第33話 里美のコンクール

 俺は信じられなかった。

 これを本当に里美が弾いているなんて。


 左手が車輪のように激しく回転し、右手は車両のように右往左往とどんどん前へ進んでいく。


 アルカン 練習曲 《鉄道》


 鉄のぶつかる音、汽笛、車窓からの風景、最後に駅に停車するシーンまで鮮やかに表現されているこの曲。


 アルカンの中では比較的簡単と言われることもあるが、この曲はプロのピアニストでも完璧に弾き切ることが難しい。


「これを里美が……」


 ……嘘だ。あり得ない……。だってついこの間まで同じレベルでずっとやってきたじゃないか……。


 その演奏には以前のような自由奔放さが全くなかった。

 楽譜通りの正確な演奏、そして観客の心を惹きつけるかのような叙情的な響き。

 何もかもが俺にないものばかりだ。


 彼女は鉄道に乗って遠く離れてしまう。

 自分はどれだけあがいても追いつけない、もうその段階まで進んでいた。


 ……里美、何で俺をおいていくんだよ……。




◇◇◇◇◇




「おめでとう! 中学生の頃とは比べものにならないくらい本当に成長したわ」


「ありがとうママ。これも私のために一生懸命教えてくれたママのおかげだよ」


「あら、ずいぶん褒め上手になっちゃって。それで? 本戦はいつあるの?」


「1週間後。また練習付き合ってくれる?」


「もちろんよ。早速今からやりましょう」


「うん!」


 ちょっと前までは俺を心配してくれたのに、今はその様子もない。俺を忘れてしまうほどコンクールに没頭しているんだろうか。


「んで、あんたはどうしたわけ?」


「体の調子が悪いんだ」


「はい、そういうは嘘いらない。本当に悪いのは心の調子でしょ?」


「はぁ」


「お、図星? うーん、その顔は『リミに置いていかれて悲しい』だねえ」


「何で顔でわかんだよ」


「え、これも当たり⁉︎ 私天才じゃない?」


「うるさい。余計に体調悪くなった」


「そんなに拗ねないでよ。あんたがすごく頑張ってること、私は知ってるんだからさ」


「頑張っても結果が出なきゃ意味ねえよ」


 そもそもコンクールすら出させてもらえない人間が何を言ってるんだろう。

 練習しなきゃいけない、練習しなきゃ先生に認められることすらないってわかってるのに体は動かない。


 ……もうやる気なくなってるのかな。今日の演奏を聴いてどれだけ頑張っても無駄だって自覚したのかな。

 一緒にコンクール出ようって言ったのに……。


「ほーら、落ち込むんじゃない!」


 エマは俺のほっぺをつついた。


「今度パーティー開いてあげるから元気出しなさいよ」


「何の」


「はー? あんたのパーティーに決まってるでしょうが。再来週誕生日なの忘れた?」


「そういえば……。エマ、よく覚えてたな」


「そりゃ、幼なじみの誕生日なんて忘れたりしないわよ」


 ……俺はエマの誕生日覚えてないけど……。


「場所はあんたの家ね。里美呼んであるから、ちゃんと仲直りすんのよ」


「仲直りって……喧嘩してるわけじゃないんだが」


「じゃあ会議? まあ何でもいいわ。とにかく里美と本音で話し合って」


 デートに行った日の夜は人が変わったかのように甘えてきたエマ。今日の彼女もやけに親切だ。


「最近のエマは変だよな。こんな俺に構ってさ」


「別に私はあんたに後悔してほしくないだけ。このままだと私みたいに本命に逃げられて、別の人を好……」


「す?」


「何でもない」


 エマはそれから何も言わなくなった。


 多分、俺は今の言葉で彼女の言いたいことがなんとなくわかった。でもそれを俺から口にしてはいけない。

 だから俺も彼女に合わせて何も言わなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る