第32話 今日だけだから
「ほーら。着いたよ」
エマは俺の肩をさする。
「どこだよここは」
「パリのコンサートホール。あんたに本物の音楽を教えてあげる」
「本物の音楽って……」
「ほらチケット。本場のオーケストラを聴けば少しはやる気も出るでしょ」
俺の手に1枚の紙が握らされる。
エマはお節介なことにも、オーケストラのチケットを買ってくれていた。
もしかしたらエマは気落ちしていた俺を励ますためにデートに誘ってくれたのかもしれない。
「チケット代はいくらだ?」
「別にいいわよ」
「いや、男としてのプライドが傷つくから」
「私も歳上としてのプライドが傷つくんだけど?」
エマは引かない。そのあとも何度か押し問答をしていると、
「2人のチケット代払ったの父さんだからな?」
おじさんに割り込まれ、バトルはすぐ終了した。
……なら最初からそう言えよ。
「じゃあ父さん、帰るときまた連絡するから」
「はいよ。楽しんでおいで」
おじさんも来るのかと思えば、あっさり行ってしまう。本当にエマと2人きりのデートになってしまった。
「よし行くよ」
エマは細く柔らかな手で一回り大きい俺の手を握ってくる。
「離せよ。これじゃ恋人繋ぎだろ」
「この方が手っ取り早くていいでしょう? 別に里美も見てないんだし」
「俺が嫌なんだよ」
するとエマは、
「ちぇっ、いつまでも一途なんだから」
ふてくされた口調で言った。
チャイコフスキー
《ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調》
ピアノの重い和音の響き。そのあと主題のヴァイオリンとチェロ、伴奏のピアノという形で登場する。
俺はピアノの音に注目した。
それは温かくて優しい見栄のない音。
感動させようとか自分の音楽を見せつけてやろうとか、そういう卑しい気持ちがない。
奏者は純粋にピアノを楽しんでいた。
……なんて美しいんだ。俺のピアノとはまるで違う。これがプロのピアニストか……。
ピアノのその心震わせる響きに合わせてオーケストラもバランスの取れた滑らかな響きになる。
まるでピアノが先導しているかのようだ。
それから曲は力強く発展する。
第1楽章、終盤のカデンツァでのピアノはバレエを踊るような心地良い、かつ繊細な表現で一気に主役へと駆け上がった。
……そうか。里美はこの音楽を聴いてきたんだ、この音楽の中で戦ってきたんだ。
今ならわかる。なぜ先生が里美を選び、俺を落としたのか。
それは聴いてきた音楽の違いだ。
本物の音楽はここにある。
◇◇◇◇◇
「やっぱクラシックは最高ね。子守唄に」
「お前寝てたのか⁉︎ あんな感動的な演奏を⁉︎」
「だって私、音楽に興味ないし」
「それでよく『本物の音楽を……』なんて言えたな」
そう、エマはあれほどすごい親を持ちながら音楽に興味がない。もったいない話だ。
まああったとしても里美の才能に圧倒されてやめていたと思うけど。
「お腹空いたしどっかお店入ろうよ」
「いや帰る」
「帰るって、今はデート中でしょうが」
「練習して早く先生に認めてもらわないと……」
……このままじゃだめだ。俺も1から音楽を勉強し直して、里美に追いつきたい。
「何だ、やっぱりピアノ好きなんじゃん」
それからまもなくして、おじさんの車が到着し俺たちは帰ることとなった。
「今日、家に泊めてよ」
「は? 何でだよ」
「里美がいると、夜通しずっと練習してるから眠れないの」
「エマが来たら今度は俺が眠れなくなるだろ」
「お願い、練習の邪魔はしないから」
エマは軽い気持ちで言っているのかと思っていたけど、その重く沈んだ声はそんな空気を
感じさせなかった。
「……わかったよ」
そのまま強引に帰らすのも何か可愛そうだからという理由で了承すると、
「やったー! 純の家ゲットー!」
こいつは態度を180度変えて喜びやがった。
……くそっ、オーケーしなきゃよかった!
「すごい広い家! しかも内装めっちゃ綺麗! これ本当にあんたの家なの⁉︎」
「まあ」
「え、家賃とかはどうしてんの? 折半?」
「いや、俺が全部払ってる」
「嘘っ、あんた金持ち?」
「事故の損害賠償でもらった金があるだけだよ。田舎だからそんなに高くもなかったし」
へえ、と驚くエマ。
……まあ18歳が異国で恋人と家借りて住むなんてあんまりないだろうな。
「こんな家に好きな人と住めて里美も幸せ者だな……」
エマは小さくそう呟いた。
「じゃあ俺は2階で練習するから」
「私も行く」
「邪魔しないって言ったよな?」
「見るだけならいいでしょ」
彼女にそう押し切られ、仕方なくピアノのある部屋に入れることになった。
「あんたのピアノ弾く姿、久しぶりに見た」
「そうかもな」
「私も昔はよくこうしてあんたたちと……」
そこで言葉が止まる。
思い返せば、俺はいつも里美と一緒に練習していた。だけどエマはそれを眺めるだけで輪には入らなかった。いや違う、輪に入れなかったんだ。
そんな彼女がこんなにお喋りになるとは。
「どうしてエマはそんなに変われたんだ?」
「それ、長くなるけどいい?」
「構わん」
そう、と彼女は返事をして話し始めた。
「私ね、高校に入ってから恋をしたの」
……へえ、エマが。
「同じ学年の男でね。イケメンで優しくて……ずっとそいつとどうやったら付き合えるか考えた」
「でも昔のエマは全く喋れなかっただろ」
「そう。だから結局、片思いのまま何年も過ぎちゃったのよね」
「もったいない話だな」
「でもね、私、どうしても気持ちを伝えたくて、卒業式の日に一生分の勇気を振り絞って告った。そしたらね、なんとオーケイしてくれたのよ!」
エマは嬉しそうに言う。
「それからはなんかこう、心がパーっと晴れちゃって、気付いたら喋れるようになってたのよね」
……そっか、そうだったのか。俺や里美にもあったようにエマにも青春があったんだ。
「それで? 今、その彼氏とはどうなんだ?」
俺はそのあとすぐ、その言葉が失言だって気付いた。
「1ヶ月前に別れたわよ。浮気されてね」
「え……」
さっきまでの声色が嘘のように暗くなる。
「ずっとそばにいた人に裏切られて本当に辛かった。もう一生、男とは関わらないって思った」
確かに俺も、里美に突然浮気でもされたらそう思うかもしれない。
「……でも私もバカよね。彼に甘えすぎて、人肌に触れてないと寂しい人間になるなんて」
それは感傷的な声だった。
もしかしてその失恋を引きずっていたから俺へ良くしてくれたのだろうか。でも俺には里美がいる。俺にはエマの傷を塞ぐことはできない……。
「俺は……」
「さて、腹も減ったし飯でも食べようか」
彼女は急に話題を変えて平静を演じる。だけど、その声色が明るくなることはなかった。
◇◇◇◇◇
「そんなに酔っ払って……。みっともなくないのか?」
「うるさい! というか何で純は飲まないの⁉︎」
「いやだってまだ18だし」
「この国は16から飲めるの知ってるでしょ⁉︎」
「だとしても俺は20歳になってから飲みたい」
「そういう真面目なとこ嫌い! 私、もう寝るから!」
エマは何本飲んだのか知らないけど、かなり酔っ払っていた。そしてなぜか知らないけど、酔っ払うと喋り方が里美そっくりになる。
「おい、エマ?」
彼女は足音を立てて部屋を出てしまった。
仕方なく跡を辿ると、
「寝たのか」
寝室と思われる部屋で彼女は寝息を立てていた。
……男の家でこんな無防備でいられるのも、俺を信頼してるってことなのか。
まあいい。これでピアノの練習に集中できる。
「今日はありがとな、コンサートに連れて行ってくれて。またピアノ、頑張れそうだよ」
どうせ寝ているから意味がないけど、一応礼は言っておこう。
「待って」
……何だ、起きてたのか。
「……私、ぬいぐるみがないと寝れない」
「そういやそうだったな」
エマは人見知りなのに寂しがり屋で、昔はよく1人でぬいぐるみとおままごとをしていたのを覚えている。寝るときもぬいぐるみを抱きしめていないと眠れないほどだった。
「でもうちにはぬいぐるみなんてないぞ」
「来て」
エマは優しい口調で言った。
指示通りエマの声のする方へ近づくと、いきなり彼女は蛇のように俺の体に巻きついてきた。
「何すんだよ!」
「私のぬいぐるみになって」
「は?」
彼女の吐息が口元に当たる。おまけに里美よりワンサイズ大きい胸が当たった。
俺は里美への想いがあるからこそ理性を保てているけど、並の男なら正気を失っているだろう。
「やめてくれ、俺にその気はない」
「お願い、5分だけでいいから」
元彼を思い出したのだろうか、その声は寂しげに震えていた。
……エマに辛い記憶を思い出させたのは俺だ。里美以外の女性に触れられるのは嫌だけど責任は取らないとダメか。
「わかったよ。5分だけだからな」
「うん、ありがとう」
そのあと、彼女は満足したのか、5分もしないうちに眠りに落ちた。
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