第30話 こんなはずじゃ……

「何でコンクールに出ちゃいけないんですか⁉︎」


「あなた、今の状態に満足してるでしょう」


「え……?」


「あの子と付き合えて、あの子と弾けて、もうそれだけで満足してる。コンクールに出たいっていうのもあの子と作る思い出のひとつに過ぎないんでしょう?」


 満足して何が悪い。コンクールを思い出にして何が悪い。

 俺は里美とピアノを弾くためにここまで来たんだ。


「音楽の世界を甘く見ているわ。あなたのようなお遊びで来る子に開かれている道なんてないの」


 ……遊びだって……? 俺はいつも本気でやってきた。辛いことも乗り越えてきた。俺の努力も知らないくせに好き勝手言うんじゃねえよ!


「もういいです!」


 俺は壁を伝って部屋を出た。


「あれ、純くんどうしたの?」


「里美、帰るぞ」


「え、ちょっと待って」


「待たない!」


「だってそっちは……」


 ゴンと何かに衝突する音。俺もタイミングを同じくして小さな悲鳴をもらす。

 どうやら俺は固い壁のようなものに頭をぶつけたようだ。


「その頭に血が上ると1人で歩き出す癖、危なっかしいからやめてよ。見てるこっちも痛くなるから」


「うるさい……」


 正直、泣きそうだった。それは痛くてではなく、コンクールに出れない事に対する憤り。

 高校時代、あんなに色々な障害を乗り越えて頑張って来たのに、それをあんな一瞬で否定された。悔しい。先生に反駁の一つもできずに逃げ出してしまったこともさらにこの悔しさを助長した。


「里美もレッスンよ。来なさい」


「でも……うん」


 俺を少し気にかける様子はあったけど結局行ってしまった。



「ほら、絆創膏貼るから動かないで」


「うん……」


 あのあと、音を聞いて慌てて駆けつけたエマが手当をしてくれることになった。


「ふーん、母さんにダメって言われたんだ」


「ああ」


「あんたもまだ子供だね。1回コンクール出られないくらいで落ち込むなんて。人生はもっと広い目で見なきゃ損するよ?」


「無理。俺にはピアノしかないんだ」


 俺はみんなみたいにスポーツをしたり、ゲームで遊んだりしてこなかった。5年のブランクはあったにしろ、ずっとピアノを弾いてきた。そんな俺からコンクールを取り上げたら一体自分には何が残るんだろう。


「あんた、里美の前でもそんな女々しいわけ?」


「そんなわけない」


「じゃあ私の前だけなんだ」


「まあ……。別にエマにならどう思われてもいいし」


「そう……」


 そのときタイムラグが起きたかのように、エマの反応は若干遅れた。

 俺は何かおかしなことを言ったのか、と思っていると、


「本当にどう思われてもいいのね?」


 エマはなぜか嬉しそうにそう言った。




◇◇◇◇◇




「今日はありがとうね、ママ。また次回もよろしくお願いします」


「はい、また待ってるわ」


 俺は先に先生の家を出て、歩き出す。


「どうしたの? そんな子供みたいに顔膨らませちゃって」


「別に」


「嘘つかないの。純くんの嘘はわかりやすいんだから」


 こういうときの里美はしつこい。

 隠すのも面倒だから話すことにした。


「コンクール、ダメって言われたんだよ」


「え、嘘……」


「やっぱ俺たち、もっと練習しなきゃダメなのか?」


 里美はそれから喋らなくなった。


「どうした、急に黙って。そういや里美は何て言われたんだよ」


「私は……」里美は言いづらそうに何度も言葉をつっかえて、「出ていいよって言われた……」


「は?」


 頭が混乱した。

 ……何で俺がダメで、里美はオッケーなんだ? 俺はお遊びで、里美は真剣なのか?

 

 先生は俺は現状に満足しているからダメだと言った。……じゃあ何だ、里美は俺との現状に満足してないってことなのか?


 それから俺は彼女に対し疑心を抱くようになった。




◇◇◇◇◇




「ちょっと行ってくる」


「行くってどこに⁉︎」


「散歩だよ散歩」


「散歩なら私も!」


「里美はコンクールがあるんだろ。練習しとけ」


「でも1人じゃ……」


「しつこいな! 今日はこれを持っていくからいいんだよ!」


 俺が見せたのは白杖。


 正直、使いたくはなかったけど仕方ない。

 俺にはどうして行かないといけない場所があった。里美には内緒で。


「ついてくるなよ」


 念を押すように言って歩き出す。

 彼女は待って、と俺の腕を掴んできたが、すぐ振り払った。


「純くん。さあ乗って」


 村を出たであろう場所で俺を待っていたのは里美の父親。


 ときどき里美と散歩して、ある程度この村の道を把握していたため、比較的すぐ待ち合わせの場所に到着できた。


「すみません、こんなお願いをして」


「いいんだいいんだ。若いうちは冒険しなさい」


 こんな無茶なお願いをしても怒らないのは、さすがおじさんなだけある。


「どのくらいで着きますか?」


「1時間くらいだね。暇だろうし寝てていいよ。着いたら起こすから」


「ありがとうございます」


「優勝できるといいね」


 あれから俺はコンクールに出ることにした。この前、エリアーヌ先生にダメと言われたばかりだけど、結果を出せば前言撤回するはず。

 俺はおじさんの協力のもと、受付ギリギリのコンクールに何とか飛び入り参加できた。


「私も見てるから頑張って」


「はい」


 どんな結果でも里美や先生は怒るだろう。でもここで俺が本気であることを証明しなければ、里美に置いて行かれてしまう、そんな気がした。


「26番さん、準備お願いします」


「はい」


 俺は案内人に連れられてピアノ椅子まで移動する。そして礼をして座った。

 海外での初コンクールということで俺の中には緊張の二文字が浮き上がってきたけど、ピアノ椅子に座ってしまえばそんなの関係ない。

 

 軽く鼻から息を吸って、俺は弾き始めた。




 ショパン《幻想即興曲》



 難易度は中級から上級といったところか。


 この曲はリズムが難しい。左手が三つの音符を弾くうち、右手が四つの音符を刻む。その早いリズムが最初からほぼずっと続く。


 途中、曲の雰囲気が変わり、落ち着いたメロディーになる。そこをどこまで優しく弾けるかがまた難しいところだ。


 だけど今日は調子が良い。手はよく動いているし、ここまでミスらしいミスもない。



 曲は後半に突入した。

 俺はルバートを使って114小節目から117小節目を弾いていく。

 ルバート、というのはショパンらしい演奏をするためにテンポを速めたり緩めたりする弾き方だ。


 118小節目からはテンポをキープ。119小節目からはこの曲最後の盛り上がりを見せる。


「ブラボー!」


 ……弾けた。自分の弾きたいように弾けた。やっぱり俺はここに来て正解だった。これなら先生も……。


「それでは予選通過者を発表いたします。読み上げられた方は壇上までお越しください」


 ざわざわとした喧騒に満ちていたこの空間は、一瞬で静まり返った。

 辺りには緊迫した空気が流れる。


 参加者50人中10人が予選を通過。そうすれば本戦へと進むことができる。


 俺の番号は26番。自分の番号が呼ばれるよう、祈るように手を合わせた。


「予選通過者は」


 審査員はマイク越しに発表した。


「5番、12番、24番、25番、36番……」


「え……?」


 ……嘘だ。

 何かの聞き間違いだと思った。だってあそこまで完璧な演奏をして落ちるわけが……。


「以上10名が予選通過者となります。落選された方は残念ですが、また次のコンクールでのご活躍をお祈りしています」


 周囲の喜びに満ちた声、悲しみに満ちた声。片方は壇上へと向かい、もう片方はこの部屋を去っていく。

 俺はその場に取り残されて、ようやく自分が落選者側の人間だということに気付いた。


「私はあの演奏、好きだったな」


「ありがとうございます……」


「諦めなければ次、いけるよ」


 帰り道、おじさんは落ち込む俺を励まそうと何度か声をかけてくれた。でも今はそのどれもが皮肉にしか聞こえない。

 

 ……こんだけおじさんに色々してもらったのに結果が出せないなんて、最低だ俺。


「また何かあったらいつでも呼んでくれていいから」


 おじさんはそう言って帰っていく。

 

 俺は魂の抜けるような深いため息を吐いた。いっそ、このまま魂が抜けてしまえばいいのにって思う。


「遅いよ! 何時間散歩してたの⁉︎」


 家に向かって歩いていると、里美がご立腹な様子でわざわざ外まで出迎えに来ていた。


「いいだろ別に」


「本当はどこか行ってたんでしょ。何で私には内緒にするの?」


「うるせえな! ほっとけよ!」


「もしかして私だけコンクールをオーケーされたから……?」


 俺は答えない。


「なら私辞退する! 一緒にコンクールに出たいもん!」


 里美は全く躊躇もなく言った。


「そういうのが嫌なんだよ!」


 簡単に自分を犠牲にしようとして。

 そうやってすぐ勝手に決めて。


 俺の気持ちなんて全然わかってくれない。


「もう話しかけないでくれ」


 俺は部屋に戻って布団をかぶる。

 

 ……何でこうなったんだろう。



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