第18話

 近くの水族館、といっても実際には徒歩圏内ではなく電車で十分ほどの距離にある。通勤・通学ラッシュを避ける時間を選び、九時の開館時間からは遅らせて十時に出発した。そのおかげか電車内は空いていて座ることもできた。

 住んでいる郊外から電車で揺られていると、人通りの多い街に出た。駅に到着して電車を降りると、オフィスビルが立ち並び、スーツを着たサラリーマンたちが歩いている。沿岸部の街のため、穏やかな潮風が近くの木の葉を揺らす。

 そこからさらに歩くこと十分。海に面した土地に魚とイルカの看板を見つけた。

「ここみたいだな」

 広い入口には平日ながらも入場券を買う列ができていてその大半は制服を着た学生の集団と二十歳前後のカップルだ。もしかしたら傍から見ると俺らのこともカップルに見えるのかな、と純粋な好奇心で思ったりもする。

 流れに沿って列の最後尾に並び、愛奈を横目で見やると、彼女は目を輝かせながら周囲をきょろきょろと見回していた。

「イルカ! ねぇイルカ見れる!?」

 入口上部にあるイルカがジャンプしているパネルを指さしながら、愛奈は小学生のようにはしゃぐ。

「えっと、イルカショーは……昼からみたいだな」

「見たい!」

「分かった分かった。じゃあそれまでは中を見学な」

「やった!」

 子供をあやすように愛奈に言い聞かせる。

「赤崎は水族館にはよく行ったりするのか?」

「行ったことない。今日が初めて」

「うん? じゃあなんでそんなイルカが好きなんだ?」

「それは小さいころに……あれ、なんでだっけ。なんかすごく大切な思い出があったような気がするんだけど、思い出せないわ……」

「なんだそりゃ。忘れるってことはそんな大したことじゃないんじゃないか?」

 人の記憶のメカニズムとして、記憶はまず短期記憶される。その中から、忘れていいものか、あるいは重要なものかを判断する。忘れていいものであれば忘れていくし、重要なものであれば長期記憶に移される。長期記憶に入る条件として、印象の強いものや重要だと認識したもの、そして反復して記憶したものがある。愛奈の言う通り大切な記憶なら長期記憶に格納されてそう簡単には忘れないはずだ。思い出を忘れてしまうということは、脳が忘れてもいい記憶だと判断するような内容だということだ。

 しかし愛奈は腑に落ちないようで、自分の髪をくるくるといじりながら真剣に考えこむ。

「そんなことはないと思うけど……私、物忘れが酷いのよね。歳かな?」

「人の記憶力のピークは18歳らしいぞ?」

「……何が言いたいの?」

「別に? 今のうちに思い出作っとかないとすぐに空っぽになるぞ」

 会話をしている間にも列は入口に近づき、五分ほどで入場券を買うことができた。ちょっと不服そうにしていた愛奈も中に入ればすっかり元気を取り戻していた。

「見て! 魚がいっぱいいる!」

「そりゃ、水族館だからな」。

 水族館自体の敷地が広いため、通路も広い。照明は薄暗く調整されているが、三百六十度見回せばあるいくつもの水槽の照明だけが明るく演出されている。そのおかげで自分たちが水中にいるような感覚になる。

その中で愛奈は中心にあるメインの水槽に駆け寄った。

「すごくきれい……!」

 大きな水槽の中にはサメやエイといった大型の生物と一緒に、サバやイワシといった小さな魚も一緒に入っている。中でもイワシは個体こそ小さいが、カーテンのように群れを成して行動し、照明がうろこで反射してきらきらと輝いていた。

 そこへ迫る大きなサメ。イワシたちはサメに道を譲りはするが、慌てて逃げ出す様子はない。サメの方もイワシを食べてしまうことはせず、イワシと共に優雅に泳ぐだけだ。

「なんでサメがお魚さんを食べないんだろ」

「それはですね、サメがお腹を空かせて魚を食べなくていいように餌をあげてるからですよ」

 俺と同じことを考えていたらしい愛奈の疑問に、背後から回答が得られて振り返る。

 立っていたのは、ウェットスーツを身にまとった、見た目二十代半ばの若いお姉さんだった。

「あ、私、ここのスタッフのあかねと言います。勝手に話に入っちゃってすみません。聞こえちゃったものでつい。あはは……」

 苦笑を浮かべながら水槽の前まで歩くと、水槽の上の方を指さした。

「ほら、見てください。ちょうど今から始まりますよ」

 水槽の上の陸地では飼育員がバケツを持ってきたところだった。その中のものを水中にばらまく。すると、気ままに泳いでいた魚たちがそれに向かって集まってくる。

「こうやって定期的に餌をあげることで、魚たちが死なないようにしながら、サメが小さな魚を食べないようにしてるんです」

「へぇーーー!」

 魚が群がる様子は、イワシの群れとはまた違った神秘さがあった。愛奈もガラスに張り付いてその様子に釘付けになっている。

 やがて投入された餌がなくなると、魚たちは解散してまたのんびりとマイペースに泳ぎ始める。

「それでもサメが魚たちを食べることはないんですか?」

「お兄さんいい質問ですね。もちろんありますよ。でもそれは仕方のないことなんです。本来、自然界の中は弱肉強食の厳しい世界です。だからこそ、イワシたちは群れで移動するって習性もありますし、ほかの生き物たちも自分の身を守るために対策しています。水族館では、そうした生き物の本来の性質を着てくれた人たちにに見てもらおうと演出してるんです」

「へぇ」

 これには俺も感嘆した。水族館で見るのは普段見れない海の生き物や魚を見ることで、自然の神秘に触れるという面が大きいと思うが、来場者をより楽しませるための水族館側の工夫というのは知らなかった。それを知ったうえでもう一度水槽を見ると、自然の凄さを意識してしまう。

 俺らからすればのんきに泳いでいるように見えても、自分たちの敵と同じ空間にいるイワシたちからすれば死活問題だろう。食べる側のサメにも、食べられる側のイワシにも彼らには彼らなりの生き方があって、自分が生き延びるために必死なのだ。それは俺ら人間だって同じことで、特に愛奈の今の状況とどこか似ている気がした。

 今も愛奈は水槽に張り付いて、目の前を通る魚を目で追っている。

 彼女も必死に今を生きている。一人でいるときは死の恐怖と戦っているのかな、などと考えるとすごく不憫に思えた。人という生き物も必ず死は訪れる。だからこそ俺は、与えられた時間を謳歌し、満足のいく過ごしをするのが一番大切だと思う。なのに、あと与えられた時間が四日というのはあまりに少なすぎる。せめてこの四日間は目一杯楽しんでほしい。

「わ、エイの顔ってこんな感じなのね! かわいい!」

 その俺の願いは今のところ叶っていそうだ。

「っと、私はこの後も仕事があるんで失礼しますね」

「あ、はい。ありがとうございました」

「この後もゆっくり楽しんでくださいね」

 終始笑顔を絶やすことなく、あかねと名乗ったスタッフは去っていった。

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