第29話 里美の家族へご挨拶
金縛りにあったかのように体が動かない。俺の背には刃物で撫でられているかのような恐ろしい戦慄が走った。全身からは汗が吹き出し、心臓の音が通常より速い速度で聞こえてくる。
「顔色が良くないようだけど、大丈夫かしら?」
「多分、問題ありません……」
「そう? でも心配だから薬持ってくるわね」
「すみません、エリアーヌ先生」
「いやーね。昔みたいにおばさん、でいいのよ?」
「いえ、エリアーヌ先生と呼ばせてくださいっ……!」
里美の母親、エリアーヌ先生。今日から俺と里美の講師になる。
そんなエリアーヌ先生はかつて、俺のピアノを全否定した。だから今日も何か言われるんじゃないかと俺の体は過剰反応している。
……そもそも何で俺たちを招き入れた? 俺を暗殺するためか?
「日本なんて遠い島国から来たんだから、今日はゆっくりしていくといいわ」
「は、はぁ……」
「薬と一緒に料理も用意したから召し上がって」
椅子まで案内され、テーブルの前まで座る。
正直、この間にも刺されるんじゃないかと思った。薬や料理に毒が入ってる可能性だってある。
「里美、俺の目の前にあるものは本当に食べ物か?」
俺は隣に座っているだろう里美にこっそり訊く。
「美味しそうなビスクだよ。もしかしてまだ気にしてる? ママ、別に怒ってないよ?」
「そうか……。いやでも里美は先生に操られていて、俺を油断させようとしている可能性も……」
「うん、バカなの?」
冷たい声で言われた。それはむしろ蔑視の域まで達している。
どうやら里美は嘘をついていないみたいだ。
「それにしても里美が帰ってきてくれて良かったわ」
エリアーヌ先生は俺の後ろで話す。
「里美が1人で日本の高校に行くって言い出したときはどうなるかと思った」
「別に純くんいるんだし大丈夫なのに」
「だとしても女の子の一人暮らしなんて、聞いただけで貧血になるわよ」
「大げさなんだから。……でもまあこうしてまたママの顔が見れて嬉しいよ」
「私も里美の元気そうな姿が見れて嬉しいわ。彼を推薦した甲斐があった」
「え?」
思わず声が出てしまった。
「どうしたの?」
「あ、いや……」
……もしかしてエリアーヌ先生、自分の娘を帰国させるためだけに俺を推薦したのか? 俺はおまけだったのか……?
「でもまさか、里美が彼と付き合ってるなんて驚いたわ」
「何で?」
「だってあんな酷い別れ方して、普通許してくれるわけないじゃない」
「確かにね。ママ、ずっと気に病んでたもんね」
「そうなの。今回私が推薦したのも、きちんとあなたに謝りたかったからなのよ」
……何だ。そういうことだったのか。なら最初からそう言えばいいのに。
「本当にごめんなさいね。私たち親子のせいであなたは目も家族も……」
「もういいんですよ。今の俺があるのは先生と里美のおかげですから」
結果的に俺は里美と付き合うことができた。こうしてフランスにも来れた。責める理由なんてないさ。
「ということでママ、純くんを私にください。必ず幸せにします」
「おい、それ俺のセリフだから」
エリアーヌ先生はそれを聞いて上品な笑い方をしたのち、
「彼が私を驚かせるような演奏をしたら考えてあげるわ」
そう言った。
……それ、相当難易度高いんじゃ……。
しかしまあエリアーヌ先生に憎まれていないことがわかって安心した。
気が楽になったからか、俺の体は空腹を伝えていた。
俺は手元のスプーンを取って、12時の方向にあるであろうビスクを食す。
◇◇◇◇◇
「よーっす。2人ともこっち来てたんだ」
食事を終えるか否か、というところで正面から砕けた口調に高い女の声。
何やら俺たちを知っているようだが、その声に全く聞き覚えはない。
「誰だお前」
「やだなー忘れたの?」
「忘れたも何も俺はお前を知らない」
「あんた、少し見ない間にずいぶん口悪くなっちゃったね」
「うるさい。というか誰だよ」
「本当にわからないの?」その女は呆れたようにため息をついて、「エマよ。思い出した?」
「は? え? エマ⁉︎」
昔と違いすぎてわからなかった。
波江エマ。
その女の正体は、苗字からわかるように里美の姉妹。彼女は里美の実の姉だ。
「にしても相変わらず、髪さらさらでムカつくわー。私のくせ毛分けてあげようかっての」
「気安く触るな」
「おーおー、顔が赤くなってる」
「うるさい……」
エマの細い指が俺の頭を撫で回す。さらに彼女は俺が赤面しているのを面白がって、指を顔や耳へと進行させてきた。
そこにドン、とテーブルを叩く音。
俺の隣からは嫉妬の炎が燃え上がっていた。
……まずい。里美の奴、怒ってる……。
「すっかり男の子の顔になっちゃって。この後ご飯でも行こうか?」
……え、何この人。隣の彼女が火の粉散らしてるの見えないんですか?
「ほらエマ、人のボーイフレンドに手出さないの」
エリアーヌ先生の注意でようやく、エマの手は止まった。
そのおかげか、里美も怒りもおさまったようだ。
「私は幼なじみとの再会を喜んでただけなのに」
……いや、とてもそうには見えなかったけど。
「そういえば、エマはいくつになったんだ?」
「21。私ももう立派な大人のレディーよ」
「言動が俺より幼い気がするんだが、気のせいか?」
「失礼ね! もっと年上に敬意を払ったらどうなの?」
エマは昔とずいぶん変わった。
今でこそこんなお喋りになっているものの、昔は人見知りで全く人と会話ができなかった。それは俺と里美の前でも同じで、俺たちがピアノを弾いているとき、エマはいつも影でこっそりこちらを見ていた。
一体どんな出来事が今の彼女を生み出したのだろう。
まあエマには後日、話を訊くとしよう。
今はそれよりピアノだ。早く練習して、早く里美とコンクールに出たい。
「先生、そろそろレッスンを……」
「もう少しゆっくりしていきなさい。何事もリラックスが肝心よ」
俺は十分にリラックスしている。悪いけど、先生やエマと話すためにここへ来たんじゃない。
「俺はピアノを弾くためにフランスまで来たんです。お願いします」
「何か焦る理由でもあるの?」
「俺は里美と約束したんです。『自分たちのピアノで世界を変えよう』って」
「あら、そんな約束していたの。でもそれならまずはゾーンに入らないと」
「ゾーン?」
「ピアノの音を体全体で感じられる状態のこと。あなたはまだピアノを弾ける状態じゃないわ」
「弾けますよ! 譜読みだってここにくる間にたくさん……」
「あなたねえ」
「1分1秒が惜しいんです! とにかく弾かせてください」
俺は躍起になっていた。
友と別れて、日本を出て、家を買って、俺のそのピアノに対する覚悟がかえって空回りしていたのかもしれない。
俺のねちっこい要求が功を奏したのか、
「はぁ……わかったわ。ついて来て」
エリアーヌ先生は諦めた。
そうして俺はレッスンルームへ連れて行ってもらうことになった。
「あなた、ラヴェルが好きなのよね?」
「はい」
「ならその先生のフォーレを弾いてちょうだい。あなたがラヴェルなら先生の曲を弾けて当然でしょう?」
そのあと、エリアーヌ先生から《シシリエンヌ》を弾くようにと曲の指名が入った。
「わかりました」
この曲は昔、じいちゃんが俺の前で弾いてくれた思い出のある曲。
わりと有名で難易度はそこまで高くない。これなら楽譜を見なくたっていける。
俺は早速弾き始めた。
「止めて」
「え?」
「全然ダメ」
それはまだ3小節目のこと。
「どうしてですか⁉︎ タッチミスは1つもしてなかったのに!」
「音を外さないのは当たり前。あなた、昔と全然変わってないのね。失望したわ」
俺は昔とは違う。今までピアノ部でこんなに練習してコンクールもたくさん出て優勝もして……それなのに何で……。
「こんな演奏、恥を晒すだけよ」
そしてエリアーヌ先生はとどめを刺すように言った。
「コンクール出場は認められないわ」
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