運命と結末
第22話
「──あなたは誰ですか?」
血の気が引いていくのを感じた。
何かの冗談だと思いたい。俺をからかうためにだけの演技だと言ってほしい。
けれど愛奈の顔から表情は消えていて、俺を怯える仔犬のような目で見ていた。
決してからかっているわけではない。冗談を言って雰囲気を和ませようとしているものでもない。
──彼女は、本気だった。
「ちょっと待てよ、どういうことだよ」
「来ないで!」
強く拒絶され、俺は頭が真っ白になった。
自分の体を抱き寄せるように小刻みに震える彼女は、見た目こそ俺の知る赤崎愛奈だが、目の前にいたのは全くの別人だった。
この一週間、愛奈に振り回されてばかりの生活だった。普段の俺の生活からは離れて、愛奈を救うために行動した。
ステーキを食べる姿や、水族館ではしゃぐ姿を見ているだけで、いつの間にか俺にも楽しくなっていた。
だからこそ、愛奈のこの変貌ぶりが受け入れられなかった。
何も考えられなくなった俺は、その場に崩れ落ちた。
俺をおどおどを見下ろしていた愛奈だったが、すぐに「ごめんなさい!」と律儀に謝って家を飛び出していった。
しばらくは本当に何も考えられなかった
愛奈が飛び出して行ってから、どれだけ俺はこうしていたのだろう。
コンロに乗せたフライパンから、異常な焦げ臭さで俺は意識を取り戻した。
まだショックから体にうまく力が入れられず、体勢を崩して転びかける。すぐさま壁に手をついて体を支えるが、その際に腕がフライパンに当たり、痛覚を刺激する。
「あつっ」
ずっと熱せられ続けたフライパンの熱さに、反射的に手を引く能力すらまともに機能しない。
ゆっくりとした動作で水を流し、やけどした部分を冷やす。空いた片手でコンロのガスを止めた。
時間の経過とともに手の痛覚も復活し、周囲の状況がようやく理解でき始める。
視線をさまよわせると、見えたフライパンの中には黒焦げになったウインナーと目玉焼きが残っていた。
「どうしよう、これ……」
無残な姿と化したウインナーと目玉焼きはもう食べられそうにない。俺の流儀とは反するが、さすが捨てるしかなさそうだ。
やむを得ず、焦げ臭さの原因となったものの処理をして、フライパンを強くこすって洗っておく。
そこまでしてようやく、愛奈のことを考える余裕ができた。
「赤崎のやつ、急にどうしたんだ?」
こうなることは、日記を読んで分かっていた。だからこそ、もし俺が未来を変えることができているのなら、この事態は避けられると思っていた。事実、未来は少しだけだが変わっている。だから日記と同じことは繰り返さないと思っていた。
しかし、現実に起こったのは日記の通りの出来事。一応分かっていたとはいえ、愛奈から面と向かって「誰ですか」と聞かれたショックは大きかった。
それも今は落ち着き、冷静に思考を巡らせる。
人が一晩で記憶を喪失するなど、強い衝撃か精神的なショックがない限りあり得ない。昨日寝るまで普通だった。一体夜中の間に何があったのだろうか。
それを確認するために彼女に与えている部屋を見ると、特に気になるところはない。強いて言うなら布団がいつもよりきれいに敷かれていることぐらいだろうか。荒れている場所はなく、物理的な衝撃による記憶喪失ではなさそうだ。
だとしたらなんで愛奈はあんなことになってしまったのか。他に記憶を失う原因について考えてみるが、思い至る節はない。
「もう一度日記を読み返してみるか」
一旦に自室に戻り、愛奈の日記を開いてみることにした。
前向きに捉えるならこれは未来が変わっている証拠。だがしかし、どう考えたってこれは悪い方向へと変わってしまっている。俺はどこで間違えてしまったのか。
日記を手にして中を開く。
最初のページは昨日の俺に向けた内容だ。もう一枚ページをめくる。
私は失敗した。可能性が潰えたわけじゃないけれど、もし今の私もダメだった時のために日記をつけることにした。せめて過去の私に役立ちますように
4月21日
特に変化はないし、ヒントもない。まだ大丈夫。うん。
だから私はいつも通りに過ごすよ。
4月22日
今日は高いお肉を食べた。すごくおいしかった!
また食べたいなぁ……
事故のことは分からないままだけど、きっとどうにかなる。
4月23日
今日は水族館に行ってきた。
昨日テレビで見たイルカを見れてよかった。
すごくかわいかったし、お土産のキーホルダーもかわいい!
宝物にする!
そういえば私、何か大事なことをしようと思ってたはずなんだけど、なんだろ。
思い出せないってことは大事じゃないのかな?
分からない。
そうだ、未来を見ればいいんだ。そこで私が何をしてるかが分かれば思い出せるはず。
4月24日
あれ、ここはどこ……?
起きたら知らない家にいた。
知らない男の人もいたし、私はどうなってるの?
何も思い出せない。
大事なことの途中だった気もするけど、分からない。
何も何も、思い出せない。
4月25日
声が聞こえる。
誰の声かな……聴いたことある気がするけど、思い出せない。
それより私、何してるんだろ……
なんでここにいるんだろ……
何もわからないし、もういいよね。
4月26日
声が強くなる。頭が痛い。
直接頭の中に響くような声。
分からないけど私は知ってる。
けど、この声を聴いてると気分が悪くなる。
お願いだからやめて!
私に話しかけないで!
放っておいて!
4月27日
……思い出した。
私は、未来を変えるために来たんだ。私ひとりじゃ何もできないから、翔人くんに手伝ってもらって私の運命を変えようとしてた。どうしてそんな大事なことを忘れてたんだろ。
でも、ずっと聞こえてる声が誰なのかは思い出せないまま。
事故が起こるのはもう今日だ。私は自分を救えなかった。失敗した。
せっかく手伝ってもらっていたのに、ごめんなさい。
関係なかったあなたを巻き込んでしまってごめんなさい。
私はもうすぐ死ぬんだ。
自業自得だよね。
こんなだから失敗するんだ。
でも、まだ私にできることはある。
私が死んだとしても、せめて過去の私が救われるように。
もしこれが見れれば、過去の私は助かるかもしれない。
だから、ごめんなさい。
ありがとう。
もうこれ以上は迷惑かけないから。
P.S.
これは私の我儘だけど、一つだけお願いがあるの。
過去の私を水族館に連れて行って。
最初に学校で読んだときと内容に変化はない。俺が実際に経験した時間ともほとんど変わりはない。
つまり、俺はまだ事故を回避することができていないのだ。
唯一違うことといえば、未来に行ったこと。だが、それだけではまだ足りないのだ。
なら、その足りないものは何か。
それが分かれば苦労しないが、今俺にできることは愛奈を連れ戻すことだろう。愛奈を連れ戻し、ずっと家の中にいれば事故に遭うことはない。少なくとも今の俺に考えられる術はそれだけだった。
「時間がもったいないし、赤崎を探しに行くか」
家を出たのはよかったが、すぐに俺は後悔した。
愛奈が行きそうな場所に心当たりがまるでない。
こんなことなら愛奈の家の場所ぐらいは聞いておくべきだった、と悔やんでももう遅い。
今俺が分かる範囲で可能性のある場所を探すなら、事故現場の公園だ。事故の前日も彼女は公園のベンチで一人座っていた。
だが、公園につくとそこに愛奈はいなかった。
通学、通勤時間ということもあり、人は少ない。愛奈がいればすぐに見つけられるはずだが、見当たらないということはここには来ていないのだろう。
ならどこだ? 闇雲に愛奈の家を探すか?
そう考え始めた矢先、足元にイルカのキーホルダーが落ちていることに気づいた。
「これは……」
愛奈のもので間違いない。これがここに落ちているということは愛奈がここに来ていたということだ。
そして、イルカのキーホルダーでもう一か所、彼女の行き先に心当たりができた。
「水族館かっ!」
まだこの時間なら開館していない。もしいたのならすぐに見つけられるはずだ。だから開館する前に急ごうと、駅へ向かいかけたとき、背後から声をかけられた。
「あれ、翔人?」
名前を呼ばれ、反射的に持っているものを懐へ隠す。
その動作を夢亜は不審そうに見ていたが、イルカのキーホルダーは見つからなかったようだ。
「この時間にこんなところで何してるの?」
やはり不審そうに幼馴染の少女は首を傾げた。
「あー、えーっと、その、散歩だよ散歩」
「散歩? 翔人が……?」
言ってからしまった、と後悔する。
普段の俺なら絶対に朝散歩したりはしない。それくらいなら朝の時間のゆっくり家で過ごし、無駄な労力を使わないようにする。それを知っている夢亜だからこそ、今の発言が嘘だと簡単に見抜かれてしまう。
「体調は大丈夫なの?」
「ま、まぁおかげさまで」
「それはよかった」
本心から安心する幼馴染に隠し事をしていることに胸を痛むが、愛奈のことはこの時間で俺にしか分からないため仕方ない。こういうとき、時間旅行者という存在が厄介だと思う。
「あ、そういえばなんだけど、翔人、昨日誰かと一緒にいた?」
夢亜の質問に俺はぴくりと体を震わせた。
「昨日帰りが遅くなったんだけどさ、翔人の声が聞こえてきた気がしたんだよね。姿を見たわけじゃないけどね」
一瞬、愛奈といるところを見られたのかと思った。だが、夢亜に愛奈が見えるはずがない。夢亜が自分で言った通り、俺がいた気がした、というだけならごまかしようはある。
「別人じゃないか? 俺は昨日ずっと家にいたしさ」
「うーん、でも翔人のことだから、仮病でさぼってただけってのもあるんじゃないかなって思ったりしたんだけどなぁ」
これからは真面目に学校生活を送ることを考えます。はい。
「それなら別にそれでいいんだけどさぁ、あの声、誰だったんだろう……」
「声しか聞いてないんだろ? なら仕事帰りのサラリーマンとかじゃないの?」
「うーん、そうかなぁ……あ、もうこんな時間、あんまり長話してる時間もないし、それじゃ後でね! 翔人も学校遅れないようにしてよ!」
「あぁ」
走って公園を出ていく夢亜を見送って、俺は息をついた。
この場は何とか、妙に鋭い夢亜をごまかすことができた。学校に行くというようなニュアンスの発言をしてしまったが、今優先すべきは愛奈の方だ。
「うわ、急がないと」
時間を確認して夢亜と同じ反応を取ってしまった。
学校へ急ぐ時間ということは、同時に通勤ラッシュの時間でもある。
早くしなければ電車に乗れず、水族館の開館に間に合わなくなる。そうなれば夢亜を探すのも一苦労だ。
──ごめん、夢亜。
心の中で幼馴染に一言謝って、駅へ急いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます