第25話 私と契約しませんか?
「何でお前がここにいる」
「川井先輩の緊急避難先と聞いて」
「別にお前が追いかけなきゃここには来ないんだが」
「そうですかー?」
あたかも当然のように相楽有紗は部室にいた。
「これ、すっごく高そうなピアノですね。スタインなんちゃらとか言うんでしたっけ?」
「スタインウェイな。でもこれはあんま音の伸びが良くないし普通の学校用ピアノだろうな」
「へー、そういうのよくわかりますね。私は音楽に疎いんでさっぱりです」
「そんなんで健一を追っかけられるのか? あいつ、結構クラシックマニアだぞ?」
「大丈夫ですよ。そのうち、音楽より私のマニアになりますから」
……どっからその自信は湧いてくるんだか。
「川井先輩の好きな曲、弾いてみてください」
「今、音楽より私の……とか言ってなかったか?」
「先輩と話すネタを作るだけですよ」
「そうかよ」
面倒ではあるけど練習にはなる。
俺はピアノ椅子に座り、体内に溜めていた息をゆっくりと外に吐き出した。
「弾く前からプロみたいな空気漂わせてきますね」
「静かにしとけ」
俺はそっと指を鍵盤に乗せた。
ショパン《別れの曲》
この曲はショパンが「最も美しい曲」と自画自賛したと言われている。
落ち着いた旋律から始まり、途中は激しく、そして最後は少しずつ穏やかになっていく。
まるで人の人生を描いたかのような曲。
これを健一が弾いたのは2年の文化祭だった。彼は1年のときからショパン好きだったけど、この曲には特に熱を入れていた。
でも《別れの曲》はショパンの中でもかなり難しい。ピアノ歴1年の人間が弾けるような曲じゃない。
だから彼は1年生の11月頃から約1年この曲を練習して本番に挑んだんだ。
その努力の甲斐あって文化祭は大成功。あのときは感動したよな。
だけどどうして彼がこの曲にこだわったのか。それは──
(2人とも、今までありがとう。ピアノ部を辞めても僕らは友達だからね)
その文化祭が終わったあと、健一はピアノ部を辞めた。
──《別れの曲》──
もしかしたら、彼はもともとピアノの部を辞めるつもりだったのかもしれない。俺たちに気を遣ってなのか、俺たちを見て嫌気が差してなのかはわからないけど。
「さすが天才ピアニストですね、月城先輩」
「何で俺の名前知ってるんだよ」
「そりゃ、色々調べましたから。川井先輩の親友、月城先輩のこと」
「へえ」
「と言ってもあなたには1ミリも興味ないですからね!」
有紗は声を大にして、わざわざわかり切っていることを言う。その初々しいしさが俺の口元を緩ませた。
「何が面白いんですか⁉︎」
「いや悪い。本当に健一のこと好きなんだなって思ってな」
「当たり前ですよ。私にとって先輩は白馬の王子様です!」
「白馬の王子様、か。俺にはただの男子高校生としか思えないけど」
「他人の評価なんて知りません。私のアオハルは誰にも邪魔できないんですよ!」
常にまっすぐで希望に満ちている子。健一のどの部分がそんな彼女を生み出したのだろう。
「どうしてあいつを好きになったんだ?」
「んーわかりません」
「いや、何かあるだろ。理由の一つや二つ」
「人を好きになるのに理由なんているんですか?」
「え?」
「私は川井先輩と出会って、直感的にこの人しかいないって思ったんです」
有紗は続けて言う。
「言っておきますけどね、理由付けしないと好きになれないって人は、仮に付き合えても、その理由を失ったらすぐ破局するんですよ」
その考え方は暴論と言われてもおかしくないものだったけど、あまりにも自信満々に言うもんだから、おかしくて反論する気も起きなかった。
「お前は健一と似て、変な奴だよな」
「もしかして褒めてます?」
「いいやまったく」
有紗はあーそうですか、と機嫌悪そうに言いながら鍵盤を鳴らした。
「そんなに好きなら告白の1つでもしてみりゃいいのに」
「もうしましたよ」
「まじで?」
……ということはつまり……。
「フラれちゃいました」
言ってすぐに笑い声を上げる彼女だったが、声がわざとらしくて人工的なものだとすぐわかった。
「どう断られた?」
「好きな人がいるから付き合えないって」
「それって里……」
「そうです。波江里美先輩のことです」
健一はピアノ部から身を引いて、本当は彼女のことを諦めたのかと思っていたけど、やっぱり気持ちは変わっていなかったのか。
「そこでです! 月城先輩、私と契約しませんか?」
「契約?」
「はい、私と川井先輩をくっつけてほしいん……」
「嫌だ」
「即答⁉︎」
何でそんな面倒事に付き合わないといけないんだ。付き合うのは里美だけで十分。
「そうですかー、もったいない」
「何が?」
「だって月城先輩、波江先輩と付き合ってるんですよね?」
……そんなことまで知ってるのか。
「見た感じ2人はラブラブですし、正直、川井先輩に勝ち目はないと思うんです」
「それは、うーん……」
「それに月城先輩もあんなに川井先輩に見られてたらチューの一つもできないんじゃないですか? っていうか、したことあります?」
「それくらいは……ある」
「嘘ですね。先輩、どう見てもそんな度胸なさそうですし」
「嘘じゃない! 俺だって里美を押し倒してな!」
とそこまで言って、自分がとんでもないことを言ってることに気付いた。
さらにそのときの記憶が浮かんできて顔が熱く……。
「うわっ、恥ずかしい」
有紗はわざとらしく声を高くして、ドン引きしていた。
……うるせえよ。
「とにかく健一の気持ちを無理やり変えるようなことはできない」
「そうですかー。終わった恋を気付かせるのも友達の役目だと思いますけどね」
今、こうして俺が里美と付き合えているのは健一のおかげだ。だから目障りなんて理由で健一を有紗とくっつけようという考えには至らない。でも。
「別に彼を会わせてくれるだけでもいいですよ。そうしたらあとは私がちょちょいと攻略しますから」
「お前、案外強い奴だな」
「どうしてですか?」
「だってフラれて、あんなに逃げられて、普通凹むだろ」
「そりゃ私だって凹んでますよ。死ぬほど苦しんでますよ。……でもやっぱり私は川井先輩が好きなんです」
有紗みたいに必死こいて頑張っている奴がチャンスもなく落ちぶれて行くのを俺は見たくない。
「わかった。協力するよ」
「いいんですか⁉︎」
「ああ。会わせてやるだけだけどな」
「ありがとうございます! あとは任せてください!」
気合十分なのはいいけど、羽目を外しそうで怖いな。
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