馴染の声が聞こえてきた。

「翔人、大丈夫!?」

「あ、あぁ……たぶん」

 起き上がろうと身体に力を入れると、全身に鋭い痛みが走った。自分から身を投げたのだから当然だ。だがいつの間にか受け身でも取っていたのか、動けないほどじゃない。

「ほら、無理しないで」

 悲痛な姿を見かねた夢亜が手を差し出してくれる。ありがたくその手を取って立ち上がる。

「赤崎は大丈夫か?」

「う、うん」

 俺とは違って怪我がなさそうな愛奈は自力でしっかり立ち上がった。

「本当に大丈夫そうでよかったぁ。翔人が車に飛び込んでいくのを見たときはびっくりしたんだからね?」

「悪い……」

「愛奈ちゃんは大丈夫? 見た感じ怪我はなさそうだけど」

 夢亜は愛奈に歩み寄り、本当に怪我がないかを近くから確認する。

「う、うん、私は大丈夫」

「そっかぁ。でもほんとにびっくりしたんだからね?」

 ──ぐしゃり。

 と耳を疑いたくなる音がはっきりと聞こえた。


「ほんとびっくり。まさか本当に愛奈ちゃんを助けちゃうなんて」


 見れば、夢亜が右手に握るナイフが愛奈の腹部を貫いていた──

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