第28話 卒業

 卒業式。

 俺と里美、健一は今日、この学校を卒業する。


「私、絶対に川井先輩と同じ大学行きますからね!」


「うん、待ってるよ」


 健一はこれまでの成績と校内での功績により、無事大学の推薦を取ることができた。

 有紗も来年は健一の大学を一般受験するらしい。


 あんなセリフを言い合っているけど、どうせ健一のことだから、毎日勉強を教えに行くんだろう。

 とにかく2人が幸せそうで良かった。


「今まで本当にありがとう。一生忘れられない青春を送ることができたよ」


「礼を言うのはこっちの方だ」


「そうだよ。健一くんがいてくれたおかげで私たちも3年間、楽しかったんだから」


「2人とも……」


「いつか日本でコンサート開くから聴きに来いよ」


「そのときは健一くんと有紗ちゃん、2人分のチケットを送るね」


「……ありがとう。向こうでの活躍、祈ってる。ボンクラージュ」


 ……日本語で頑張れ、か。


 俺たちは無事、フランス行きが決まった。

あのラヴェル、ドビュッシーの聖地とだけあって心は高鳴るばかり。


 健一や有紗との別れは惜しくもあるけど、今は携帯という便利な機械でずっと繋がっていられる。


 今はあの約束を果たすことだけ考えよう。


「もういいの? この学校の空気を吸えるのも今日が最後だよ?」


「いい。今は里美とピアノ弾くことだけ考えたいから」


「そっか」


 里美は嬉しそうに返事した。


 それから俺たちは家に帰り、荷物の最終チェックをする。


「少年、どこか行くのか?」


 じいちゃんと話すのもこれが最後になるかもしれないんだな……。

 そう思うと、急に今までじいちゃんと過ごした日々が走馬灯のように流れてきた。


「ちょっと出てくる」


 別れの言葉は言わない。もし言ってしまえば、俺は悲しみの渦に巻かれてこの家から出られなくなる。

 

「ちゃんとしたお別れしなくていいの?」


「あれが俺のやり方だ」


「そっか」


 俺と里美は旅に出る。

 あの日交わした約束を果たすために。




◇◇◇◇◇




「純くん、大きくなったね」


「お久しぶりです。おじさん」


 フランスに着いてすぐ会ったのは、里美の父親だった。


「そんなのいいから早く車に乗せてよ」


「里美が家出してから3年、パパと久しぶりの再会だっていうのに、その態度は悲しいな」


「3年⁉︎ ずっと日本で私たちを監視してたじゃない!」


「はは、バレてたか」


 その後も里美は何度か催促して俺らはおじさんの車に乗った。


 話を聞くと、里美は高校時代一人暮らしをしていたんだとか。里美が言ってた家出っていうのはフランスからなんだと。


 ……だから俺の家にしょっちゅう来てたのか。


 おじさんも音楽雑誌の編集長というのはどうやら本当のようで、つい最近まで日本で仕事をしていたらしい。


 俺たちが出たコンクールや文化祭などは毎回聴きに来ていたと、おじさんから聞かされたときは驚いた。


「しかしあんな田舎町で良かったのかい? 若者はパリの方が住みやすいと思っていたけど」


「はい。パリは観光には良いですけど、住むにはうるさすぎるんで」


「そうか。純くんらしいね」


 このおじさんは昔から俺の味方だった。


 みんなに内緒でお小遣いをくれるし、休日には遊園地に連れて行ってくれるし、事故に遭って入院したときは毎日俺の見舞いに来てくれたし、今もこうして俺たちの新居まで案内してくれている。


 親以上に親らしい人だ。いっそ本当にこの人が親だったら良いのに、なんて思う。


「お金に困ったら私を頼っていいからね。本当は娘も住むんだし生活費を送りたいくらいだけど」


「大丈夫ですよ。事故の損害賠償でもらったお金がまだ残ってますから」


「いくらもらったんだっけ?」


「6500万です。今は半分もありませんけど」


 そう、これまで生活できていたのはこのお金があったから。

 普通、こんな大金を子供に持たせておく親はいないだろうけど、そこは慈悲と言うべきなのか、俺の両親は全額置いて家を出て行った。


 家のローン、高校の学費、じいちゃんの介護費を払って、それなりに減ってしまったけど、まだ数年持つくらいは残ってる。


 その間にいっぱい活躍してお金を稼がないと。


「着いたよ。ジェルブロワだ」


「すごい綺麗!」


「静かで良い街だな」


 ジェルブロワ。

 人口は100人ほど、30分で1周できる小さな村。

 ここはバラの村として有名だ。

 何でも、1年に一度『バラ祭り』が開かれるんだとか。


 車を降りて新居の前に立つ。


「娘のことを頼んだよ、息子くん」


「はい、お父さん」


「ちょっと! 私たち結婚するんじゃないんだからそういうのやめてよ!」


「どうせ数年後の話だろう?」


 彼女の父親は高らかに笑いながら再び車を発進させた。


「ごめんね、あんなパパで」


「昔と変わってなくて安心したよ」


 俺たちもややあって笑う。


「じゃあ入ろうか。私たちの家に」


「そうだね」




◇◇◇◇◇




「見て見て! 全方向から日差しが入ってくるよ。リビングは広くて、テレビもソファーもあって、2階にはピアノがある!」


 家に入るなり、中を走り回ってはしゃぐ里美。まるで家の中に小さな女の子がいるかのようだ。


「こんな家で純くんと暮らせるなんて、罰が当たらないか心配だよ」


「別に悪いことはしてないだろ」


 俺たちはこれから2人でここに住む。

そして9月にあるフランスの音大を受験する。

 それまでは受験勉強をしたり、コンクールに出たりして過ごす予定だ。


「少し疲れちゃったー。ハグ」


 ソファに座る俺に彼女の体がのしかかった。彼女の腕は俺の首に回り、強く抱きしめてくる。


「やめろ、里美はそういうキャラじゃなかっただろ」


「いいじゃん家の中なんだし。それに健一くんたちも結ばれたでしょ」


「もしかして健一に遠慮してたのか?」


「まあ多少ね。でもこれからはこうして好きなだけ純くんをいじめられる」


 里美は俺の耳に熱い息を吹きかける。それから彼女はいたずらっぽく笑った。


「ピアノ弾くぞ」


「えー」


「里美だって音確認しておきたいだろ」


「まあそれはそうだけど」


 俺が無理やりソファから立とうとすると、彼女はつまんないの、と呟いて俺から離れた。




「綺麗な音だな」


「そうだね」


 学校のとは比べ物にならないくらい良い音を響かせるピアノ。おじさんがわざわざ俺たちのために買ってくれたらしい。


 俺はピアノに無心で触れる。すると、グラスを指で弾いたような澄んだ音が出た。

 それは恍惚的な響きを持っていて、このまま里美と死ぬまで弾けたらどれだけ幸せなんだろうって思った。


「……里美の誕生日はここで祝いたいな。2人で弾いて、2人でケーキを食べて、2人で過ごしたい」


「ダメ。それは私がやるの。純くんの方が誕生日先でしょ?」


「そうだな。じゃあ楽しみにしてるよ」


 俺の誕生日は4月16日。あと1ヶ月だ。

 ちゃんと覚えててくれるかな?


「さて明日からママとのレッスン始まるんだし、今日はもう寝よ?」


 里美は俺の腕を掴んで歩き出す。


「待って」


 俺は手を伸ばし彼女の肩に触れた。


 それから首に触れ、頬に触れ、唇に触れ、最後にその柔らかく潤いのある唇に自分の唇を重ねる。



「純くん……」



「俺をここまで連れて来てくれてありがとう」

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