第4話

「昔、アースガルズの泉に時間を司る三人の女神がいた。長女ウルズは過去、次女ヴェルザンディは現在、三女スクルドは未来をそれぞれ司っていた。彼女らのことをノルンとも呼び、まとめて呼ぶ複数形はノルニルになる」

 午後の最後の授業を心半分で聞きながら俺は外の降りしきる雨を眺めていた。朝、家を出たときには晴れていたのだが、昼に近づくにつれて雲が出始めた。午後の授業が始まるころには雨が降り出して今も勢いよく雨が落ちている。

 この授業中、ずっと考えていたのは昨日少女から言われた言葉だ。

『明日は一日気を付けることね。よくないことが起きるわ』

 結果として、その言葉は現実になった。

 登校中、普段はおとなしい近所の犬に吠えられ、飛んでいた虫が口に入る。教室に入れば、鞄の紐が引っ掛かって机が倒れて凹んで今は代用の机を使用中だ。昼休みになっていつものごとく学食で昼食を摂ろうと思えば財布を忘れてしまい、唯一頼れる夢亜も今日はお金を持ってきていないとのこと。こういうときに人望の薄さがつらい。

 朝は少し寝坊してしまったがために朝食も摂れておらず、昼食も抜きで今授業を受けているわけだ。とにかく腹減った。さっきからずっと腹の虫がうるさい。頼むから静かにしてくれ。

「まさかほんとに当たるとはなぁ……」

 ただの捨て台詞だと思っていたことがここまで的中すると、さすがに信じざるを得ないだろう。時間旅行者の彼女は間違いなく未来を知っている。

「でもこれどうしろって言うんだよ」

 ここまで負の連鎖が続くということはきっと、何もしてもよくないほうへ転ぶのだろう。それが今日の俺の定められた運命だというのなら打つ手がない。

「おーい白瀬―、聞いてるかー?」

 二十代の若い短髪の男性教師が授業を止めて、あきれ顔で俺を見ていた。

「聞いてますよー」

「じゃあ今のところ最初から言ってみろ」

「聞いてませんでしたー」

「だったら最初から素直にそう言え」

「すんません」

「ちゃんと授業は聞いとけよ? こうして三女神は過去、現在、未来をそれぞれ司るようになった。現在われわれの世界の時間旅行が存在しているのも、ノルニルの加護があってこそのものだ。しっかり信仰するように」

 今日の最後の授業は世界史だ。今教師が語った内容は世界史ではなく神話だが、時間旅行が身近な存在にある以上は触れておかなければならない内容らしい。

「信仰するように、ねぇ……」

 宗教のような話に俺はうんざりしてまた視線を窓の外に向けた。

 なおも激しく振り続ける雨でグラウンドの水たまりに波紋が広がっている。人も少なく多くの生物もどこかで雨宿りをする中、カタツムリやカエルが嬉しそうに木に留まっている。

 淡々と進められていく授業をやはり俺は半分聞き流した。

 現在の風潮としてウルズ、ヴェルザンディ、スクルドの三女神を崇める傾向があるのは確かだ。時間旅行が現実になり、不可能だと考えられていた時間超越が誰でもできるようになったことで神話を崇拝するという安易な考えが俺には賛同できない。

「はぁ」

 また、お腹が鳴った。

 どうやら腹の虫も雨を喜んでいたようだ。


 空腹にじっと耐えているだけの授業はとても長く感じた。気持ちよさそうに眠っている奴らにとって同じ時間は短く感じるのだろう。相対性理論の存在と不憫さをこの時ばかりは強く認めた。というかなんで寝てる奴は何も言われないんだ。理不尽すぎる。

 ようやく授業終了のチャイムが鳴った時、空腹を耐え凌ぐことの精神的苦痛も相まって満身創痍だった。

「あ、ごめん、私このあと学校ですることあるから。先に帰ってて」

 授業が終わると同時に夢亜ゆめあはそう言い残して教室を出て行ってしまった。仕方なく俺はよれよれになりながら教科書とノートを鞄にしまい教室を後にした。

 校舎を出ると、雨は一時的に上がっていた。ただ空はまだ分厚い雲に覆われているため、いつ降り出すか分からない。だがようやく俺の『よくないこと』とやらも終わりを迎えたらしい。これでようやく元の生活に戻れる。

 と安心して学校の敷地を出た矢先、横の水たまりを勢いよく車が走り抜け、撥ね上げた水を全身に浴びる。

 気を抜いていただけに何が起こったのか分からず呆然と立ち尽くす。やがて制服に染みてきた水の冷たさを自覚して大きくため息をつく。

「まだ続くのか……」

 怒りや不満を通り越してあきれ果てた。

「制服びしょびしょだし、どうすんだよこれ……」

 髪や制服からはぽたぽたと水滴が垂れる。幸い今日は金曜日で明日の朝一でクリーニングを出しに行けば月曜までにはどうにかなる。しかし無駄な出費だ。制服一式をクリーニングとなれば高校生の懐事情を考えると十分すぎる痛手だ。

「はぁ」

 無意識のうちにまたため息が出た。

 濡れてしまったのはしょうがないと割り切り、いつもの通学路を歩き出したが、同じように下校途中の小学生や中学生からは嘲笑され、散歩をしていた地域住民からは不審げにみられる。

 横目で人目を確認しながらも夢亜と普段分かれる交差点までたどり着いた。ここまでこれば家まではあと少しだ。

いつの間にか雲の切れ目からは晴れ間が見えていて虹が鮮明に浮かび上がっていた。ずっと人目ばかりを気にしていたせいか空腹は紛れていた。

家に帰ればこの負の連鎖もさすがに終わるだろう。

 そう考えたのがまさにフラグとなり、今度は肩に何かが落ちてきた。

 嫌な予感に襲われながら恐る恐る見てみると、きれいに鳥の糞が付着していた。

 今日何度目か分からないため息が漏れる。

 もうここまで来ると、どちらにせよ明日に制服をクリーニングに出すからこのタイミングでよかったと、ポジティブに考えてしまう。なるほど、こうやって洗脳されていくわけか。

「あれって、昨日の?」

 苦労しながらも家の前まで帰ってくると、道端にナイフが落ちているのを見つけた。そのナイフが、昨日少女が落としたままにしていたものだと思い至までに時間はかからなかった。

「あいつ……」

 雨に濡れたナイフを拾い上げ、全体を眺めてみる。

 刃渡りが10センチ強で刃厚は1ミリほどの果物ナイフだ。調理に使用された形跡はなく新品同様だ。この状態からして、間違いなくこの時間に来てから買っただろう。

「どんだけ俺を殺したいんだよ……」

 ますます協力を断っておいてよかったと心から思う。

 少女を時間の狭間から救出してからの時間を考えると、このナイフは昨日の日中に購入したものだろう。そこまでして俺の死に拘る理由というのも逆に気になったりする。

 ナイフをどうしようか迷ったが、このまま放置するわけにもいかず、刃についた水滴を拭きとって鞄に入れた。

 とにかくこれで念願の食事にできる。と安心したのも束の間──

「最悪だ……」

 着替えを終わらせてから家の冷蔵庫を開いて俺は落胆した。

 そういえば昨日で冷蔵庫の中が空になっていたのを忘れていた。これでは夕食が何もできない。どうやらまだ俺の呪いは解けてはくれないらしい。

こんなことなら昨日商店街に行ったときに俺も買い物をしておくべきだった。いくら悔やんでも後の祭りだ。

「しかたない。買い物に行くか……」

 食事にありつけると思い込んでいただけにお預けを食らったのがつらすぎる。餌を出しておきながら待てを指示された犬の気持ちがよく分かった。もし将来犬を飼うことがあればじらしプレイはやめておこう……

 今度は財布を忘れないように三度確認してから家を出た。

 相変わらず商店街は賑わっていた。昨日来た時と大差はない。違いを言えば時間旅行に来ていた女子高生たちの姿がないことぐらいだろうか。

 この商店街はアーケードになっていて悪天候なんぞ関係ない。現在の時刻は十七時。陽が雲に隠れて薄暗くなっているが早めから照明が点けられているためすごく明るい。

 人の流れに沿っていつも通っている小さなスーパーへと目指す。

「しっかし、ほんとここには何でもあるな」

 通りの両端を交互に見やれば様々な店が入っている。服屋に靴屋、薬局や居酒屋、飲食店など、生活に必要なものは全てここに来れば揃う。間違いなく街の中心部はここだと言っていい。

 普段なら色んな店を眺めながら歩くだけでも楽しかったりするのだが、生憎今の俺にはそんな余裕はない。

 わき目もふらずにお目当てのスーパーへと歩を進める。

「えっ……?」

 やっとの思いでたどり着いたスーパーはシャッターが閉まっており、『本日臨時休業』の張り紙がしてあった。

何かの見間違いかと目をこすってみる。

 しかし書かれている文字は最初に読んだ通り『本日臨時休業』のままで、何より締め切られているシャッターが現実逃避を許してくれない。

「まじかよ。ここでもか」

 いじめだ。いじめとしか思えない。俺に恨みを持った誰かが悪意を持って根回ししているに違いない。そうでもなきゃ俺だけピンポイントで不幸にならない。

 けど、その誰かを恨む気分には到底慣れなった。そんな暇があるのなら一秒でも早く食事にありつきたい。

 その一心で俺はやむなく別のスーパーに向かったがそこでも、


『店主が体調不良につき、お休みさせていただきます』


「ふざけるなぁあああああああ!」

 思わず叫んでしまった。

 まさか食料がありふれているこの時代で飢え死にしそうになるとは思ってもみなかった。

「もういいか。今日はおとなしく外食にしよう……」

 妥協を決意した俺はたまたま前を歩いていたサラリーマンの入ったラーメン屋に入ることにした。

 俺はようやく約二十時間ぶり食事をすることができた。

 まさか注文したラーメンが運ばれ、普通に食べられることがどれだけ幸せなことかを思い知らされる日が来ようとは思いもしなかった。

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