約束の夏

小椋かおる

約束の夏

 頭上から降り注ぐ熱線のような日差しが、脳天をじりじりと焼く感覚にぎゅっと瞑っていた目を恐る恐る開く。

 詰めていた息を吐き出して、そろりと辺りを伺った。砂浜、波の音、晴天。ごくんと生唾を飲み下し、手元の時計を確認する。

 示されていた日付は、2020年7月4日。

 間違いないその日付に私は顔がほころぶのを抑えきれない。足元の砂に転ばないように気を付けながら、よろけつつ色んなことを思い返しながらひとまずコンビニへと向かう。今の自分の姿を確かめたい。

 焦る気持ちのせいもあってか、心臓がうるさいくらいに音を立てる。アスファルトから立ち上るような熱気も、今は気にしていられない。

 私は、どうしてもここに、帰ってきたかったのだ。




 過去へ戻るための研究をずっとしていた。

 そんな絵空事を考えても仕方ないだろうと笑われても良かった。私は、ただただ、その日に帰りたかっただけなのだ。

 大切な約束をしていた。それを反故にしてしまった。

 そればかりがずっと、ずっとずっと心の奥底に、まるで靴の中に入ってしまった小石のように引っかかっていて、気になって仕方ないのに取ることも出来なかった。

 過去に戻ることは、出来なかったから。




「……うん。うまく偽装出来てる」

 コンビニに入ってトイレの中に駆け込むと、鏡と向かいあって頬を撫でる。ちゃんと高校生の頃の私だ。触れれば張りのない肌の感触がして、これがまやかしであると教えてくれる。本当の意味で若返ったりしたわけではない。本当の、本来のこの時間に生きているはずの私はここには来ない。

 だから今、私はここに来られているのだ。

「時間、どうやって潰そうかな」

 約束の時間まではもう少しだけ時間がある。この辺りには何もないし、手持ちの現金なども心元ないから、時間をつぶすにも炎天下の中を歩き回りたくはない。

 会いたい。

 ただ、それだけの気持ちでここに来た。

 ずっと、ずっと、会いたかった。




 不意に空が暗くなったような気がして、慌てて顔を上げた。天気が崩れるとは聞いていなかったけれど、空がだんだんと暗くなっていく。私の気持ちに比例しているみたいに。


「千夏!」


 なつかしい声だった。いや、正しくは私が待ちわびていた声だった。


「徹くん」


 名が聞こえた方を振り返れば、息を切らせて自転車から降りた彼が目に入る。ああ、間違えていなかった。私は、このためにここに来た。


「待ったか?」


「ううん。全然」


 今日この日に、私は彼と待ち合わせをしていた。今日はこの海岸で花火大会が行われる日。いっしょに見ようと約束をしていた。けれど、私はあの日、ここに来ることは出来なかった。


「じゃあ、行こうか」


 彼が手を差し出してくれる。私は恐る恐るその手を取る。ぎゅっと握り返される。熱が、伝わってくる。心臓が先ほどとは比べ物にならないくらい、どきどきとうるさい。ああ、良かった。間に合った。




 空一面の花火を見た。私たちは二人いっしょに口を開けて夜空を見上げた。

 ただ、それだけの日だった。

 ただ、それだけが幸せだった。




「……ありがとう」


「うん?」


 帰り道、私を家の近くまで送ってくれた徹くんの背中に、私がそう呟くと彼が不思議そうに聞き返してくる。


「何が?」


「花火、楽しかったね」


「ああ。また行こうな」


 私はそれだけが幸せだった。それだけでもう、ここに帰ってきた意味を得られたと思えた。ああ、なんて幸せなんだろう。もう、ここで、





「……ご臨終です」


 医師がそう告げたのを合図に彼女の周りにいたスタッフたちがVR装置の諸々を片付け始める。最新のそれは脳を騙すことが出来るらしい。真実は映像を見た彼女にしか分からないのだから、本当のところは分からない。


「お疲れ様でした」


「いえ……」


 彼女は、千夏は俺の大切なひとだった。あの年は春先に世界的に流行したウイルスのせいで、いろんなものが自粛になった。東京オリンピックもそうだったし、勿論、地元の花火大会もだ。

 俺たちはそこにいっしょに行こうと約束をしていた。結果は叶わなかった。彼女が感染したのだ。病院での隔離を余儀なくされ、低年齢層では重篤化はしないと言われていたのだが呼吸器系統が弱かった彼女は生死の境をさまよった。夏を過ぎ、秋になってようやく元気に戻ってきた。

 けれど、彼女はいつもあの時のことを残念そうにつぶやいていた。

 俺はその願いを叶えたかった。どうにかして、叶えてやりたかった。記憶をゆがめてでも、それを叶えたのはエゴだっただろうか。だが、ああ、彼女のこの表情こそがすべてを物語っているのではないだろうか。


「……幸せそうな顔して」


 彼女はひどくしあわせそうな、眠ったような顔をしていた。もう二度と、目覚めることのない眠りの中で。

 枕元の時計を見るとカレンダーの日付が目に入る。

 2080年7月4日。

 今日はちょうどあの日から、六十年目だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

約束の夏 小椋かおる @kagarima

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ